第八話 三日目 ノーブルヌの首都 天気晴れ
水の球に閉じ込めたのだからさぞ怒っているだろうと思えば、クリスティーナはにこやかだ。それに昨日とは違ってドレスのような服装だ。
「あら? レティの知り合い?」イリスが私に尋ねる。
「ええ……、知り合いと言いますか……」
「古いお友達ですのよ。クリスですわ」
「私はイリスよ。よろしく、クリス」
「ええ、よろしくお願いしますわ。レティとイリスはこちらに泊まっていらっしゃるの?」
「そうよ、でも明日の朝には出発するわ。良ければご一緒にどうかしら?」
イリスがクリスティーナを食事に誘う。私は内心、クリスティーナが断ってくれるように祈った。
「残念ですが、今ちょうど食べ終わったところですのよ。また、どこかで会うでしょうから、そのときにお願いしますわ」
「残念ね」
「本当に。ではレティ、イリス。またお会いしましょう」
貴族らしい挨拶をしてクリスティーナは店から出て行った。私は息を吐く。
「もしかして苦手な相手だった?」イリスが私の顔をのぞき込む。「だったら、勝手に誘ったりしてごめんね」
「いえ、そういうわけではないのですが……」
昨日戦ったばかりとは言えない。それにしても、ここで戦いにならなくて良かった。クリスティーナにそういう分別があることが分かった。そして、イリスはコミュ力が相当に高いことも分かった。実にしっかりした子だ。
宿に戻ってシャワーを浴びると、明日に備えて早めに寝ることにした。隣のベッドではもうイリスが寝息を立てている。寝付き良いなぁ。
私はそんな簡単に眠れそうにないので、ここまでのことを頭の中でまとめておくことにした。
どうやら馬車を襲ってきたあの黒ずくめの連中はアーベントロートの者たちだったようだ。ということは、私はまだ追われているわけだ。捕まえて残り二千四百九十年の刑期を全うさせようということかしら? 追っ手があの五人だけとは限らないし、次々と追ってくる可能性もある。嫌な可能性だ。
魔法で気配を消していたはずなのに、どうして馬車に乗っているのが私なのか分かったのかは分からない。シャワーを浴びたときにも念のため体を調べてはみたのだけど、別に何か埋め込まれているような痕などもなかった。
それにやっぱり、クリスティーナ・ベステルノールランドにも追われているのだと思う。先ほど食事処で会ったのも偶然ではないはずだ。どんな因縁があるのかは、依然としてレティシアが記憶を閉ざしてしまっているので分からない。大した因縁じゃないと良いのだけど。
フィクスは自分のことを盗賊だと言っていたけど、今のところ極めて紳士的だ。旅慣れしているし、この先の道連れにも必要な人物だ。でも、安心はしていない。もし、シュタール帝国かハーフルト連合王国の手の者だとしても驚かない。
イリスはどうだろう? 子供らしからぬ強さ、コミュニケーション能力を持っている。しゃべり方も幼い子のそれではない。彼女もシュタール帝国かハーフルト連合王国の者かもしれないとうっすら疑っているのだけど推理小説の読み過ぎだろうか?
いや、警戒するに超したことはないだろう。なにせこの世界では今のところ、私が心を許して良い人は一人もいないのだ。油断すると再び牢獄行きか、あるいは戦争の道具にされそうだ。やむなくクリスティーナのことは攻撃したけど、私は本来そういうのは好きではない。
レティシアの中の私、つまり風里 璃奈子には取り立てて何の能力も、大した知識もない。普通の短大生だったのだ。異世界転生と言えば、前世の知識やスキルを生かして大活躍する話(と聞いたような気がする)のはずだけど、私にはこの世界で生かすべき知識やスキルがない。
数少ない趣味だった読書も歴史や推理の類いではあまり役立ちそうにない知識だ。サバイバルものでも読んでおけば良かったかしら。
明日ここを出発すると、サンブゾン村を経由して、国境を越えてレッジアスカールックに入る。イリスはサンブゾンに何やら用事があるようだったので、次第によってはそれを手伝って、なるべく早くノーブルヌの国を抜けた方が良いだろう。
ベルナディス大公国にはレティシアのアジトがあるはずだ。ひとまずの目的地だ。でも別にアジトに目的があるわけではなくて、ぶらぶらしていても仕方ないからとりあえず行ってみるだけだ。アジトが追手にバレている可能性はある。安息の地かどうかは行ってみなければ分からない。
こうして考えると、この世界には安心できる場所もなければ、安心できる家族や仲間もいない。そう考えると実に寂しい話だけど、新しい土地や出会いにちょっとワクワクする自分もいる。元の世界では旅行が趣味というのは理解できなかったが、今はちょっと分かるような気がする。
そう言えば、元の世界の私はどうなってしまったのだろう? 今さらながらに不安になる。死んでしまったのかしら? それにレティシアの魂はどこに行ってしまったのだろうか。老人看守の様子を見るに、レティシアが死んでしまったような感じはなかった。私自身のことを深く考えると色々怖くなってきた。
それに何か大事なことを忘れているような気がする。何かを探さないといけなかったような……。
「……レティ、起きてる?」目を閉じて考え込んでいた私はいつの間にやらイリスが耳元に来ていることに気付かなかった。カーテンの隙間から入ってくる月灯りでなんとかイリスの表情が見える。
「! ……起きてます」小声で問いかけてきたイリスにあわせて私も小声で答えた。
「静かにね」イリスは口に指をあててしーっの身振りをした。これは私のいた世界と共通のようだ。「お客さんが来たみたいだから、ここから出るわよ」
つまり襲撃ということかな?
「! 襲撃ですか? フィクスは?」
「壁を軽く叩いたら返事があったのでフィクスも気付いてると思う」フィクスの部屋は隣だ。「あなたの荷物は持ったわ。離れないでね」
イリスは大きなリュックを背負ったまま、姿勢を低くして窓のそばまで移動した。私も後に続く。
またアーベントロートの者だろうか? どうせバレているのなら気配を消す魔法を解いたほうがいいだろうか? などと考えていると、ガシャーン!と大きな音を立てて窓が内側に砕け落ちた。そこから黒ずくめの男が一人飛び込んできた。
「はっ!」
イリスが掛け声とともに蹴りを繰り出すと、男は吹っ飛んで壁に叩きつけられて動かなくなった。
「行くわよ! レティ!」イリスが突然私をお姫様抱っこすると、ガラスの抜けた窓から飛び降りた。
「!」
飛び降りた先、道のどちらにも黒ずくめの男が数名待ち構えていた。暗かったので黒ずくめに見えたが、馬車を襲ってきた連中と同じローブだ。やはりアーベントロートだ。
「無事か?」フィクスも隣の部屋の窓から飛び降りてきたようだ。見ればフィクスの部屋の窓もガラスが抜けている。
「倒す? 逃げる?」イリスがフィクスに問う。
「あまり大ごとにしたくなかったが、こう大きな音が立ってしまっては無理だな」フィクスが宿を見上げると、他の部屋も灯りが点き、窓から下を見ている者もいる。
「じゃ、片方倒して逃げるわよ。フィクスはレティを守って」
イリスは私をフィクスに託すとすごい勢いで大通りとは逆の方に駆け出した。私たちもそれに続く。
「せいっ!」
イリスは躊躇なく、剣を構えた五人ほどの黒ずくめの男たちの中に飛び込むと、拳と蹴りだけであっという間に倒してしまった。
「急いで!」イリスの後に続いて私とフィクスも駆け出した。
三日目はまだ続きます。
次回は明日です。