第三十三話 ユニオール暦八百七十三年七月三日 リーゼクーム海峡 天気暴風雨
操舵手が右に左に舵を切るたびに船体がギシギシと苦しそうな悲鳴を上げる。すでに帆は最小限に畳んでいるのだけど、それでも風に大きく煽られる。操舵室の前には船員がずらりと並び、双眼鏡を見ながら状況を観測して船長であるトールヴァルドに逐次報告している。
「左前方3-5-0、距離四千バーラ付近に岩礁!」
「進路0-1-0!」
トールヴァルドの指示に従って操舵手が舵を切る。船が右に傾く。普段の海であれば簡単な操船だが、この大荒れの海では進路を少し変えるだけでも熟練の技が必要だ。
「想定以上でしたね」
トールヴァルドの席の横に立つ副官らしき船員が呟く。
「まったくだ。これほどとは正直思ってなかったわ。だがもう戻れん」
トールヴァルドは船長のための椅子に座り正面を見据えている。操舵室前面の窓に激しい雨が打ち付ける。視界は極めて悪い。
指示を間違えばベアトリスは一瞬で木っ端微塵だ。気を抜くわけにはいかない。
「魔力は大丈夫そうか?」
「減りが激しいですね。状況を報告させます」副官が答えた。
船の姿勢制御装置は魔力を動力源としている。船が傾きすぎたときに戻したり、極端な負荷が掛かったときに軽減させる役割を担う装置だ。これがなければ荒れた海は渡れない。
装置に魔力を充填するのは魔法を使える船員ということになるが、あまりに減りが激しいと補充が間に合わなくなる可能性もある。
最悪の場合はレティシアに頼むしかないな。
トールヴァルドとしては船のことは極力自分たちで何とかしたいのだが、意地を張って座礁や転覆するわけにはいかない。
暗礁が船底をかすったか、船が大きく左側に傾いた。
「進路そのまま! 姿勢保て!」
操舵手が右へ左に舵を切って傾きが小さくなっていく。
「これでは休憩と言っても休まりませんな」副官が苦笑する。
「そうだな」
リーゼクーム海峡を通過するに当たって、船員を二班に分けて半分が動いている間にもう半分は休憩するシフトを組んでいる。寝不足や疲労状態では乗り切れないからだが、この状況では休むと言っても限界はありそうだ。
「この海図通りに島があれば良いんだが」
ペイロの町で船を修理する業者がリーゼクーム海峡の海図があるというので譲ってもらったのだ。眉唾ものとは思っていたけど無いよりマシくらいな淡い期待で買ったのだが、海峡に入ってみると案の定海図とはかけ離れたものだ。
「信用できぬ海図ですが信じたくはありますな」副官も同意する。
海図によれば海峡を三分の一ほど進んだところに小さな島があると記されている。本当にあるなら少しは休める可能性もある。
「まぁあるかどうか分からんものに過度な期待をしても仕方ない。とにかく進むしかない」
海峡に突入して二日目、間もなく日が暮れようという時間だが相変わらず分厚い黒雲に遮られて太陽は見えない。幸い雨は小降りではあるが、相変わらず波は高く風も強い。
船員のシフト交代はすでに六回に渡っており、休んではいても疲れが取れなくなってきている。
トールヴァルドは船長としてほとんど交代せず操舵室に詰めている。頑強な彼女だが、そろそろ疲れもピークに達しようとしているのを感じていた。
「トールヴァルド様、そろそろ休まれた方が良いかと」副官がトールヴァルドに言う。ちなみに海賊船ベアトリスには三名の副官がいる。彼らも交代しながら各所への指示を行っている。
「そうだな」
正面の荒れ海を見据えていたトールヴァルドは、ふと高い三角波の向こうに黒い影を見たような気がした。
「前方に何か見えなかったか!?」
トールヴァルドの声に観測手たちが双眼鏡を握り直して目を凝らす。
「前方0-1-5、距離一万二千バーラ付近に小さな島を発見!」観測手の一人が声を上げた。
「海図の島、でしょうか?」
「分からんが確かめてみる価値はありそうだな」トールヴァルドが命じる。「進路そのまま! 島を確認する!」
波を越えて進んでいくとゴツゴツした岩で覆われた島が見えてきた。
「周囲二、三万バーラのほどの小島のようです」
「停泊できそうなところはあるか?」
幸い島の周囲はそれほど波が高いわけでもない。
「その先の岩陰になっているところが良さそうです」
島の西側に小さな湾のようになったところがあり、そこは波もかなり穏やかだ。
「よし、そこにいったん停泊しよう。深度気を付けてな」
「はっ!」
船員たちがいっせいに停泊の準備に掛かる。指示に対する動きの素早さがトールヴァルドの自慢だ。
「島があったって?」後ろから声を掛けられた。イリスレーアだ。
「ああ、停泊できそうな小さな湾もあった」
「穏やかそうね。少しは休めるかしら」前方に迫った湾を見ながらイリスレーアも少しホッとしたようだ。
「ああ、さすがに上陸はできないだろうけどな」
船はゆっくりと小さな湾に入った。甲板に出た船員たちが岩にロープを渡して船を固定する。
揺れがほとんどなくなるとトールヴァルドはフッと息を吐いた。
「明朝までここに停泊する! 疲れている者は休んで疲れをとっておけ!」
トールヴァルドの言葉にそれまで張り詰めていた空気が少し和らいだ。みな口には出さないがホッとしているだろう。
「ねえ、トールヴァルド」操舵室右側の窓から湾の中の方を見ていたイリスレーアがトールヴァルドに声を掛けてきた。「ちょっと見てほしいの」
イリスレーアが見ている方に顔を向けたトールヴァルド。でも見えるのは湾の内側、小雨が降り続けているものの波も穏やかでとくに変わったものはない。
「何も見えないがどうしたっていうんだ?」トールヴァルドは席を立ってイリスレーアの横まで来た。それでも窓の外に変わりはない。
「湾の反対側、ちょっと空間が歪んで見えない? まるで船の形みたいに……」
イリスレーアの言葉を聞いて目を凝らしていたトールヴァルドが目を丸くして振り返って叫んだ。
「総員戦闘準備! 右舷防御魔法陣展開用意!」
せっかく休めると思ったら何かいました。
続きは明日です。




