第百九話 ユニオール暦八百七十三年八月十六日 世界各地
◆ノーブルヌ城 天気晴れ
城内の私室に戻るとノーブルヌ王は大きく息を吐いた。ソファーに沈み込むように座ると目を閉じた。
「今日もお疲れですね」
王妃が声を掛けながら王の前のローテーブルにお茶を出した。
「うむ、だが疲れたとは言ってられぬ」
目を閉じたままノーブルヌ王が答えた。
シュタールがハーフルトに攻め込んで五日。すでに大勢は決しつつある。シュタールの圧勝だ。まさかこれほどまでにハーフルトが脆いとはノーブルヌ王も考えてなかった。連合王国の限界なのだろうか。
ノーブルヌはハーフルトを構成する国の一つヴィルケスと国境を接している。そのヴィルケスは昨日、シュタール軍の侵攻に対して早々に白旗を上げたそうだ。
これで超大国となるシュタール帝国と国境を接することになる。
疲れのもとは東側だけではない。西側のレッジアスカールックでは大規模な暴動が発生し、各地に飛び火している。すでに法王とクラルヴ王子がカンペリエを脱出したとの噂もある。
もともとノーブルヌはレッジアスカールックと仲が悪いのでどうなろうと良いという面もあるが、暴徒たちがどう動くかを注視しなくてはならない状況だ。
「ふう」
ノーブルヌ王はまた息を吐いた。年も六十を超え、最近は体の無理も利かなくなってきている。本当なら今年で引退して、王位を息子に譲る予定だったが、この状況ではそんな場合ではない。
「お食事になさいますか? それとも少し休まれますか?」
「夕食にはまだ少し早いし、もうしばらく休む」
「医師を呼びましょうか?」
「いや、大丈夫だ。心配掛けて済まぬな、アントネッラ」
王妃アントネッラがノーブルヌ王に少し不安そうな微笑みを見せる。そう言えば、アントネッラはルベルドー王家出身だ。彼女も実家のことが心配に違いない。
「シュタールがハーフルトに侵攻したことで、ルベルドーの調停は無駄になってしまった。だが、両国の平和を望んでいたルベルドーにシュタールも厳しくは当たるまい」
「そうだと良いのですが……」
シュタールが次に攻めるとすればおそらく北のヴァーレクだ。しばらくはルベルドーは大丈夫だろう。その間に我が国はラスムス、ルベルドーとの同盟を強化する必要がある。
「まだまだ引退してられぬな」
そんなノーブルヌ王のつぶやきをただ心配そうに見つめるしかないアントネッラだった。
◆ドンカーク首都ボスフェルト 天気曇り
その封書には差出人が書かれていなかったが、アマリアにはナサリオのニーラロからだとすぐに分かった。封蝋がアルフシュトレーム商会時代からニーラロが使っていたものだったからだ。
「差し出し日は八月十二日と……」
アマリアは封書から手紙を取り出して読み進んでいく。最後の行まで読むと、その手紙を燭台の火にかざして灰にした。
新しい情報は無しか。
手紙にはオースルンドが軍勢を整えていると書かれていたが、その後レッジアスカールックで暴動が起きた今となっては、オースルンド単独でフェーディーンを攻める力はあるまい。
ナサリオで別れて以来フィクスからの連絡も無い。世界がこれほどに動いている今、情報が少ないことを残念に感じる。
アルフシュトレーム商会が存在していれば、いい稼ぎ時だったろうに。
と思わざるを得ないアマリアだった。
とはいえ稼いでいられるような状況でもないようにも思う。ドラゴンの群れが空を舞い、各地で戦争やら内乱や暴動が起きている今はどう考えても異常だ。
もしかしてレティシアさんはアンシェリークの秘宝を手にしたのかしら?
その後の状況が想像しかできないのがもどかしい。だが秘宝を手にしたのであればドラゴンたちを自由に操る力を得ていても不思議はない。
でもだからといってレティシアさんは町を襲わせるようなことはしないわよね。
アマリアは首を振って席を立ち、窓の外を見た。夕暮れが深くなってきた。
◆アンハレルトナーク城 天気晴れ
「陛下、アルーンの町にドラゴンの群れが現れたとの報が入りました!」
「なに? またか」
首都ヴァーレの東にあるベントソの町にドラゴンの群れが出たのはほんの二日前だ。今度はさらに東の町アルーンとは。
「すでに第四師団がアルーンに到着し、住民の避難を行っているとの一報です」
「うむ。下がって良いぞ」
ディートヘルム王は報告をした兵士を下がらせると、護衛に立っていた別の兵士に告げる。
「騎士団長ニークヴィストに十名ほどの騎士を応援に向かわせるように伝えよ」
「はっ!」
これで大丈夫なはずだ。
ベントソの町にドラゴンの群れが現れた時には自分も出張っていったが、騎士の数が揃っていれば撃退すること自体はそれほど難しくないことが分かった。第四師団には十名の騎士が常駐しているので、応援とあわせて二十名。撃退は容易だ。
しかし、ただ撃退するだけではまた別の町に現れるかもしれん。
倒すまでは至らないのが歯がゆいところだ。しかし、ドラゴンの鱗には剣も魔法も通じない。騎士の力押しで退けるのが精一杯だ。
「陛下、お話を続けてもよろしいでしょうか?」
「ん、ああ、再開しよう」
ドラゴンの群れの報告で意識がそちらにいってしまったが、今は内政官たちとの会議の最中だった。この非常事態に内政の話をしなければならないのはもどかしいところだ。
内政官たちの報告とそれに対する意見交換をどこか他人事のような気持ちで聞いていると、また扉が勢いよく開いて兵士が飛び込んできた。
「陛下! 会議中失礼いたします。帝政メジェンツがテサジークに攻め込みました!」
「なんだと!」
つい先日テサジークがヴァーレクに攻め込んだと思ったら、今度はメジェンツがそのテサジークへ攻め込んだか。
「むむむ」
ディートヘルム王は唸った。シュタールとハーフルトのバランスが崩れたことが原因なのは間違いない。シュタールの北に位置するこの三国はある程度強調してシュタールに当たってきた。以前シュタールがヴァーレクにちょっかいを掛けた時にはメジェンツもテサジークもヴァーレクに援軍を出した。
しかしシュタールがハーフルトを飲み込もうとしている今、三国はそれぞれこのままではシュタールに対抗できないと感じているのだろう。
「シュタールめ……」
思わず口から恨み言が漏れた。内政官たちが心配そうにディートヘルム王を見つめている。だが、戦争に関することを彼らに相談しても意味が無い。ひとまずニークヴィストと話をしなければならない。
「ニークヴィストを呼んでくれ。内政官たちはひとまず下がれ。会議は後日に改める」
内政官たちが下がっていく。部屋に残ったディートヘルム王は腕を組んで思考の海に沈むが考えなくてはならないことが多すぎる。
エストを早く呼び戻さねば……。
エストがクラウディアの件をイリスレーアに報告するためにノーブルヌ方面へ向かったのが七日前だ。それ以降の連絡は入っていない。
こういうときに状況を整理して最適な回答を導いてくれるのがエストなのに、こんなときにいないとは。
ついでにイリスレーアも呼び戻した方が良いかと考えた時に扉をノックしてニークヴィストが入ってきたので、その考えは中断してしまった。
◆バーンハルド首都アルベルティナ 天気晴れ
夕暮れの港はいつもと違う雰囲気が漂っていた。十の桟橋には普段なら多くの商船が群がるように係留されているのだが、今は一隻の商船も目に入らない。
「イクセル王子! 準備整いました!」
イクセルが兵の方に目をやると桟橋に小型の帆船が待機している。甲板には数名の兵士が敬礼しながらこちらを見ている。
「分かりました。行きましょう」
小型の帆船に乗り込み、沖を見れば数十の戦闘船がイクセルの到着を待っている。
「出港します。お掴まりください」
兵の声に帆船中央のマストに手を添えた。
桟橋の根元にバーンハルド国王の姿が見えたので、イクセルは気は進まないながらも敬礼すると、国王が笑顔でこちらに頷いた。
帆船が沖の戦闘船に近付いていく。大型の戦闘船に乗り換えて向かうのは、もちろんレッジアスカールックだ。イクセル王子とともに、バーンハルドの兵が約四千名、騎士と魔法使いもいる。
イクセルよ、今こそレッジアスカールックを取り戻す好機だ。兵のことは任せよ。
レッジアスカールックで起きた暴動の報を受けたバーンハルド王の言葉が思い出される。この機に兵を送ってカンペリエを奪取するのだと王はイクセルに言った。
私のことを考えてくれているように見えるが、結局はバーンハルドが実質的にレッジアスカールックを押さえたいだけだ。
イクセルは気付いていたが、流浪の身を保護してもらっている以上、否とは言えなかった。
父と弟はすでにカンペリエを脱出してしまっているとの報告もあった。イクセルに課された役割は、暴徒を説得して自らを王として新しいレッジアスカールックを作ることだ。
暴徒の説得などできるわけがない。
そう思ったが、バーンハルドの文官も数名同行して、説得を手伝うとまで言われてしまえば仕方ない。
戦闘船が間近に見えてきた。かなり大きく、それに数も多い。バーンハルドの主力海軍だ。
ことここに至っては腹を決めるしかない。なんとしてもレッジアスカールックを手に入れて、その勢いで……。
小型帆船が戦闘船に接舷したところでイクセルはそこで考えるのを止めた。だが、頭の中にはイリスレーア姫の姿がはっきりと映っていた。
これで第三章は終わりです。
次話から四章に入ります。
年内の更新はこれで終わりで、次話は1/3の予定です。