第17章 幻影の泉
「ん?」
ふと目を開くと、そこには真っ暗な世界が広がっていた。
「何処・・・ここ?」
辺りを見渡しても誰も居ない。
そのせいで頭が混乱してしまい、心の奥には強い不安感が生まれてしまう。
「悠人?」
そんな不安を感じていると、後ろから聞き覚えのない綺麗な女性の声が聞こえた。
けれどその声を聞いた途端に全身に悪寒が走り、強い恐怖のせいで、ふり向こうにも体を動かせない。
「ごめんね。まだ・・・話せないの」
後にいる人は穏やかな声でそんな意味の分からない事を呟くと、何かを引きずる音を立てながら、僕に近付いて来る。
そのせいで心臓はうるさいほど高鳴り、心臓は命の危機を伝えていた。
そしてその人の氷の様な手が背中に触れると、体がビクッと反応してしまう。
けれど、その手は僕を落ち着かせるように僕の背中を摩ってくれた。
「おやすみ悠人。今度会ったら・・・ちゃんとお話ししようね」
そんな穏やかな声が聞こえた。
その人の顔は見えないけど、きっと笑っていたんだろうと思ってしまう。
そんな事を思っていると、後ろから何かを引きずる音がゆっくりと遠のいて行く。
いつのまにか悪寒は止まっており、心の中には懐かしさだけが残っていた。
「・・・おやすみなさい」
「おはようじゃなくて?」
その声にハッと目を開けると、ゆいの綺麗な風色の眼が僕を覗き込んでいる事に気が付いた。
「あっ、おはようゆい」
「おはよ」
ゆいは僕に笑みを見せると、僕の隣に機嫌がよさそうに座った。
ぼーっとした頭を必死に回して寝ぼけている頭をハッキリさせようとすると、鈴のような声が耳に届いた。
「おはよう悠人、ご飯できたよ」
声が聞こえる方に顔を向けると、白い前掛けと三角巾を付けた姉ちゃんが、白米と汁物を盆に乗せて、それを卓袱台の上に優しく運んでいるのが見え、その卓袱台の上にも視界を向けると、六人分のご飯と汁物が並んでいるのが見えた。
その卓袱台を見ていると、自分が寝てしまう前の記憶がぼやけた頭から顔を出してた。
「そう言えば姉ちゃん、昨日大丈夫だった?」
「昨日?もしかしてお酒の事?」
そんな姉ちゃんの問いに頷くと同じくらいに、両手に湯呑みを持った雷牙さんが、少し空いている襖を足で開けてこちらにやって来るのが見えた。
雷牙さんは僕に気が付いたのか、湯呑みを卓袱台の上に置くと、座っている僕と同じ目線に屈んだ。
すると雷牙さんは、とても申し訳なさそうな表情をそのかっこいい顔に浮かべた。
「昨日はすまん、悠人」
「えっ、どういう意味ですか?」
「私が説明するよ」
申し訳なさそうな顔をする雷牙さんに問い返していると、その後ろからサラシを腰あたりまで巻き、お肉を乗せたお皿を6つ一変に運んでいる桜さんがやって来た。
そしてそのお皿を卓袱台に並べながら、僕が分からない事を説明してくれた。
「昨日お酒飲んだでしょ。でもあれお酒じゃなくて、お酒に似せた眠り薬でね、それを悠人達が飲んじゃったから寝ちゃってたの」
「あっ、そうなんですね」
桜さんはお肉を卓袱台の上に置き終えると、みんなに笑顔を向けた。
「さっ、みんな座ってご飯食べよう」
「じゃあ、私は琴乃起こしてきます」
雷牙さんはそう言い残すと、家の中にもかかわらず、 走って隣の部屋に行ってしまった。
そんな予想外の行動に少し引いてしまっていると、ゆいの笑いを堪える様な声が聞こえて来た。
「お姉ちゃん・・・髪」
そっちの方を見てみると、そこには赤い髪が不自然に立った姉ちゃんが立っていた。
その姿を見て、姉ちゃんに失礼だけど笑ってしまう。
「あー・・・多分、三角巾のせいだね」
姉ちゃんのその顔は笑っているけど、頰が赤くして何処か恥ずかしがっているの事が目に見えて分かった。
「雅、ちょっとこっちおいで」
そんな姉ちゃんに桜さんは手招きをし、姉ちゃんは少し首を傾げながら桜さんの隣に行くと、桜さんは姉ちゃんの髪を手ぐしで整え始めた。
すると、姉ちゃんの跳ねていた髪は水で濡らしたように伏せてしまい、桜さんが指を鳴らすと、濡れた髪が一気に乾いた。
「はい、これでいいよ」
桜さんが優しい笑顔を姉ちゃんに向けると、姉ちゃんは顔を赤らめて、頭を下げた。
それを見ていると、急に襖を強く開ける音が聞こえた。
(何!?)
そちらに反射的に顔を向けると、そこには髪を解いた灰色の浴衣を着ている琴乃さんが立っていた。
その腰までかかる灰色の髪を見て、一瞬琴乃さんを女性と勘違いしそうになってしまう。
「おはようございます」
寝ぼけているのかその琴乃さんの緑色の左眼は、焦点が合っていないようだった。
「あっ、おはようございます」
「おはよう琴乃、さぁ、座ってご飯食べよう」
桜さんと僕の言葉に、琴乃さんは小さく頷き、よたよたとおぼつかない足取りで卓袱台の前に正座をすると、琴乃さんが開けた襖の奥から大きな足音が聞こえて来た。
「すみません!遅れました!!」
大きな声を出しながら雷牙さんが隣の部屋から飛び出してくると、その勢いのまま器用に琴乃さんの横に胡座をかき、黄金色の眼を輝かせた。
そしてみんなが卓袱台の周りに揃うと、桜さんはとても綺麗な笑顔を僕達に向けて来てくれた。
「うん、じゃあみんな揃ったね。よいしょっ、頂きます」
空いた場所に座った桜さんの言葉に合わせて、みんなは合掌し、ご飯を食べ始める。
それに合わせて僕もご飯を口に運んでお米を噛むと、寝起きの頭にちょうどいい甘さが口の中に広がっていく。
暖かい味噌汁をゆっくり啜り、お腹の奥に感じる心地がいい熱を感じていると、硬いものが何かに当たる音がした。
(んっ?)
音がなる方を見てみると、桜さんの腰に差している刀の柄が卓袱台に何度も当たっているのが見えた。
「あ、ごめんね」
桜さんはすぐに僕達に謝ると、腰に差していた刀を鞘ごと抜き、鞘を膝裏で挟むと、いつでも刀を持てる様に構えた。
「えっと、どうして刀を置かないんですか?」
僕達の神器が綺麗に置かれている部屋の隅を見ながらそう桜さんに聞いてみると、桜さんは何処か暗い小さな笑みを浮かべた。
「敵が来てもすぐに反応できるように」
そんな桜さんの笑みと言葉は食卓の暖かい空気を一気に壊し、冷たく気まずい空気が辺りに漂い始めた。
「人間、か?」
雷牙さんの言葉を聞いて、僕の心音は少し跳ね上がってしまうけど、そんな僕とは対照的に桜さんは笑みを少し深くした。
「いや、不死とかだよ。人間は話にならないからね」
桜さんの笑みが怖くなると、自然と箸が止まってしまい、周りからは咀嚼音が聞こえなくなってしまった。
「桜殿、服はどうやって取りに行けばいいですか?」
そんな暗い空気の中、琴乃さんが全く関係のない話をし始めて驚いてしまうけど、琴乃さんのお陰で、辺りの冷たい空気は何処かへ行ってしまった。
「あっ、それはゲートですぐに行けるから大丈夫だよ」
「ゲートって、あの紫色のやつ?」
「そうそう」
ゆいの質問に答える桜さんの顔にはさっきまでの暗い笑みはなく、とても嬉しそうな笑みを浮かべていた。
その笑みを見ていると、辺りはさっきの暖かい空気に戻り、みんなの箸が進み始めた。
しばらくして、みんなの白米と味噌汁が無くなると、他のみんなは合掌して目を伏せた。
「ごちそうさまでした」
それに合わせて僕も合掌すると、桜さんは誰よりも速く立ち上がり、みんなの食器を重ね始めた。
「手伝いますよ」
「大丈夫」
姉ちゃんが桜さんを手伝おうとするけど、桜さんはそう微笑み、重たそうな食器をさったさと持って行ってしまった。
そのせいか、姉ちゃんの顔は少し暗くなっていた。
「ね、姉ちゃん、大丈夫?」
少し暗い顔をした姉ちゃんにそう小声で声をかけると、姉ちゃんは僕の頭を急に撫で始め、それに驚いてしまう。
「うん、大丈夫だよ」
綺麗に微笑んだ姉ちゃんの顔を見てか小っ恥ずかしくなってしまい、急いで姉ちゃんの手から頭を引くと、姉ちゃんはかなり残念そうな顔をした。
そのせいで、胸の奥がズキリと痛んでしまう。
「やっぱり仲が良いね」
そんな罪悪感を感じていると、桜さんがいつのまにか戻って来ていた。
その言葉に僕達のやり取りを最初から見ていたのだと理解すると、僕の顔が熱くなってしまい、ふと姉ちゃんの方を見てみると、姉ちゃんも顔を赤らめて、両手の指先をもぞもぞと動かしていた。
穴が入ったら入りたい様な恥ずかしい気持ちを感じていると、眼をはっきりとさせた琴乃さんが桜さんは顔を向けた。
「桜殿、紬はどこにありますか?」
「今から持ってくるよ。ちょっと待ってて」
琴乃さんに桜さんはそう答えると、また急ぎ足で何処かへ行ってしまった。
そんな桜さんの帰りをおとなしく待って居ようと思い、姉ちゃんの隣に正座で座り直すと、視界の端にいたゆいが少し嫌な顔をした。
「ゆ、ゆい?どうしたの?」
「・・・別に」
ゆいがどうして急に不機嫌になったのか無能な頭で考えていると、その答えが出るよりも速く、僕たちの紬を抱えた桜さんが急ぎ足で戻って来た。
「遅くなってごめんね。はい、琴乃達の紬」
桜さんは抱えている紬を綺麗に床に膝を付けると、紬を僕達が取りやすい様に並べてくれた。
「ありがとうございます」
琴乃さんは桜さんにお礼を言い、自分の紬を持って隣の部屋に行ってしまった。
「あ、ありがとうございます」
「別にいいよ」
僕も桜さんに頭を下げ、置いていた僕の紬を持って琴乃さんとは反対側の方の部屋に向かう。
足を運んだ部屋で浴衣を脱ぎ、良い匂いがする紬を羽織って帯で止めようとすると、目の端でなにかが動いた。
そちらに慌てて首を向けると、そこには小さな鏡があった。
「なんだ・・・鏡か」
その鏡に映る自分のくしゃっと笑っている姿を見て少し安心し、紬の帯を締めて地面に広がった浴衣を綺麗に畳む。
そしてゆい達がいる部屋に戻ろうとするけど、布が擦れる音を聞いて急いで足を止める。
(危な!!)
姉ちゃん達が着替えているのだと分かり、大人しく待って居ようと襖の陰に座る。
けれど布が擦れる音が聞こえるせいで、頭で恥ずかしい妄想をしてしまう。
(・・・最低だよ)
自分の頭を軽く叩き、自分の煩悩を打ち消そうとするけど、どうしてもその妄想が止まらず、何度も頭を叩く。
「悠人?」
激しい痛みの中でそんな綺麗な声が聞こえ、慌てて頭を上げると、困ったような顔をしている桜さんが僕の隣にいつの間にか立っていた。
「どこか・・・痛いの?」
「あっ、いえ!そういうわけじゃありません」
僕の言葉を聞いてか桜さんは大きな胸は抑えて安堵の息を吐くと、その胸を撫で下ろした。
「よかった」
そんな桜さんの安心しきった顔を見ると、鼓動が高鳴り、顔が熱くなってくる。
「何してるの?」
顔の熱とあの人に感じていた様な感情を感じていると、すごい怖い声が桜さんの後ろから聞こえ、恐る恐るそっちを見てみると、そこには後ろに何かが見えるほどの覇気を纏ったゆいが立っていた。
「え、えっと、着替え終わるのを待ってたんだよ」
慌ててぬいそう答えるけど、ゆいの後ろにある覇気は変わらず、逆に強くなっているような気がする。
そんなゆいに恐怖を感じていると、姉ちゃんらしき綺麗な手からゆいは引っ張れ、向こうの部屋からは布が凄い勢いで擦れる音がし始めた。
その音を聞いて困惑していると、桜さんが僕に手を差し伸べてきた。
「あっ、ありがとうございます」
「別に大丈夫だよ」
桜さんに頭を下げてその柔らかい手を取って立ち上がると、向こうの部屋から聞こえていた布が擦れる音がいつの間にか止まっていた。
そっと襖の影から頭を覗かせると、放心状態で綺麗に紬を着たゆいと、額の汗を拭いながら満足げな顔をしている姉ちゃんがゆいの前で膝を付いていた。
「おまたせ悠人」
「あっ、うん」
なんとなく何も触れない方がいいなと独りでに思っていると、その姉ちゃんの後ろから、髪を後ろにまとめた琴乃さんと雷牙さんが隣の部屋からやってきた。
「では桜殿、服を取りに行ってまいります」
「あっ、それなんだけどね。良かったらみんなで行ってくれない・・・かな?」
「なんで?」
放心状態から帰ってきたゆいが桜さんにそう質問すると、桜さんは少しだけ笑ったけど、その笑みには何か暗いものが感じ取れてしまった。
「西の守り人に会ってほしいから」
その桜さんの話を聞いたゆいは急いで短剣を背に背負い、とても楽しそうな笑みを浮かべた。
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「雅、よろしくね」
そんな桜さんの話を思い出す。
あれから桜さんから移動用の杖を貰って、桜さんを除く5人で、不死の国の西側に位置する『幻影の泉』の近くに移動した。
話には聞いていたけど、直で見てみると、やはり普通ではあり得ないほどの霧が濃く重なっていた。
(・・・凄い)
桜さんが言うには、ここには安全な道が無く、不死でも目印なしで通過することは難しいらしい。
でも、そこには日陰さんと呼ばれる案内人がいるから、その人に頼めば大丈夫だと言われた。
「ちょっとごめん、みんな静かにして」
みんなに声をかけ、頭の上にある耳に意識を集中させると、みんなの心音とは別に、木の上から小さな鼓動を感じ取れた。
顔を上に上げると、そこには短い黒色の髪をした、灰色の紬の様な服を着た少女が心地よさそうにくるまっているのが見えた。
その少女を見ていると、どうしても大きな袖余りに眼が言ってしまう。
(あの人・・・かな?)
取り敢えず日陰さんらしき人が寝ている木に飛び、手を木の枝に付いて体を安定させる。
そしてその人を起こすように体を優しく揺する。
「えっと、日陰さん、起きて下さい」
その人をしばらく揺さぶっていると、その人は少し不機嫌そうに瞳を開け、私の眼に灰色が混ざった様な眼をこちらに向けて来た。
「どちら・・・様?」
「雅というものですむ
そう話しながら、桜さんからもらった桜の形をした赤色の石を見せると、日陰さんは嬉しそうに目を見開いた。
「あぁ、桜さんの紹介ですね。案内します」
話が早い日陰さんは可愛いらしい笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がると、その木の上から飛び降り、それに続く様に私も木から飛び降り、膝を曲げながら地面に着地する。
木から降りた日陰さんは私達全員に眼を向けると、琴乃さんの隣に立っている雷牙さんに声をかけた。
「あ、そこの金色の人、木の棒を適当に取ってくれませんか?」
「・・・?あぁ」
雷牙さんはその言葉を疑問に首を傾げながらも頷き、落ちている木の枝を日陰さんに優しく投げた。
「おっと〜と〜」
日陰さんは袖余りでその木の枝を挟む様に掴むと、その小さな木の枝を空に掲げた。
「えっと、燃えろ〜」
日陰さんがそんな腑抜けた声を小さな口から出すと、その木の枝の先が赤く光を放ち始め、そこから小さな煙を出始めた。
「じゃあ、着いてきてくださいね」
日陰さんは私達にそう言うと、濃い霧の中に迷いなく入って行ってしまい、心配になりながらみんなと顔を合わせようとするけど、雷牙さんと琴乃さんは日陰さんに迷いなくついて行ってしまう。
取り敢えず取り残されたゆい達の顔を見てみると、悠人は物凄く不安そうな顔をしていた。
「えっと、僕たちも行く?」
「行こ!!」
そんな悠人とは対照的に、ゆいは満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ」
そんなゆいの頭を優しく撫でて、覚悟を決めて後ろを振り向いたけど、すでに赤い小さな光は霧に塗り潰される様に見えなくなっていた。
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「そういえば貴方の名前はなんて言うんですか?」
寝起きのようなゆるい声を出しながら、俺の前を歩く日陰は俺に話しかけてくる。
「琴乃と言います。後ろは雷牙
「よろしくな」
「よろしくお願いしますね〜」
そんな話をしながら淡々と濃い霧の中を突き進んで行くと、後ろに居る雷牙から左肩を叩かれた。
「なぁ、後ろからあいつら付いて来てないけど大丈夫なのか?」
「雅殿とゆい殿がいるから大丈夫だ」
不安そうな声を出す雷牙にそう答え、日陰と霧の中をしばらく進んでいると、突然に異様な光景が目に入った。
濃い霧の中に無数の光の糸が何処かに向かって繋がっており、それを目を凝らしてよく見ると、糸には小さな鈴が無数に付いていた。
「ちょっとうるさくなりますよ」
日陰はそうため息を吐くと、その光の糸を指で弾いた。
するとその糸に付いていた鈴が鳴り始め、それに共鳴するかの様に糸に繋がった全ての鈴が一斉に鳴り始めた。
そんな懐かしい鈴の音を聞いていると、一本の糸が一際大きな光を放った。
「さっ、行きましょう」
日陰はその糸に向かい、糸にそって歩き始めた。
それに着いて行っていると、いつのまにか足に伝わる感触が、湿った気持ち悪い土から柔らかい草の感触に変わった事に気が付いた。
「着きましたよ」
日陰が指を鳴らすと辺りの霧が蠢き、その自然ではあり得ない動き方に、雷牙と背中合わせになり、周りを大急ぎで警戒する。
「おい日陰。大丈夫なのか!?」
「あ、大丈夫ですよ。もう着きましたから」
日陰は雷牙に笑顔を向けると、足を前に進める。
俺らは辺りを警戒をしながら一歩足を進めた瞬間、花の甘い匂いが鼻に付いた。
その甘い匂いに気を取られた意識を慌てて現実に戻すと、そこには花が地面を埋め尽くし、俺達が歩いていた地面は、人が綺麗に整備した様な道に変わっていた。
「連れてきましたよ。心花さ」
日陰の声に合わせて前を向くと、そこにはこじんまりとした屋敷があり、その屋敷の縁側に、悠人よりも小さい灰色の紬を着た黒髪の女性を膝に乗せ、細い指を鼻に立てる妖艶な女性が座っていた。
その女性の髪は腰まで伸びており、赤黒い髪の色に似た桑の実色の紬を身に纏い、こちらを見る二つの眼差しは遠くからでも分かるほど濁った赤色をしていた。
心花と呼ばれる女性が日陰に手招きをすると、日陰はゆっくりと屋敷に近付いて行く。
後ろに雷牙が居る事をしっかりと確認してから日陰に着いて行くと、心花と呼ばれる女性は俺達に優しい眼差しを向けて来た。
「いらっしゃい日陰。その人たちは誰?」
「新しい守り人ですよ。桜の石を持ってましたから」
小声で2人は話し、心花はこちらに顔を向けると、何故か背中がぞくりと疼いた。
「どうしてここに来たの?」
「服を・・・取りに来ただけです」
「あっ、なるほどね。でも、今はこの子が寝てるからもうちょっと後でも良い?」
膝に乗せている女性の頭を優しく撫でながら、心花は申し訳なさそうな顔をするが、別に急ぎの用事と言うわけでもない為、それに頷く。
「はい、大丈夫ですが」
「ありがとう。立ちっぱなしも辛いだろうし座っていいよ」
心花の言葉に頷き、木のいい香りがする縁側にそっと座ると、雷牙も俺の隣に座り、そこから見える花々をじっと見ていた。
退屈な時間をしばらく感じていると、俺でも聞こえるほどの大きな足音が霧の中から聞こえてきた。
刀に手を当てながらそちらを見ると、霧の中からゆい達がやって来ていたが、ゆいの眼には怒りが宿っており、その眼を縁側に座っている日陰に向けた。
「先に行ったら案内人の意味あるの?」
ゆいの言葉は重く、かなり怒っていると感じ取れたが、そんなゆいを気にしないのか、日陰は悪戯っぽい笑みを浮かべるだけだった。
「でも私が居なかったらここまで来れなかったでしょう?」
その言葉にゆいの顔には更に怒りは増すが、後ろから悠人が走ってくると、ゆいの顔から少し怒りが引いた。
「ちょ、ちょっと待ってゆい!」
悠人がゆいをそっと宥め始めると、そのゆいの顔からすぐに怒りのかけらも消えて無くなってしまった。
「・・・んぅ〜?」
ゆいを宥めた悠人の声が大きかったのか、心花の膝に乗っていた女性がゆっくりと起き上がり、薄く開いた眼を擦り始めた。
「おはようごじゃいます、心花しゃん」
「おはよう、クレア」
少し聞き取りづらい名前の女性は、寝ぼけているのか俺達がいる事を気にせず、首まで伸びている黒色の髪を軽く掻き始める。
クレアは一通り髪を掻き終えると、やっと俺達がいる事に気が付いたのか、急いで辺りを見渡し始めた。
「ふぁっ!?なんで大勢居るんですか!?」
「お客さんだよ」
急に大声を出してあたふたと慌て始めるクレアに、心花がゆっくりと説明していく。
するとクレアは落ち着きを取り戻し、縁側に正座をして座ると、俺達に小さな顔を向けて来た。
「えーっと、私の名前はクレアと言います。時間を取らせてしまって本当にすみません」
クレアは軽く頭を下げてその場に立ち上がると、素足のまま縁側から飛び出し、悠人に近付いて行った。
「ど、どうかしました?」
少し怯える悠人を庇うように、ゆいが悠人を後ろに下がらせると、ゆいの間合いの少し外でクレアは細く華奢な足を止めた。
「その神器が気になっただけです。少し、見せてもらって良いですか?」
「あっ、はい。大丈夫です」
悠人は腰に差している刀を慌てて逆手で引き抜き、クレアに見やすいようにその美しい黒い刀身を見せつけると、その刀身を見てか、クレアは何かを考える様に顎に細い手を当てた。
「不死殺し、ですね」
クレアの言葉に、悠人は心底不思議そうな表情をその幼い顔に浮かべた。
「えっと、どうしてみんなこの神器が不死殺しって分かるんですか?」
「えっとですね、不死殺しの神器は嫌な感じがするんです。だからすぐに分かるんですよ。あっ、もう神器は直していいですよありがとうございました」
クレアは悠人に頭を下げると、悠人はよく分からない顔をしたまま刀を収めた途端、クレアは俺の方に眼を向けて来た。
そこで初めて見えたクレアの眼は異様だった。
左目は日の色をし、右目は濁った黒い眼。
その異なる二つの眼が、こちらをじっと見つめて来る。
「その眼帯、どうしたんですか?」
その質問に心音が急激に速くなるのを感じ、言葉が詰まってしまう。
「傷を隠してんだよ」
突然の質問に、何を言えばいいか分からなくなっていると、横にいる雷牙が俺の代わりに答えてくれた。
「そうだったんですね。踏み込み過ぎました」
クレアはこちらに向かってくる足を止め、その場で俺達にその小さな頭を下げると、クレアはまた悠人達に顔を向けた。
「ゆいさん達も縁側に座って下さい。立ちっぱなしは辛いですからね」
クレアは悠人達に声を掛けると、石畳の上に置いてある布のようなもので足を擦り、家の中へ入っていく。
クレアが何処かへ行った事を確認し、一息ついて隣に座っている雷牙に軽く頭を下げると、雷牙は手を挙げて大丈夫だと伝えてくれた。
「ねぇ、心花さん」
「どうしたの?ゆいちゃん」
後ろから声が聞こえ、そちらに顔を向けると、ゆいが背負っている短剣に手を伸ばしているのが見えた。
「私と戦って?」
「えっ、嫌だけど」
素でそう答える心花に、ゆいは面を食らったような顔をした。
「そんなに以外?」
ゆいの面を食らった顔を見て、心花は口に手を近付けて微笑みを浮かべたが、次のゆいの言葉に顔を固めた。
「うん、だって血の匂いが沢山するから」
ゆいのその言葉に心花の微笑みは一気に暗くなり、辺りの花の匂いが一気に濃くなった。
「そっか・・・半獣人だからね」
その言葉には明らかに殺意が込められていた。
反射的に刀に手を掛けた瞬間、その右手をクレアの小さな手から抑えられていた。
(いつの間に!?)
「落ち着いて下さい、心花さん」
いつの間にか現れたクレアは俺の手からそっと手を離し、ゆっくりと心花に近付いて行く。
「お花の匂いも抑えて下さい」
クレアはしゃがみ、座った心花と視線を合わせてその赤い眼をじっと見つめると、辺りの花の匂いは少しずつ弱まっていった。
すると心花は何処か疲れた様に頭に手を当てた。
「ごめんね、ちょっと湯殿に行ってくる」
「あまり擦り過ぎないようにして下さいね」
心花達は意味が分からない事を話すと、心花はクレアに弱い笑みを浮かべて、ふらふらとした足取りで屋敷の中に入って行く。
それを心配そうな顔で見送るクレアは、小さな顔から急に優しい表情を消し、少しだけ歪に口角を上げた。
「さて、ゆいさん?」
そんなクレアの優しい声とは裏腹に、その雰囲気からは腹の底を抉るような冷たさを感じた。
「戦いたいのであれば私がお相手しましょう」
クレアは素足のまま縁側を降りると、ゆいの隣を通り過ぎて行き、整備された道を歩いて行く。
「付いて来て下さい」
クレアの指示にゆいは黙り込んでそれに従い、クレアの後に着いて行く。
「雷牙」
「あぁ」
雷牙に声を掛け、俺達もゆいと一緒にクレアに着いて行く。
「えっ、ちょ、ゆい!?」
よく状況が分かっていない悠人はあたふたと慌てながら、俺達の後ろを付いてくる。
しばらく無言のまま景色が変わらない花の道を歩いていると、細くしなやかな足を曲げて花を見ている雅が見えた。
「姉ちゃん、今から戦うよ」
重い言葉でゆいはそう話すと、雅は微笑みを顔から消して無言で頷き、クレアに付いていく。
それから更に歩くと、クレアは霧の壁の前で止まり、こちらに薄い笑みを浮かべて来た。
「道は作っておくので、付いて来てください」
「道?」
後ろにいる悠人の疑問を無視し、クレアは霧の中に入って行く。
それに続く様に俺達もその霧の中に入ると、一寸先も見えないほどの霧の中に、光の道がはっきりと見えていた。
それを辿って霧の中を進んで行くと、忽然と霧が晴れ、その霧が無い空間の真ん中にクレアが静かに立っていた。
「そう言えばちゃんとした自己紹介はしていませんでしたね」
クレアは俺達に笑顔を向けると、何処からか口と左目を隠す鳥のような烏面を取り出し、それを小さな顔に嵌め込んだ。
「私は西の守り人『白烏(しろがらす』。そして、守り人の教育者でもあります」
黒い眼だけがこちらを真っ直ぐ射抜いている。
それだけで辺りからは息の音が消えてしまい、自分の心音だけが耳に聞こえ始める。
そんな雰囲気を放つクレアを見て、こいつが守り人で間違いないと確信してしまう。
「え、守り人だったんですか!?」
圧迫された空間の中、悠人の場違いなうるさい声が後ろから聞こえて来た。
「そうですよ。小さいからって馬鹿にしてました?」
「いえいえ!馬鹿になんてしてません!」
悠人とクレアが話しているだけなのに、少し周りの空気が軽くなった。
それに少し安堵してしまうが、まだ気は抜けない。
「あっ、そう言えば教育者なら魔法の使い方とか教えてくれるんですか?」
「はい、大丈夫ですよ」
悠人の声に合わせて、クレアはこちらにゆっくりと歩いてくるが、体は反射的に刀に掴む。
「皆さん、そんなに身構えないでください。今は何もしませんから」
優しいクレアの声が聞こえるが、体が警戒を解いてくれない。
そんな緊迫した状況の中、後ろにいる悠人だけは平然としていた。
「では、皆さんに質問です」
それに疑問を感じていると、クレアは俺たちから数歩離れた場所で立ち止まり、烏面を外した。
ただ面を外しただけなのに辺りの重い空気は晴れ、体はやっと警戒を解いてくれた。
「魔法を使える人はどのくらい居ますか?」
俺と雷牙と前にいる二人は軽く手を挙げたが、ふと後ろを見てみると、悠人だけは手を上げておらず、その顔はとても悲しそうだった。
「あっ、大丈夫ですよ。魔法を使う事をかなり難しい事ですから」
「そうなの?」
悠人を元気づけようとするクレアにゆいは容赦なく言葉をぶつけて行くと、クレアは少し困った顔をその小さな顔に浮かべた。
「えっと、どのくらい難しいかと言うと、私が剣で斬ろうとしてくるのに、よそ見するくらい難しい事です」
クレアの例えにピンと来てないのか、ゆいは首を大きく傾げ、後ろにいる悠人はどんどん落ち込んでいく。
「魔法を使っている人なら分かると思うんですけど、魔法は想像です。でも、朧げな想像ではダメで、明確に想像しなければいけないんですよね」
その言葉にはゆいは納得したが、魔法を使えない悠人はあまり納得していない様だった。
「取り敢えず、魔法を使う事は難しいと言うことです」
クレアは納得させるのを諦めたのか、投げやりな笑みを浮かべて細い人差し指をピンと上に立てた。
「それで本題に入るんですけど、皆さん魔法をあまり上手く使えてませんよね?」
クレアのその言葉に、心臓が図星の様に高鳴ってしまう。
「図星のようですので話を続けますね。魔法とは僕達の武器です。それを上手く使えるか使えないかでは、勝ち負けは大きく変わっていきます。なので、これから魔法の練習をしましょう」
「戦はないの?」
ニッコリと笑みを浮かべるクレアに対してゆいはとても不機嫌そうな声を漏らしたが、クレアは首を軽く傾け、俺達の顔を下から覗き込んだ。
「だって皆さん、弱いですもの。」
恐らく悪気のない言葉が耳の中に入り、頭の血が大量に巡るのを感じる。
けれどこの前の事を思い出し、自制を聞かせて気を収めようとすると、前から突風が吹いた。
「危ないですね」
顔を上げると、短剣を持ったゆいとその短剣の刃を黒く変色した指先で止めているクレアの姿が眼に映った。
「っう!?」
ゆいは短剣をその指の隙間から引き抜き、体を回しながらクレアの右のこめかみに踵を打ち込もうとするが、クレアはその足を肘で打ち、ゆいが痛みで体制を崩した瞬間にその足を掴み、ゆいの軸足を滑らすように蹴る。
「っ!!」
クレアは体制を崩したゆいのうなじを掴み、ゆいの顔面を地面に打ち付ける寸前で、クレアは腕の力でゆいを止めた。
「ゆいさん、貴方はこれで力量が分からない馬鹿ですか?」
クレアの重い言葉にゆいは悔しそうな顔をその顔に浮べると、ゆっくりと右手の神器を手放す。
そうするとクレアは笑みを浮かべ、首を掴んだままゆいを立たせ、落ちている短剣の刃の部分を持ち、ゆいに柄の部分を差し出す。
「どうぞ」
その短剣をゆいは奪い取るように取り、湿った土を落として背中の鞘に納め、ゆいは悔しそうな顔をこちらに向けて来た。
「さて、今のゆいさんを見て分かる通り、ゆいさんは魔法を使っていません。それは肉体的に相当な自信があるからですね。でも、魔法を使わなければ殺されていましたよ」
クレアの鋭い声に、ゆいは自分の下唇を強く噛んだ。
「ですから、今から特訓しましょう」
そしてクレアは、薄い笑みを浮かべて俺たちに語りかけて来る。
「特訓していけば、貴方達は本当に不死になりますよ」
けれどその薄い笑みには、ドス黒い何かが含まれていた。




