第29章 事情
「あっ……ぐっ……っううう!!! 」
布を裂く様な悲鳴と共に鈍い肉音が響くと、左眼だけの狭き視界に、新たな足が落ちてきた。
「らい……が…… 」
「大丈夫か? 次は腕行くが 」
「っ……がぁぁあ!!! 」
(うご……けっ!! )
唸るような悲鳴と共に落ちてきた雷牙の左腕……
精一杯息を吸い、熱い激情を糧に全力を絞り出すと、先程よりかは力が入る。
けれどまだ動くためには時間が足りない。
「はぁ……はぁ……ぐぅぅ 」
「な……ぜ……雷牙……ばかり 」
「あっ? 」
雷牙の四肢を無造作にもいでいく大和に怒りを向けるが、返された一言にも激情が満ちており、空気が震えた。
「ただ近いからだ。あぁ、安心しろ。こいつを殺した後はお前だ 」
ただ近い……
それだけの理由で雷牙をいたぶる大和に対し、炉の様な怒りが心に生まれた瞬間、体に力が戻り激情のままに大和の腹へと一閃を振るう。
しかし太刀は空を裂いており、肝心の大和は間合いの外へと離脱していた。
「っ!! 」
余裕が生まれた状況下の中、一瞬だけ雷牙に目を移すが、その姿は踏み潰された虫のように無惨なものだった。
左腕は肘上からもがれ、無造作にもがれた足は赤い筋肉と折れた白い骨を顕にしている。
「すぅぅぅ 」
息を吸い……息を吐く。
激情を沈めながらも太刀先を大和に向け、ゆっくりと重心を下へと落とす。
(殺す!!!! )
激情を糧に床を蹴りあげ、大和を間合いへ入れようとした瞬間、白い足が目の前に見えた。
(……えっ? )
困惑したと同時に蹴りが撃ち込まれる。
ふと気が付くと、いつの間にか背中は壁へと埋まっていた。
(…………? )
何が起こったのか理解できずに目を開ける。
するとそこには、何本もの白い歯が付いた下顎が落ちており、赤い滝しぶきが床を赤に染めていく。
舌裏に当たる風はやけに冷たく、けれど舌裏には暖かい物が溢れている。
(あぁ……俺の下顎……か )
妙に冷静な頭は静かに現状を受け入れてくれた。
音が聞こえず、色が抜けた白い世界をボーッと見ていると、目の前には殺気を纏った足が現れた。
(あっ )
腑抜けた声が心の中で漏れた瞬間、鈍い音が脳内に響いた。
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(……? )
現実離れした光景に理解が追い付かず、何度も瞬きをする。
けれど景色は現実のように変わらない。
地面を踏み砕いた跳躍痕……床に落ちた私の手足……石壁にめり込んだ白い足……そして肉塊と化した琴乃の体。
地獄とも言える景色では、大和が激情に駆られたように琴乃の骸を踏み潰し続けている。
壁はヒビを広げ、辺りには血が飛び散り、流体状の肉が地面へと広がってゆくが、大和の行動には一切の躊躇はない。
白い髪を返り血で染める様子は、復讐相手を滅多刺しにしている風に見えてしまう。
何度も……何度も……耳が響く音に慣れる頃には、琴乃の骸は原型を無くしており、大和の足元には赤い泥が広がっていた。
「ふーっ……ふーっ…… 」
返り血が滴る髪を大和は強引に掻きむしると、怒りを抑えきれない様子で息を荒らげ、血よりも赤い眼をこちらに向けた。
(次は……私か )
目を閉じてでも思い出せる死の気配。
それを感じた体は何処か冷静で、気怠い体は生きる事を放棄している。
(まぁ……これだけ血を流してればな )
冷めきった血に浸りながら、1人乾いた笑いを漏らし、失血でボヤける視界を閉じた。
瞬間、沈む意識をすくい上げるように、激しい音が響いた。
「ふむ、大音声が響いたと思うたら……これはどういう状況じゃ? 大和 」
突然現れた声が聞こえると、何故か視界のモヤは晴れる。
重い体に力を込め、声が聞こえた背後に顔を向けようとしたが、声の主は血溜まりを踏みながら私の隣を通り過ぎた。
血の足跡を床に刻むのは、白い耳を頭に生やした獣人であり、その足は大和に近付いて行く。
「黙れ…… 」
「ははっ、童がいくら吠えた所で怖かないわ。ほれ、儂がこやつらの話を聞いてやるけ、さっさと失せろ 」
空気を震わす重々しい声に、突如現れた獣人は子供をあしらう様な言葉を浴びせるが、それは大和の機嫌を損ねたらしく、白き足は床を踏み砕いた。
「うるせぇ。また……殺すぞ!! 」
「ふむ、確かに儂はお主より弱いが…… 」
獣人はドスの効いた声を軽く流し、大和の傍で足を止める。
すると辺りに無音の殺気が響き渡った。
「この距離なら、儂のが先に殺せるぞ? 」
気が狂ってしまいそうな静寂。
呼吸は浅くなり、鼓動は高まり、足があるなら今すぐ逃げ出したい。
けれど足がない体は動かせず、圧縮された殺気の中で必死に呼吸をすることしかできない。
「ふーっ、ふーっ、ふーっ 」
自分の荒い鼻息だけが聞こえる中、不意に空気が震えた。
瞬間、二重の跳躍音が響いた。
「……? 」
殺気を放つ2人をずっと見ていたのに、いつの間にか獣人の左腕は血にまみれており、大和は死んだ様に頭から地面へと倒れてしまった。
(何が……起こった? )
「ふぃぃ、なんとかなったわい 」
混乱している頭に、長いため息が聞こえた。
獣人は血の着いた腕を赤い袴で拭いとると、血の泥を広げる骸の足を掴み、それをこちらに引きずって来る。
その時に見えた獣人の頬には、先程までは無かった真新しい傷が出来ており、傷口は焼かれた様に痛々しい。
「あの……頬の傷、大丈夫ですか? 」
「他人より自分の心配をせぇ。お主は手足をもがれておるんぞ? 」
「あぁ、もう痛ぐっ!! ないので……大丈夫……です 」
この体のお陰で傷はもう塞がっているが、繋がっていない手足が動いている感覚と痛みが再発し、脂汗が額から滲み出ているを感じる。
「それ……より、琴乃は? 」
「安心せい。見た目こそ酷いがちゃんと治るわい 」
「ははっ、よかっ……っぐ!! 」
「はぁ 」
無いはずの左腕の薬指が折れ、その痛みが頭に突き刺さる。
さっきまでは気持ち悪い程度で済んでいたが、今となっては指全てが折れている様な感覚が止まらない。
「ほれ、上を向かんかい 」
「うぁ? 」
痛みで頭が回らず、耳に入った言葉通りに体を動かすと、口の中に何かと指を突っ込まれ、鼻を塞がれた。
気道が塞がれた喉は、反射的にその何かを飲んでしまい、喉の奥からは奇妙な不味さが込み上げてくる。
「ゲホッ! なに……を? 」
「薬じゃよ。幾分かマシになる 」
獣人は涎で湿った指を袴で拭くと、その右手から首を掴まれ、片腕だけで軽々と抱きかかえられてしまう。
無い手足では暴れることも抵抗することもできず、大人しく体から力を抜いていると、獣人は見覚えのない廊下へと足を進め始めた。
「あの……どこに? 」
「静かで安心できる場所に行くだけじゃ。別にバラして埋める訳でもないけ、安心していいわい 」
(いや……安心できないんだけど )
バラして埋めるという、えらく具体的な言葉に不安を覚えてしまうが、今暴れてもたかが知れてる。
有る右腕に力を込め、胸を締め付ける不安に耐え忍んでいると、不意に……獣人はある部屋の前で足を止めた。
部屋に備え付けられている扉には、赤い十文字が刻まれており、獣人はさっさと扉を開けてしまった。
部屋の中には、巨大な布団の様な物が3つほど置かれていて、獣人はそのひとつに血塗れの琴乃をそっと寝せると、今度は私を抱え直し、背もたれがついた椅子に座らせられた。
「支えはいるか? 」
「あっ……大丈夫です 」
善意に満ちた言葉に、すぐに返事を返して少し落ち着くが、自分の紬に染み込んだ血を見てしまうと、落ち着きは徐々に混乱へと変わっていく。
(そもそも……なんでこうなったんだっけ? )
怒りのままに国を攻め、感情のままに不死を殴り、その報いを受けるように手足をもがれ、今は落ち着いて椅子に座っている。
そんな目まぐるしく変わる現状に、頭がフラフラしてしてきた。
(私、何してんだろ…… )
「はぁぁ 」
「んっ? 手足が痛むか? 」
「あっ……いえ、そんなじゃないです。もう再生が始まってるので、痛みはないですし 」
「ほうかほうか 」
腕の肉は盛り上がり、足の肉はもう膝元までは再生している。
普段なら関節の再生は痛いが、飲まされた薬のせいか、不思議と痛みはない。
服に染みた血液は白い煙と共に消えていく。
そんな光景を遠目で眺めていると、獣人は私の前にある椅子へと座り、柔らかい灰色の眼をこちらに向けてきた。
「もう痛みは薄いじゃろ? 」
「……はい 」
「なら説明して貰うぞ。お主らは何者か? 何故大和からあんな仕打ちを受けたかを 」
「っ…… 」
そう聞かれた瞬間、喉は勝手に閉じ、体は言葉を出す事を拒んでしまう。
けれど沈黙を許さない重いため息が響き、敏感な唇は空気の悪さを感じ取った。
「言わずとも良いが、立場を考え直すんじゃぞ? お主らは敵か味方かも分からぬ外の不死。今話さねば、無理にでも喋らせる事になる 」
「………… 」
無理にでも……
その意味が拷問であるとすぐに分かったが、喉は開かない。
話したくない……思い出したくない……
わがままで暗い感情が胸の奥で淀みとなる中、不意に……拷問の対象に琴乃が入っていると朧気に理解してしまう。
(それだけは……ダメだ )
そう考えた途端、すぐに覚悟を決まった。
息を吸い、喉を開く。
息を吐き、気を沈める。
胸の奥にある不快さに少し慣れるのを待ち、右手を握りしめてから、震える口を開く。
「私らは……「和の国」に隠れていた不死です 」
「それは身なりを見れば分かるが、何処に隠れておったんじゃ? 」
「和の国と戦の国の辺境にある、妖が住む村です 」
「……ふむ、それならば人の眼を避けれたのは理解できる。じゃが、なにゆえお主らは妖の中に取り入れた? 人と妖の関係は最悪。元々が人であるお主らと相性が良いとは思えぬが 」
「それは違う!! ……違います 」
こんな状況にも関わらず、否定したい気持ちのままに声を荒らげてしまった。
慌てて言葉を改めるが、私を見つめる獣人の眼は不機嫌そのものであり、次は無いと言いたげな雰囲気を醸し出している。
「和の人間共は、「妖狩り」とやらを伝統にしておる。元々が人であるお主らも、赤子の頃からそう教えられておるんじゃろ? 」
「……確かに! 人であった時も不死になった後も、『妖は人の敵であり、滅ぼさねばならぬ』と信じていました。でも……」
感情のままに動いていた口が止まる。
思い出してしまったあの記憶が軋む頭痛となり、今にも膝を抱えて縮こまりたい衝動が胸を掻きむしる。
「でもなんじゃ? はよう答えんかい 」
けれど獣人の圧は弱まること無く、押し潰される様な恐怖は喉を絞り、縮こまる口から言葉が溢れ出す。
「私達は……生贄として殺されました。だから……人を殺しても何も思えないほど、私は人が嫌いです 」
絞り出した言葉と共に涙が溢れ、喉の奥からは炎の様な熱さが込み上げてくる。
「ふむ、じゃから人嫌いな妖共と気があったと言うことか? 」
私の涙を気にしないように、獣人は淡々と話を進めるが、涙を流して心に余裕が出来たのか、今度は簡単に言葉を返せた。
「いえ……元々妖は人を嫌っていませんでした。むしろ……好いていたとも言えます。だからか、人であった私達を見ても……優しく迎え入れてくれました 」
今でも感じる温もりは胸を温め、涙は火傷しそうな程の熱を帯びる。
けれど一向に変わらない冷たい眼は私を見つめ、安堵する間を許さない。
「……だいたいの流れは理解できたが、解せんことがある。そこまで思い入れの土地を飛び出し、何故この国へと攻めてきた? 」
突如飛んできた核心を突く質問。
そのせいで鼓動は跳ね上がり、苦しみが胸を締め付ける。
だがもう、覚悟は決めた。
これ以上苦しみを背負うのは私だけでいい。
「……私達の故郷は、もうありません 」
「何故? 」
「正確には分かりません。でも師匠……天狗の友人が事切れる前に教えてくれました。『霧の不死がやった』……と 」
覚悟は決めた筈なのに、口に出した言葉は胸に突き刺さり、嗚咽が漏れるほどの悲しみが涙を促す。
右爪で手のひらの皮をえぐり、その痛みで悲しみを紛らわそうとするが、血が出ても……皮を何度も剥いでも悲しみは収まらない。
でも、喋らなければ……
「だからっ! わたしっ……たちは 」
「もう良い、お主らの目的は伝わった 」
先程までとは全く違う、優しい声色。
顔を上げると、そこには憐れむ様な表情を見せる紬が頬杖を付いていた。
「して、最後の質問じゃ。お主らはなして大和に殺されかけていた? 」
「ヒッ……すみません、しゃっくりが 」
「良い良い。それで理由は? 」
「多分……なんですけど、桜と呼ばれる女性と戦ったから……ですかね? 」
嗚咽の余韻で、しゃっくりが出てしまったが、紬は私を安心させるような優しい声を掛けてくれる。
お陰で慌てること無く、静かに言葉を返せた。
「ふむ、もしや頭ら辺に傷を負わせたか? 」
「えっ、はい。顔面に…… 」
「そりゃ大和も取り乱すわ。まぁその傷は、曖昧な理由で他者を傷付けた戒めと思っておれ 」
「……はい 」
確かにこの欠損は戒めに相応しい。
負けはしたが、仲間を庇う女性を2人がかりで襲い、殺そうとしたのだから。
「じゃがまぁ、辛いのによう頑張ったな 」
「……えっ? 」
「んじゃまっ、今度はこっちが話す番じゃ 」
突如として飛んできた子供をあやす様な言葉は、あの人にそっくりだった。
けれど紬は首の骨を生々しく鳴らすと、一気に話を進め始め、動揺した心を建て直して切り替える。
「結論から言おう。この国には『霧を使う不死』は居る 」
「ならそいつに会わせろ!!! あっ……いや、合わせてください 」
激情のあまり、血が垂れる右腕で紬に掴みかかろうとしたが、静かな殺意を当てられ、怒られた子供のように縮こまってしまう。
「続きを話しても良いか? 」
「……はい 」
「そいで霧を使う不死は居る。が、そやつは妖など殺しはせん 」
「……確証は? 」
「ある。じゃが話した所でお主らは納得せんじゃろ。やけ今から連れてくる 」
「はい? 」
仇かもしれない霧の不死。
そいつを急に連れてくると言われ、怒号ではなく腑抜けた声を出してしまった。
「そんじゃまっ、心の準備でもしておくんじゃな 」
「いやちょ」
私の困惑を置き去りにし、紬はさっさと部屋から出ていってしまう。
部屋に残ったのは、顔の再生を終えた琴乃と私だけ。
ただ待つだけでは落ち着かず、再生しきった素足で椅子から立ってみると、意外にも感覚のズレが酷い。
立っている筈なのに立っている感じがせず、気を抜けば今にも倒れそうだ。
(連れてくる……か )
再生し終えた左手を握り締め、静かに覚悟を決めようとする。
けれど胸には、得体の知れない気持ち悪さが付き纏い始めてしまう。
頭にはモヤがかかり、思考がまとまらない。
紬は私たちを守った。
桜は仲間を守ろうとした。
大和は仲間を傷付けられ、殺意をあらわにした。
だが私たちは……確証のない殺意で他者を傷付け、あまつさえ、傷付けられたことで被害者ヅラしようともした。
そんなの……人間みたいだ。
「っ…… 」
頭が痛い。
もう嫌になりそうだ。
自分を……殺してしまいたい。
渦巻く感情が収まらず、数日何も食べていない胃から酸っぱい空気が込み上げてくる。
拳を握り、苦しみに耐えようとするが、憂鬱に耐えきれなくなった体は拳を壁に打ち付けた。
(……何してんだろうな、私は )
「あのー。大丈夫ですか? 」
「っ!? 」
突如として後ろから聞こえた声。
敵意を持って振り返るが、そこに居た不死の姿を見ると、自然と敵意が消えてしまう。
扉の影から鏡のような瞳を覗かせるは、私の胸辺りまでしか背が無い子供の不死で、心配そうな表情で私を見ている。
「……あぁ、大丈夫。それより君は? 」
「私は時雨と申します。ここでメイド……使用人をしている者です 」
屈んで視線を合わせ、子供が話しやすいように笑顔を浮かべると、時雨と呼ばれる女の子はスラスラと自己紹介してくれた。
使用人……確かに八階もある城じゃ、それくらい雇わないとやっていけないだろう。
だが子供に雑用を任せるのは些か納得は出来ない。
(…………今私は何を考えた? )
不意に喪失感に襲われ、頭を抑える。
この城が八階だなんて知らない。
そもそも、ここが城だなんて誰からも聞いていない。
なのに何故……私は知っている?
「っ? 」
記憶が混濁している中、不意に涙が零れた。
陽だまりに居るような、誰かに抱き締められているような安心感が止まらない。
私は……今まで何を考えていた?
何をしにここに来た?
なぜ怪我をしていた?
というより……なんでこんなに安心している?
「っ!? 」
今度は頭に痛みが走った。
岩壁に頭を打ち付けているような痛みが。
そのお陰で記憶の混濁は部分的に落ち着き、すぐさまさっきまでの出来事を思い返す。
(紬から救われた……霧の不死を探しに……連れてくる。いつから私は……あと何か…… )
「あの、大丈夫ですか? 」
「あっ、あぁ。大じょう……っ!? 」
私の異変に気が付いたのか、時雨は子供らしい小さな手を頭に伸ばしてくる。
優しい心遣いに微笑みが漏れ、その手から撫でられようとした瞬間、身体中に鳥肌が立ち、体は反射的に手を弾いて後ろに下がってしまう。
(こいつが……来てから )
安心しきっていた心臓はいつからか破裂するほどに脈打ち始め、漏れる吐息は怯えるように震える。
何をされたのかは分からない。
でも……でも、死よりも恐ろしい何かを感じた。
「おや、どうかしましたか? 」
うっすら笑う時雨には、先程の子供らしい無邪気さは無く、ただ……静かな恐怖を感じる。
ゆっくりと近付いてくる小さな足音に怯え、手足を絡めて体を守った瞬間、足音が止まった。
(……? )
閉じてしまった目を開くと、そこには宙に浮く時雨と、それを片手で持ち上げる紬の姿があった。
「何しとるんじゃ、客人に向かって 」
「お、下ろしてください! 今ファスナーがミチって言いましたよ!? 」
先程の不気味さが嘘のように、持ち上げられた時雨は子供のように暴れている。
ため息を吐いた紬は時雨を地面に下ろすと、床に縮こまる私に手を差し伸べてくれた。
「大丈夫か? 意識や記憶に違和感はないか? あと時雨に好意を抱いたりしておらぬか? 」
「あっ……はい。大丈夫です 」
凄まじい勢いで色々と言われ、少し頭が混乱してしまう。
けれど言葉を絞り出すと、紬は安心したように私を引っ張りあげてくれた。
「時雨、お主は離れておれ。こやつらは」
「っ!? 」
紬が喋っている最中、突如として息を吹き返した琴乃は文字通り通り飛び起きた。
琴乃はすぐさま右手に風の太刀を生み出すと、その刃先を何故か時雨に向けた。
「琴乃!? 」
子供へ武器を向ける琴乃に声を荒らげるが、琴乃は混乱しているのか、私の声が届いてない。
すぐさま琴乃から武器を取り上げようした瞬間、時雨はまたも微笑み、自ら太刀へと足を進め始めた。
その不気味な行動を理解できず、足が止まる。
琴乃は未知の恐怖から身を守るために、太刀を振りかぶる。
だが紬だけは全力で床を蹴り、琴乃の首……それと見えない何かを掴んだ。
「忍……止まってくれ。止まらぬならお前を殺す事になる 」
「コロス? コロス……殺す 」
(なん!? )
突如として現れた長身の女。
彼女はうわ言のように『殺す』と呟いており、時雨を庇うように右手で握り締めた刃を琴乃に向けていた。
「忍さん、今日は曇り空ですね 」
「曇り? 曇り……お昼寝? お昼寝! 」
「はい、私の部屋に行きましょう 」
突然でてきた場違いな言葉に困惑してしまうが、何故か忍には伝わったらしく、言葉を覚えたばかりの子供のように大喜びし始めた。
「おやすみ! 紬!! 」
「……うむ、よい夢を見るんじゃぞ 」
「行こ! 行こ! 」
「はい。それでは皆さん、失礼しました 」
冷たい眼の紬は掴んでいる手を離すと、忍と時雨はさっさと部屋から出ていってしまった。
(何がどうなって…… )
豪雨のように突然で、そよ風のように去っていった忍に困惑してしまう。
だが目の端に見える琴乃の顔が赤くなっている事に気が付き、慌てて紬に声をかける。
「ちょっ、紬! 琴乃が死ぬ! 」
「あっ、すまんのう 」
「ゲホッ! ヒュー……ゲホッゴホッ!! 」
「大丈夫か? 」
窒息寸前で悶え苦しむ琴乃。
その体を支え、少しでも呼吸が楽になるように背を摩っていると、琴乃は私の手を握り込み、紬を睨み付けた。
「ケホッ、お前は……誰だ? 」
「わしは紬、この国に住んでおる半獣人じゃ。んでまぁ、お主の仲間から話を聞いたけ、大方事情は分かっておる 」
「霧をゲホッ!ゲホッ! 使う不死は……どこに居る? 」
琴乃は隻眼を鋭くさせ、重々しい声で威嚇するが、紬は威嚇など気にも止めずに乾いたため息を吐くと、気配がある扉へと顔を向けた。
「ほいじゃ、入っておくれ。待たせて悪かったの 」
「いえいえ。このくらい苦ではありませんよ 」
紬の合図で部屋へと入ってきたのは、私と同じくらいの背をした、緑髪の女性だった。
けれど女性は私には無い妖艶な雰囲気を漂わせ、口に薄く塗られた紅付けは、更なる色気を引き出しているようだ。
「初めましてお二人方、私は『雫』。霧を使う不死です 」
「っ! お前が!! 」
「待て琴乃! 」
琴乃が飛びかかる前に体を掴む。
仮にこの不死が私達の探している者だとしても、今戦いになれば『神器』を置いてきた私達では勝ち目はない。
しかもあの大和を殺した紬も居る。
(今は……大人しくするしかない )
困惑する琴乃を力強く抑え、目だけを紬達に向けると、私の目線に気が付いた2人は話を進めてくれた。
「お二人方の事情はある程度お聞きしております。ですが、私はあなた方の仇敵ではありません 」
「……証拠は? 」
「私は紬の妻ですので。妖を嫌う……というより、妖を憎む筋合いはございません 」
「しかもこやつは国の外に出ておらん。わしが証人じゃ 」
「……それがなんの証拠になる? 」
正直、私はこの短い話で紬達が仇ではないと確信した。
言い分で確信した訳では無く、対話で寄り添い、私達を納得させようとしてくれる姿勢を信じてしまったから。
けれど納得がいかないような声を漏らしたのは琴乃だった。
「妻であるからなんだ、他人なら殺そうと思えば殺せるじゃないか。そもそも身内であるのならいくらでも嘘を付けるだろう? 」
煮えたぎる怒りを隠しきれない言葉は、ある意味では正しいと思える。
だが仮に紬達が嘘を付いているとして、ここから逃げる事などはできない。
はっきり言って琴乃の発言は、自ら炎へと近付くような無謀過ぎるものだ。
「っ!? 」
嫌な予感が的中したのか、突如として雫の周りには霧が立ち込める。
すぐさま琴乃を庇おうとするが、それよりも強い力で腕を引かれ、無理やり頭を守られた。
しかしなんの前触れもなく息が詰まり、溺れるような苦痛が胸を覆う。
「ゴボッ!? 」
苦痛に耐えきれず咳き込むと、透明な水が口から溢れた。
水を飲んだ訳でも川が付近に無いにも関わらず、突如として体内から溢れた水に混乱してしまう。
それは琴乃も同様らしく、咳き込む音と共に私に生暖かい水しぶきがかかる。
「私の妖術は『底霧』というものでして、この霧に触れた者を溺れさせるものでございます。あなた方が見た亡骸には、溺れ死んだ人は居ませんでしたか? 」
激しく咳き込み、肺に入った水を必死に出している最中、そんな話し声が聞こえてきた。
一通り水を出し終え、すぐにでも返答するために痛む肺へと空気を通す。
「ゲホっ! いや、居なかった。みんな……全身を切り刻まれたみたいで……あと、深い刺傷があった 」
「ならば私が仇敵でないと分かって頂けましたね? 」
「……いや」
「あぁそれと、人を疑うのは体外に。やってもいない事を押し付けられるのも、他人の関係に口を出されるのも、そろそろイラついて来ましたので 」
静かだが確かな怒りを口にされると、流石の琴乃も何も言えなくなったようだ。
そのせいか、しばらく静寂が響く。
だがそんな沈黙を破るように、ずっと黙っていた紬がため息を漏らした。
「誤解は解けたか? 」
「あっ……はい 」
「そりゃ良かったわい。これ以上疑うのであれば、わしも怒鳴ってた所じゃぞ 」
紬の言葉は当然の事だ。
紬たちは妖と人でありながらも家族として縁を結んでいる。
そこにどんな苦悩や考えがあったかは分からないが、その縁を罪人を匿う理由にされれば誰でも怒鳴ることだろう。
「さて、お主らはこれからどうするつもりじゃ? 」
妖と長く関わったのに、彼女らの関係を疑ってしまった事を悔いている中、紬の言葉が聞こえた。
どうするか。
そう考えた途端、様々な答えが脳を埋め尽くす。
霧を使う不死の捜索、神器の回収、これから身を隠す場所。
けれど……けれども、まずやらなくてならない事がある。
「あの……おこがましい事は承知ですが、北に居る不死ともう一度合わせては貰えませんか? 」
「北? 」
「はい、刀を持った黒が似合う不死です 」
「あぁ桜の事か。じゃが何故じゃ? もう一度戦いにでも行くんか? 」
「いえ。ただ……謝罪がしたいだけです 」
無論、謝罪で済めばなんて思っていない。
だが……謝罪やけじめすらも付けず、自分達が付けた傷を無視して生きるなんて嫌だ。
そんなの……人間みたいだ。
「俺からもお願いします。冷静で無かったとはいえ、許されるべき事をしましたから…… 」
私と同じ想いなのか、琴乃は真っ直ぐな声を紬にぶつける。
すると少しの静寂が続いたが、紬は優しい吐息を漏らし、私達に大人びた笑みを向けてくれた。
「分かった、使用人たちに話は通しておく。じゃから今は……疲れを少しでも癒しておれ 」
優しい言葉と共に紬達は部屋から出ようとするが、その足を止めるように琴乃は立ち上がった。
「あの、雫さん 」
「はい? なんでしょうか? 」
「すみません……でした。あなた達の関係に……妖と人との付き合いに、口を出してしまって 」
「……謝れば済むとお思いで? 」
琴乃は辛い今でも関わらず、頭を下げて謝罪した。
だが雫は水底のように暗い瞳を鋭くさせ、殺意すら感じる威圧的な言葉を返した。
「いえ、全く思っていません 」
だが琴乃はすぐに風色の瞳を前に向けると、ゆっくりと……雫の傍へと歩みを進める。
「なんでもします。貴方の気が済む事ならなんでも 」
「……死ねと言われても? 」
「はい 」
誰もが迷うであろう質問に、琴乃は即答する。
すると雫の周りには霧が生まれ始めるが、琴乃は一切の動揺も見せずに暗い瞳を見つめ返している。
長い長い沈黙。
死が間近にあるような恐ろしい時間。
けれど雫はため息を漏らすと、辺りから霧を消し、さっさと部屋の外へと行ってしまった。
「紬、帰りましょう。妖術を使って疲れてしまいました 」
「分かった、分かった。んじゃお主ら、あまりうろちょろせんようにな 」
紬は私達に軽く手を振ると、雫を追いかけ部屋から出て行った。
2人きりになり、部屋は一気に静かになる。
お互い何も言えない気まずい空気が続く中、琴乃は部屋の扉を閉め、私の隣に腰をかけた。
すると両手で顔を力強く抑え、視界を塞いだ状態で静かな声を出した。
「なぁ雷牙 」
「……なに? 」
「俺たちは……間違いを犯したな 」
「……うん 」
「沢山傷付けて、沢山他人を苦しめたな 」
「……うん 」
「でも、この怒りは間違いじゃない。そうだろ? 」
「うん 」
次第に力強くなる言葉に頷いていると、琴乃は顔を上げ、赤くなった目元から涙を流し始めた。
「絶対に……霧の不死を殺そう 」
その言葉には頷きたくなかった。
でも、ここで琴乃の心を迷わせたくない。
そんな気持ちが首を縦に動かし、心に躊躇いを抱えたまま琴乃の背をさする。
「絶対に……絶対にだ 」
涙を拭い、鼻水をすすった琴乃は左手を力強く握り込み、左手で私の背をさすってくれた。
互いを慰めるような……互いを励ますような……優しい行為。
けれど私達の心は、何かすれ違っているようにも思えてしまう。
だが今は何も言わず、静寂とお互いの温もりで心の傷を癒し続ける。
このすれ違いは時間が解決してくれる。
そう信じながら……




