9章 9話
大地の巨鯨の背中に開いた裂け目から外に飛び出る。
見下ろす景色は凄惨なものだった。倒れ伏す巨鯨は猛毒で変色し、世界樹が突き破った箇所からは激しく血が吹き出している。これだけの惨状でまだ巨鯨が生きているのは、ひとえにその驚嘆すべき生命力によるものだ。
「…………」
やりすぎた。いくらなんでもこんなに苦しめるつもりは無かったのに。
相手がただのモンスターとは言え、所詮はデータの塊だとは言え、倒されるために作られたものだとしても。
この有様を見て笑っていられるほど私は非情になれないようだ。
鑑定する。この残り体力なら、私でもギリギリ仕留められる。
――楽にしてあげよう。
「ヘラクレス。力を貸して」
『ヘラクレス』に指示を出し、音速スレスレの速度で降下しながら双剣を抜刀。『エンチャント・トパーズ』を砕いて剣に雷属性を付与する。
十分な速度が出た後『ヘラクレス』は私を離した。ありがとう。巻き込まれると危ないからすぐに離れて。
「【真式】――」
雑念を捨てて意識をクリアに。剣と体の境界を消す。思考はもはや必要無い。この身は剣が望むままに動く剣の徒だ。
イメージするのは2つの炎。目を閉じて一瞬の集中を済ませ、双眸に炎を灯す。
漏れ出る殺気が陽炎を生み、瞳の炎が揺らめいた。
行くぞ。
『やめなさい』
巨鯨に千の剣閃を振るおうとしてその前に立ちふさがる者に集中がぶれた。
とっさに捨てた思考を拾い上げて、意識的に剣にブレーキをかける。それでも勢いづいた体は止められそうになくて、このままだと正面から衝突するってところで追いついた『ヘラクレス』が私を回収し、綺麗にブレーキをかけてくれた。
……こんな咄嗟の自己判断で衝突を防いでくれるとは思わなかった。助かったよ。
それよりも、だ。
急に出てこないでくださいよ。びっくりするじゃないですか。
『あなた、なんて顔してるのよ』
「……そりゃ戦いですもの。笑ってなんかいられませんよ」
『だからって泣くことも無いでしょう』
「泣いてません」
『今にも泣きそうな顔よ』
「泣いてません」
巨鯨の背中に着地し、『ヘラクレス』をインベントリにしまう。剣は抜いたままだ。
何しに来たんだリグリ。もう少しで斬るところだったじゃないか。
「邪魔しないでください。私はソレを、斬らなきゃいけない」
『ダメよ。この子は我が眷属。眷属同士で争うような真似、見過ごすわけにはいかないわね』
「そんなこと言ってられる時間はもう過ぎたんです。ソレはもう助かりません。楽にさせてあげてください」
『あなたがやる必要は無いでしょう』
「ここまで苦しめたのは私です。今更知らない顔なんてできない」
『なら泣くのをやめなさい』
泣いてねえっつってんだろ。殺すぞ。
リグリを無視して剣を振るう。剣は不思議な力で弾かれ、勢いのままに吹き飛ばされた。
空中でくるりと体制を整えて着地する。体を低く、臨戦態勢で、吠える。
「邪魔を、するな!」
『あなたね。何かを殺すのが怖くて仕方ないくせに。無理するんじゃないわよ』
「何を言ってるんですか。そんなわけ無いでしょうが。今更そんな、何が怖いだって!? 笑わせるな!」
『私の知る人間って生き物はね、まるで罪悪感も無くそれこそ遊びでもしているかのように命を殺すわ。それなのにあなたは戦うたびに覚悟を決めて、殺すために思考を捨てて。自覚していないようなら教えてあげる。あなたがやっていることはとても人間らしくないわよ。』
「っ…………!」
違う。黙れ。
お前に何が分かる。
お前に私の何が分かる。
『見ていられないのよ。我が眷属がいたずらに傷つくのはね』
力なく倒れる大地の巨鯨にリグリがそっと手を触れる。巨鯨の体を大地色の光が包み、その光に包まれて巨鯨は静かに消えていった。
光に包まれて巨鯨が消える。優しい光が地底に満ちて、眩しくてふと目を覆った。
「巨鯨は、どこへ……?」
『滅びたわ。そしてまた芽生えるでしょう。輪廻の輪は廻り続けるの。あなたたち人間を除いてね』
「人間以外は……」
『そう。それがあなたたちの種族の罰よ。神々に反逆したあなたたちは輪廻の輪の外に置かれたの。かの神、ウルマティアの手によって』
……知ってるよ。
この世界が私たちに味方しないことも、ウルマティアが私たちを殺したがっていることも。そして私たち人間以外の全ての生き物は、死してもやがて生まれ変わるということも。
この世界では死んでも生まれ変わることがスタンダードだ。私たちだけが、その法則から外れている。
『一つだけ小言を言わせてもらうわ。あなたたち、何もあの子と争うことは無かったのよ。あの子には私の神殿を外敵から――主に人間ね――守るという使命を与えていた。でも、同じ眷属たるあなたならあの子と和解することもできたでしょう』
「それは……、そんな……」
『よく聞きなさい。あなたが人の理を外れた術を使って、未来へ至る手段を探し続けてきたことは知っているわ。それでもあなたはまだ正解を選んでいない』
正解……?
なんだそれは。私は間違えたのか? 私は一体、何を間違えた?
わからない。でも、もう立ち止まれないのは確かだ。今更引き返せやしない。
私はこの日のためにずっと準備してきたんだ。
『これは贔屓目かもしれないけどね、私はあなたを眷属としたことを間違いだとは思っていないわ。きっと私たちとあなたたちの間に必要だったのはそういうことだったのよ』
「そんなの無理ですよ。私には、私にだけは、それは絶対にできない」
『……馬鹿ね。本当に馬鹿。私がこれほど目をかけているというのに、どこまでも愚かしくて……。だからこそ愛しいわ』
リグリは優しく私を抱きしめる。
それでも私の心は変わらない。頬には水の一筋も流れないし、私の心に巣食うものも揺るがなかった。
……いや。リグリの言うとおり、あるいは私は泣いているのかもしれない。濁った心じゃ何が真実なのかもわからない。
狂っている。いつからだ。
それはきっと。
『神命よ。あなたはここで退きなさい。よく考えて答えを出すの。これがあなたに与えられる最後の時間よ』
「断ります。答えは変わりません。それに私がここで退いてしまったら結局何も変わらない。何も変えられないままです」
『……そうね。仮にあなたが退いたとしても他の人間は退かないでしょうね。まったく、どこまでも忌々しい。人間はいつもいつも私の物を安易に奪おうとする。いっそ今この場で根絶やしにしてやろうかしら……』
「リグリ様」
『…………。神殿で待つわ。準備が済んだのなら来なさい』
準備なんて終わっている。
迷いはもう無い。
たとえこれが過ちだとしても。
私はこれしか道を知らない。
だって私はもう。
とっくに。
気がつけばリグリの姿は無く、私は瓦礫の上に立っていた。
「店長、何を話してたんだ」
「……なんでもない」
肩に置かれた銀太の手を振り払った。
少し離れたところで戦勝処理をしている攻略組の方に歩を向ける。
前座は終わりだ。行こう。
リグリの神殿へ。




