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同じ穴のムジカ  作者: 岩橋のり輔
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大船。平音楽教室。(リフレイン)




その夜遅く。



閉館時間ギリギリまで待っても一向に現れる気配がない松黒に、ついに守衛も痺れを切らして追い出された。


このままどこか遠くの地での公演か、はたまた幽閉染みたマンションへ連れて行かれることを覚悟していたクロエ・エドゥアールは、甚だ困惑の態で新橋から東海道線の最終列車に乗り、再び大船の地に降り立った。


黒江さんとしてではない、クロエ・エドゥアールというフランス人として、洋服のまま訪れるそこは、慣れ親しんだはずなのにまるで遠い異国の地へやって来たような気分にさせた。


思えば、良くもまあ行き場所をしょっちゅう失う人間である。



フランスで、鎌倉で、そして大船で。



それも全てに直接的間接的問わず、松黒誠司郎が関わっているという事実に、クロエは己の不運を嘆く反面、松黒の止め処ないしつこさとパワーに、敵ながら天晴れと敬服した。ここまでリミッターが外れているからこそ、成せる偉業というものもあるのだろう。



ただ――。


ただ、このまま家に帰ったら。



もし松黒が居たりしたら何とも気まずいし、もし何事もなくあのポットの陰に隠した手紙だけを読まれたとしたら、なおの事気恥ずかしい。


可能性は山ほどあるが、そのいずれもが結構気疲れのするものになりそうですね――と溜息を吐くと、ふと当たり前のように『家に帰る』という表現を使っていた自分に気が付いた。


――私も、勝手な解釈という意味では大概ですね。


クロエは苦笑した。




大船駅の笠間口を降りると、目の前にはもう夜遅く、ネオンすらも落とされたパチンコ店やドラッグストアが並ぶ目抜き通りがあり、二十四時間営業のコンビニエンスストアが昼間と変わらぬ煌々とした光を放っている。そこを真直ぐ突っ切ると、幅の狭い商店街があって、小売店がシャッターを閉ざして立ち並んでいる。八百屋と寿司屋の先には、これまた分厚い鎧戸に閂が掛かった〈船月庵〉という和菓子屋が、その脇の十字路を挟んだ斜向かいには、小さな広場がある。


昼間でも判然としないのに、真夜中では一層得体の知れないそこは良く目を凝らすと神社で、月明かりに照らされた朱塗りの鳥居と、丸く可愛らしい顔をしたお稲荷さんが並んでいる。


それより先は住宅街で、街灯の外は灯り一つない、静かな通り。塀の上に近所の飼い猫が、爛々と宝石のような目を輝かせて座っていた。


手を差し伸べると逃げてしまい、その先を目で追うと、瓦屋根と引き戸を持つ、典型的な二階建ての昭和家屋がある。密集地らしく前庭がほとんどなく、玄関が門のすぐ近くにまで迫っているそこには、楷書体の表札と並んでもう一枚木の看板が掛けてある。


暗くて良く読めないが、そこにはこう書いてある。




『平音楽教室』。




「ただいま戻りましたァ……」


意を決して中に入ってみると、物音一つしない完全なる沈黙が立ち込めていた。


けれど、廊下の向こうから漏れ出ている光が、主がまだ床に就いていないことを物語っている。


恐る恐る襖を開けると、主――短く刈った短髪を、気ままな方向に巻いたつむじの所為で奇妙な寝癖のようになっている長身痩躯の男が、ちょっと猫背気味の背中をこちらに向けて座っている。


どうやらうつらうつらとしていたらしい。


襖の縁を伝う音に目覚めた男は、寝ぼけたような様子だった。


「ん……なんだ、黒江さんか。お帰り、遅かったな――」


予想外の出迎えに、戸惑うクロエ。



なにか――なにもなかったんですか?



そんな心配を察してか察さずかは知らないが、男は猫が欠伸するような間延びした口調で言った。


「なんか――腹減った」


昨日までと同じような、なんてことはない、取り留めのない会話。


けれど、その一言で全てを察したクロエは――いや、黒江さんは、みるみる内に明るくなり、まるで昼日中のような声量で言った。




「はい、ただいま!」




(完)




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