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夜明けの星たち  作者: 羊野棲家
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第5章 夜明けの星たち

(1)


 有効な方法が見つからない中、ただ3か月が過ぎた。洋平は高校に隣接していた大学病院の特別施設に収容されていた。晴陽奈は、講義の時間以外は研究室にこもりきりだった。そういうことは今までもあったことだが、強いプレッシャー下にあることが、悠子や助手メンバーにも十分わかった。

 一方、洋平はベッドから起きたり、以前のように活発に勉強したりするようなことがなくなっていた。集中力がないのは、もともとですよ、と言って笑っていたが、それは病気による影響とみて間違いないことは、だれの目から見ても明らかだった。


 今まで研究してきた治療方法や新たな手法については、試されていたが、その効果はほとんどなかった。治療がひと段落ついて、晴陽奈が、研究室でぐったりしているところに、悠子が現れた。

「晴陽奈、ちょっといいかな」

「なに。どうしたの?」

「ねえ、洋平君なんだけど、まだ今後の話をしてないのでしょ」

 晴陽奈は、その言葉にどきっとした。まるで死をイメージする。そんなことあるものか…。

「今後の話って、どういう意味?あなたらしくないわね。その言い方は…。」

「ごめん。そんなつもりじゃないの。でも、洋平君、今のままでは、治らないかもしれないよ。あなたにとっては、そう、いろいろな意味で大事な人でしょ。それなら…」

 晴陽奈は目をそらして。立ち上がりながら言った


「治すよ。必ず治す方法は見つけるから。私のせいなんだし。」

「それはもちろん、晴陽奈の姿は見てるから、その気持ちはわかるけど…。駄目な場合もあるっていったほうがいいんじゃないの?」

 晴陽奈は悠子の方を向いて言った。その目は充血していた。そして疲れて、いらだっている。

「ダメ、って何? そんなこと言えないよ。まだ高校生なのに希望まで奪ってしまうことになるかもしれない。そんなことはできないよ」

「でも…、私が言うのはおかしいかもしれないけど…。専門の国立感染医療センターか海外の施設で集中的に見てもらうことだって可能性があるかも知れないよ。」

「感染センターはだめよ。モルモットにされるわ。治療法が確認されているならともかく。そんなの絶対許せない…」


 晴陽奈の知っている限りでは、人間へのウィルス感後、回復した事例は報告がなかった。動物実験においても研究室の中で回復した動物は皆無だった。このウィルスの侵入方法はまだ理解されていなかった。このウィルスには謎が多かったが、この罹患経路が分からないのも大きな特徴だった。そのため規模が大きくないのが幸いし、世界的にしたのかが全く分かっていなかった。そもそも、このウィルスの伝播方法が分からないのがこのウィルスの手ごわさであった。それに今回の騒動でも、晴陽奈は感染しなかった。晴陽奈も洋平も感染動物の血を浴びたのは同じである。研究機関においては、粘液の接触がないようにという通達のみであった。今回の感染結果を踏まえて、国際的な上位の研究機関から連絡が多数があり、専門機関から血液や遺伝情報の提供を依頼されていた。しかし晴陽奈は、転院だけは頑なに断っていた。国際的な研究機関では感染者の契約被験者を募集している。彼らは、多大な功労金と犠牲の心を持って、苦しみながら、研究対象となってくれているのだ。ましてや、洋平であれば、献身を喜んで行ってしまうかもしれない。そしたら、まず助からない…。誰かの礎にはなるだろう。それを彼は望んでしまうかもしれない。私のためだとか言って。でも、私は、それでは困る。彼には生きていてほしい。ずっと、普通に暮らしてほしい。そうでなければならないのだ。私のそばで。


 重い雰囲気であったが、悠子は口を開いた。

「でも彼にとっての残りの生き方にだって影響すると思うの。それは、晴陽奈が一番わかっているとは思うけど」

「そんな話をしたって、もう遅いよ。あとどれだけ安定して過ごせるかわからない。他の動物実験に比べても洋平のウィルスが細胞を破壊する速度は進行が速い」


 晴陽奈は頭をかきむしった。その理由はわからない。

 血液検査は私も洋平も同じだ。遺伝情報も、通常の解析では違いはない。男と女が関係あるのかもしれないが… 。

「自然に感染したのとはどうも違うらしいの。そうね、もしかすると洋平がかかったのは、いろいろ実験して生き残った強いウィルスだからなのかもしれない。国際的にも対症療法しかしていないし。彼らがしているのは予防や浅い症状の人を生かす方法なの病院で奇跡の処方箋が見つかればいいけど、そんなことはあり得ない…。大学病院でモルモットにされるのがいいのか…。それくらいなら、私の研究の方がきっと見込みがある。私は、スランプってわけじゃないんだから!きっといい方法が見つかる。ああもう!どうすれば」


 しかし晴陽奈は、その可能性は極めて低いことを知っていた。考えないようにしている。目をつぶっているだけだ。それに、晴陽奈の研究室は、根本的に病を治すところではない。ウィルスの構造を放射化学によって理解し、その正体や特性を暴くことが第一の目的なのだ。そのウィルスを攻撃する何かを探しているわけではない。可能性はゼロではないが、極めて低い。でも、晴陽奈は、洋平を手放そうとは思わなかった。それは生徒であり、今では愛する相手でもあり、自分を慕ってくれる大事な人である。裏切れるものか…。それに、洋平の両親が見舞いに来たことを思いだす。―どこか諦める感じのある息子が生き生きと将来について語ってくれたのが何よりうれしかった。安全面について腹立ちはあるが、洋平と晴陽奈の信頼関係を信じたいー、と言ってくれた。


 深い苦しみに沈む、晴陽奈を見て、悠子が口を開いた。

「私もあなたと洋平君のことは信じているよ。だからこそ、彼に残されている道について選べるように言ってあげないと」

「だからダメ。とにかくだめだから。それは、私が決めるから。でも言わないよ。私だって、彼を救う、いや彼だけじゃない、この病にとらわれているもの、すべてに対して救うんだから…」

「わかってる」


 悠子は、悲しく目線を落とした。二人の間には、沈黙が続いた。晴陽奈と洋平の姿を見つめ続けていた悠子にとっても、苦しいほど二人の気持ちがわかった。それをいまさら一般論に置き換えて意味があるだろうか。残りの道も二人で探すしかないのだ。

 わかったよ。私も少しでも手伝うから…、彼の言うとおり、明るくどこまでも努力しないとね…、そういって立ち上がった。二人の間にもう冷え切る直前のコーヒーの香が漂った。


 悠子が立ち去ったあとしばらくして、晴陽奈は、洋平の実験室へ向かった。

「どうしたんですか?いい方法、見つかった、ってわけではなさそうですね。晴陽奈先生、ちゃんと研究してるのかな。」

「もちろん、ちゃんとしてるよ。少しづつだけど、進歩しているんだからね」

「ならよかった。疫病に関するワクチン開発には多大な時間がかかる、って教えてもらいましたからね。少しづつでも毎日進まないと、完成しない」

「そう、よく覚えているじゃないの。まあ、私の研究はワクチンではないけれど、実験としては同じようなものだわ。」 

 しかし晴陽奈は、現実には解決の糸口さえないことが、どうしても言い出せなかった。それは、悔しいわけではなく、申し訳ないからでなく、洋平が心から晴陽奈に期待していることを考えると、そう言えなかっただけだ。

「あの、やはり、私にはこの病は難しいかもしれない」

 そこで晴陽奈は、言葉を切った…。洋平から言葉を発することは最近少なくなった。

「ね、でも大きな病院なら、何とかなるかもしれない。」

「え?ここから出ていけということですか!」

 洋平は、この時ばかりは目をむいて体さえ起こそうという勢いだった。

「先生は、僕をあきらめてようって言うのですか?」

 その話し方は、いつもの洋平らしくなかった。晴陽奈はそれに直接答えなかった、いや答えられなかった。

「…。そうかもしれない。私にはもう、どうしても解決できない気がする」

「そんなことないですよ。困るなあ。僕のこともあきらめるというのですか?あきらめたからといって、どうなるって言うのです。ほかの大病院で実験されることになっても、どうなることやら」

 晴陽奈は洋平が答えるだろうと思っていた回答からずれているのが意外だった。私に全幅の信頼を置いている。

「ごめん…、ごめんね。でも、そっちのほうが治る確率が少しでもあるから」

「困ったな。先生を信用してたのにな。優秀だと思ってたのに」

「ごめん。わたし、そんな優秀じゃないの」

「ちょっと、いやだな。先生らしくないですよ。わかってますよ。そんなことを言っていても、先生は最後には治してしまうんだ。僕は信じてますから」

 ごめん、と晴陽奈は言おうとしたが口から出なかった。何か違う。洋平らしくない気がした。今までの洋平ならそんなことを言っただろうか。もしかして、病気の進行が、彼を変えてしまっているのだろうか。よくない、これは、よくない傾向だ。そして、私の希望は、少なくなる…・・。

「僕は先生と出会えてよかったんです。全然、後悔していませんよ。だって、先生に会えなかったら、ぼくには知らないことがたくさんあった。こうやって出会えて、病気にはなったけど、先生と一緒にいる時間もできたし。何しろこうやって命を懸けてまで信じることのできるひとが、できたんだかから」

「ただ生きて、生きるために苦労して、満たされずに老衰したり、殺されたり、人を殺したり、犯罪者になったり、そんな不幸が充満しているこの世界で、ぼくは幸せだと思うんです」

「自殺志願者じゃないですよ。治って先生と一緒に幸せに暮らしていきたいと思ってた。でも、それができないとなっても、ぼくはこうして最後の最後まで先生を信じて、愛して死んでいくことができる。それ以外何もない。こんな幸せって、お金を払ったってできないですよ」


 晴陽奈は涙が止まらないでいた。どうしてだろう。こんなことの原因になったのはすべて私なのに。私は利己主義でただ彼をからかっていただけなのが、ひそかにお互いの温かさを求めることになり、事故に追い込むことになり、死なせてしまうかもしれないといのに…。

「ばか。勝手に死ぬ予定にしないでよね。私が治して見せるわよ。私のせいで死なれたりしたら、私の夢見が悪くなるじゃないの。そんなの嫌だからね」

「ううん。夢に出られたら、それは幸せだなあ」

 それを洋平は、まるで上の空のような顔で言い放った…。晴陽奈はその姿を見て言いようのない悲しみに襲われた。もうこれ以上、口を開けない。強気を奮い起こせば、洋平は、喜んでくれると思っていたのだが、気力も失いつつあるのだろうか…。もしも元気なら、もっと違う反応があるはずだ。晴陽奈は、洋平の衰えを痛感した。いつも、けなげにふるまっているのは、やはり演技だったのだ、と晴陽奈は思った。


 その日の夜、洋平は初めて意識が混濁した。

 意識を失った洋平に打つ手はなかった。メンバーがなんとか対処するのを呆然と見ていた晴陽奈は、病室を出た。足取りは鉛のように重く、どうしても逃げられないおもりが体についていた。研究室には賀名生悠子がいてくれたが、それに気づくのも彼女が直ぐそばまで寄ってきてからだった。

「大丈夫?なわけないね。ごめんね。こんな言葉しかかけてあげられなくて」

 そう言って、悠子は胸に晴陽奈の頭をやさしく抱いた。

 晴陽奈は生まれて初めて声をあげて泣いた。


(2)


 洋平の意識の混濁は不定期で、病状は確実に悪化していた。晴陽奈は研究をしようにも洋平の病状が気になることと、罪の意識でどうしても集中できないでいた。そして、その負のスパイラルは、どこまでも晴陽奈を追い詰めることになった。

 ある日、晴陽奈が洋平の病室に行くと、驚いたことに洋平が立ち上がってうんうん言いながらベッドを動かそうとしていた。

「ちょっと、何してるの!洋平」

 思わず晴陽奈はそう叫んだ。洋平は涼しい顔と照れたような顔をして晴陽奈を迎えた。

「いや、ちょっと、え~っと、模様替え?」

 そんなことを言いながら、立ちすくんでいる洋平を見ると、晴陽奈は一気に悲しみがこみ上げた。

「ばかっ、どうするのよ。怪我でもしたら。おとなしく寝ててよっ。私をこれ以上驚かさないでよ!」

 といって、一気に涙をあふれさせた。そして洋平をベッドに押し付けると目を合わさずに、逃げるように去った…。

 しばらくして悠子が、定期的な見舞いに現れた。

「あら洋平君、今日は、体調よさそうですね」

 洋平が、腰かけているのを見てそう言った。

「あ、うん。そうなんです。あの、晴陽奈先生大丈夫でした?」

 それを聞いて悠子ははっとした。

「そうそう、晴陽奈と何かあったのですか?研究室にいたけど、声をかけても無言だったので、おかしいとの思ったですけど」

「いやあ。多分、怒らせた…。不安なんです、なんか…」

 洋平が言い及んでいるのを、悠子は安心させるように言った。

「それは、恋の悩みですね。好きな人のことで言えないことがあれば、私が相談に乗りますよ」

「え? なんで、知ってるのですか」

 洋平は、少し驚いたらしかった。

「だって、私と晴陽奈は大学が同じだし、専門は違うけどずっと仲はいいのですよ。学校でなければ、名前で呼び合う仲ですからね。まあ大体の顔をみれば、ね」

「そうでしたか…。そういえば、そう言う事、僕は全然知りません」

 そこで大きなため息をついた

「でも晴陽奈は、洋平君と関わりあってから、すごくいい顔をしていましたよ」

 そう言っても、洋平の顔色は変わらなかった。むしろ何か思いつめているようだった。悠子はその理由を聞いておかなければならないと思った。洋平君と晴陽奈のお互いの立場では、もう聞けないことが多すぎる。晴陽奈のために、そして洋平君のために、何かできることがあれば、私が何とかしなければ。

「ね、洋平君。私はあなたの担任だし、晴陽奈の親友だよ。なら、私に話せること、ありませんか? ね、よく考えてみてください」

 洋平は、濁った頭だったが、その言葉は妙にすんなり入ってきた。

 洋平は、この状態で自分は、じっくり考えることはもう難しいと思っていた。どうしても頭がぼんやりして、考えがぐるぐると回るだけなのだ。しかし悠子の言葉を聞くと、ある思いが浮かんだ。それは、悠子が、ずっと信頼できる人だったという事だった。理論的に考えたわけではない。でもこれまで入学以来悠子と接してきてその誠実さや、学生や他の人との信頼、いろいろな場面で悠子はその誠実さを発揮してきたのだ。その姿は根拠云々ではなく、見てきた洋平の脳に本能的に仕組まれていたのだ。病に侵された脳であったが、この人は信頼できる、という判断を下すことだけは、まだできた。それは洋平にとって最高の安心を与える材料だった。

 混迷していたが洋平は、脳細胞の正常な部分を最大限に活用して助けを求めるように努力した。ここで諦めたら、次に頑張れる時が来るのか自信がなかった。


「ええっと。僕は、この世界に生きていたと言えるのか、自信がないです。もし、人類が、白亜紀の大型動物やデボン紀の大量絶滅、もっと古いのは、えっとバージェス動物群のようなことになってすべてが失われたら、何が、ぼくらの、ぼくの生きたあかしに、なるの、でしょうか。僕の晴陽奈先生への思いとか、お互いの思いは消えてなくなって、それだけなのでしょうか。化石になっても、その心は見つかることはないの、でしょうけど、それは、さびしい。僕と晴陽奈先生の心の重なりは、どこに行ってしまうのですか。僕、不安…」


 洋平はそこで、沈黙した。限界だった。悠子は、すぐに言葉を発したりはしなかった。洋平が回復して意識を集中できるようになるまで待った。洋平の目の濁りはすぐには戻らない。悠子は部屋を見渡す。この部屋には窓がないから駄目だな。洋平はどれくらい空を見ていないだろう、でも窓があったら外に出てしまいたい欲求を止められないかもしれない。意識を混濁した人を信用するわけにもいかないのか。病は本当に人の心まで蝕んでしまう。悠子はこちらを見る洋平に気づいた。眼で訴えかけている。大丈夫なのだろう。消滅に関する不安だ。誰にだってある。そう、私にも。

「そうですね。うん、それはとっても大きな、悩みですね」

 その話し方は、眠りにつく子供に対するような優しさを感じさせた。

「生きとし生きるもの、みなそれをきっと悩んできたのだと思いますよ。今も昔も」

 悠子は洋平の顔を見た。悠子は相手の顔を観察する。いま洋平が何を求めているのか、それが本当に聞きたかったのか。それを確かめる。もう時間は少ない、繰り返せない。今が、すべてなのだ。悠子は、自分が人のことを本当にわかってあげることはできないということを、若いころに何度も痛感していた。それならば、自分の全神経を研ぎ澄まして、相手の気持ちを観察して、感じてあげよう、と悩みぬいたある日、思い至った。それは十分な効果を発しないかもしれない。でも、きっと死ぬまで満足できないことなのだ。そういうことを理解するに至って、悠子の心に揺るぎはなくなった。


 今、悠子に洋平の目は真剣に見えた。目は物理的に混濁の兆しがありありとあらわれていたが、そういう問題ではない。確信して悠子はにっこりほほ笑んだ。

「昔から人は後世に色々な形で想いを残してきました。新しくは、文書とか。古くは壁画とか、音楽。それに建築物もそうかもしれません。あるいは行動や伝承とか。今残っている古代の伝説や宗教の物語なんかも、そうよね? うん。そしたら、その意図は今の人たちに正確に伝わっているかな? どう思いますか?」

 洋平は無言だった。それは混濁しているようにも見えるが、目には力があると、悠子は思って続けた。

「そうですよね。よくわからないよね。たとえば、私だって国文学の先生としてみんなにいろいろ作家の気持ちや、この文章はこう解釈できる、って偉そうに話しているけど、それは、現代の人たちの推測なのです。先生がこんなこと言ったら怒られるかもしれないけど。自分の考えってものは、どんな形にしても、残すことは難しいのではないでしょうか」

 悠子は、静かに言葉をつづけた。

「でもがっかりする必要はないです。だって、今の洋平君の思いやここまでの洋平君の晴陽奈への思いは、晴陽奈自身の心や…、そう例えば私の心にだって確かに残っている。あなたの気持ちがなくなってしまう事なんて、全く心配しなくていいのですよ。それはどんなことがあっても、消しがたい事実として、そこに存在したのですから。そして私たちに刻まれたあなたの想いは、誰にも消せません。強い想いは、人と人でつながっているのです。脳を構成する神経細胞のネットワークのようにね。」

「神経…、細胞…、ネットワーク」


 洋平は思い浮かべた、教科書に載っていたシナプス? だっけ。あんなネットワークが人と人に…。離れているのに。

「たとえ離れていても。そして強い想いは、きっと遺伝子レベルの組み合わせにも影響して少しずつ変化していく。死んでしまったら何も変わらずになくなってしまうような気がするけど、そうではなくて、身近な人に確かに残っていくのだと思います」

「遺伝子レベルの、つながり。人と人が」

「だから、私たちは今をがんばって生きるしかない。洋平君も、私も。悲しんだっていい。泣いたっていい。凹んだっていい。くじけてもいい。でもその気持ちをしっかり行動すれば、晴陽奈や私、周囲のみんなに伝わっているのです。伝わったふりをしない人がいるかもしれない。でもそれはひそかに、人と人のネットワークに影響しているのです。それは、あなたの生きた証拠になります。だから、安心して」

 悠子はそこで話をやめた。洋平はゆっくりと目を閉じたからだ。


 どれくらい時間が経っただろう。洋平が口を開いた。

「賀名生、先生、ありがとう」

「うん」

 洋平は自分でゆっくりと体を横たえた。その落ち着いたしぐさを悠子は見守った。やがて寝息が聞こえるのを待って、静かに立ち上がった。そっと扉の方へ向かう悠子に小さな声がかかった。

「賀名生、先生、あとで、伝えて。やっぱり、僕も残したい気持ち、耐えられなかった。ベッドの下…、ある」

 悠子はそっと洋平のそばに寄った。少し空いた目からは生気はなかったが、意志を持っているように思えた。不安だろう、寂しいだろう。でもきっと洋平君なら大丈夫だと思う。そうして静かに答える。

「うん。わかりました。安心して。かならず晴陽奈に伝えるから」

 悠子は、今度こそ寝たのを確認してから病室の外へ出て、その扉に背をもたれさせて考えた。


 私の言ったことは、彼の期待に応えただろうか? 彼の心の重しを少しでも除いてあげられただろうか。悠子は自問しながら、人が短い一生に生きる存在価値はなんなのだろう。何かを残すことだろうか…。やはり私にはそうは思えない。形あるものはいつか壊れてしまう。どんな偉大な作品でも、その人にとっての幸せはその人が生きているときに得られなくてはいけないと思う。十分に考えられる時間を持つならば、人生をかけてじっくり探索すればいい。しかし洋平や晴陽奈には、残りの時間がなく、十分な思考を許されない。そんな洋平に、あの回答をすることは、よかったのだろうか。悠子は廊下にある長椅子に座りこんで、ぐっと重くなった体と頭を横たえた。


 気を取り直した悠子が研究室に戻ると、培養室の赤い電気に照らされて、温度管理をやっている晴陽奈の姿が亡霊のように映った。それは痩せこけて、細くなっていて、目だけがギラギラと焦燥にあおられていた。

「もう、3日もベッドに入ってないでしょ。あなたが倒れたら、洋平君は救われないのに。ちゃんと寝ないと。また笑われるよ」

 悠子は、電気をつけた。晴陽奈は一瞬眩しそうにし、立ち眩んだように、よろよろして椅子に倒れるように座った。

「だから、私も代わってあげられるから。声かけてよ。今いくつ検体があるの?」

 悠子は、晴陽奈の体を整えると、白衣を着ながら、ふたたび電気を消して培養室を見た。あれ?そこには、シャーレがいくつもあるが、どれもあふれるように汚れていた。おかしいなと思い温度を見ると、すでに50度を越している。培養は失敗し、温度上昇ですべて死滅しているだけだった。

 悠子は、だまって電気をつけて、晴陽奈を見た。

 晴陽奈は薄く目を開けていたが、その目に生気は失われていた。悠子は、絶望と言うものが形になった人の状態を初めて見た…。

「だめ。どうしても、できない…」


(3)


 洋平の意識はだんだんと混濁していき、数日ごとに回復を繰り返していたのだが徐々に回復している時間が短くなっていった。ある日、3日間の長い混濁の後意識が戻った。晴陽奈はあわてて、病室に向かおうとしたが、最近ぴったりくっついている悠子に引き留められた。

 ちょっと待って、そんな恰好で言ったら、嫌われるよ。

「そんなこと、どうだっていいじゃないの…」

「そんなことないよ、好きな人がボロボロだったら、洋平君だってショック受けてしまうよ。晴陽奈は最後まで洋平君のあこがれの人でいないといけないよ。彼の眼はあなただけを見てる。それが彼の希望なの」

 そう言って悠子は、晴陽奈の髪をとかし、新しい白衣を着せたのだった。できるだけ時間をかけてゆっくりと。


 翌日、晴陽奈はある強い決意をもって、点滴の準備をしていた。それは洋平の体をむしばむウィルスを培養したものであった。この培養サンプルは、いくつかの研究機関には厳重に送付済みであったが、芳しい結果は得られていなかった。晴陽奈はある仮説を立てていた。あの時の血液による感染であるなら自分も感染するべきであって、洋平が感染したのは運が悪かったのだと思っていた。さらに、他の動物に培養液を注射しても感染の有無はまちまちだったのだ。しかし少し傾向が見えているのは、遺伝子情報が複雑なものほど感染率が高いのであった。他の研究でもこの傾向は認められていなかった。それは、晴陽奈の研究が遺伝子に係るもので、通常なら感染は極めてまれな量だったことが関係しているかもしれなかった。


 実際、あとで気が付いたのであるが、培養を繰り返した経歴の最も長いものが例の猿に使用されていたのだ。その構造の違いは最新の生体走査型オングストローム三次元スキャナーの試験運用の結果で判明したもので、構造がわずかに異なっていたのを発見したのだった。

 各研究機関は困惑と結果の受け入れを拒否していた。それぞれの研究がほとんど役に立たなくなったかもしれないからであった。国連中心に研究体系の立て直しが始まっていたが、出遅れは否めなかった。どれが最新あるいは人に罹患するウィルスなのかの判明が進まない中、晴陽奈は手元で培養されたものは感染する可能性のあるものだった。これを自分に注射すればあの時の未感染が、偶然なのかわかる。万一感染しなければ、私を切り刻むか、血液や臓器を替えてあげたっていい。


 晴陽奈は、注射器を持ったまま、研究室の高感度流体モニターの下に服を脱いでになって横になった。

 晴陽奈は感染経路も影響していると考えていた。体内での経路によっては、感染しないかもしれないと考えた。特に感染する・しないの違いが例えば、外傷の位置に関係するのかもしれない。

このモニタリングを行えば、経路が分かるはずだ。ただし、このモニタリングを行うには体温を相当下げなければならない。そもそも脳死判定者の有期冷凍保存用のシステムの実験用であるため、生命にも影響しかねないものだった。しかしこのシステムは西山田が精魂込めて作り上げたシステムで、晴陽奈はみじんの不安も感じていなかった。

 

 晴陽奈はモニター室にいる研究室にオーケーを出した。彼は少しばかり躊躇して、作業を始めた。室内の気温が下がる。晴陽奈は点滴を準備して、自らの腕に刺して、横になった。やがて体は冷たさで動かなくなるだろう。あとは点滴を開くだけだ。晴陽奈は十分室内温度が下がったところで、迷わずコックをひねった。猛烈に暖かい液体が凍っているような自分の体に入り込むことが分かった。これは晴陽奈の残った意識を恐怖に陥れるのに十分だった。未知の危険な生命体が否応にも欠陥から体に入り込み、隅々にまで浸透する。晴陽奈は耐えられず叫んだ。しかし凍りつきつつあるからだはそれを許さず、わずかに残った肺の少しだけ暖かい窒素と二酸化炭素を吐き出しただけであった。

 

 この実験の結果、晴陽奈は感染しなかった。晴陽奈は絶望したが、この実験を繰り返した。3回繰り返したところで、自分は感染しないことを認めざるをえなかった。一方、モニタリングの結果、一定の経路をたどったところで、一斉にウィルスが効果を失うことが分かっていた。その時間は血液が脳幹にたどりつく時、何らかの判断を下すらしいことが分かってきたが、その何かは今もって何もわかっていなかった。

晴陽奈はぼろぼろの体で一つの結論に達さざるをえなかった。


- このウィルスは自分で判断して殺す殺さないを決めている。洋平は、治らない -


(4)


「先生!」

晴陽奈を認めると、洋平は直ぐにそう言った。その顔を見ると晴陽奈は、思ったより意識がはっきりしているように思えた。晴陽奈が言葉を出す前に、洋平が続けた。

「今日は。えっと、…気分がいいですね。なんか起きられそうな気もする」

「そんな、無理しないでよ。せっかく安定しているなら、ね」

「あれ、先生今日は、やさしい…ね。なんか調子狂うのだな」

「あら、どういう意味かな。洋平にはいつも特別にやさしくしてあげていたはずだけどね」

「そう…、からかう対象にしていただけ。でしょ」

「そんなことない…。ほんとだよ」

「ははは…。なんか嬉しい…。な」

 晴陽奈は、このまま回復するんじゃないかとさえ思えるほど、洋平が普通に反応するのに、驚いた。もしかすると、ウィルスが減少しているのではないか?検査してみてもいいか。と思い、腰を上げ、もう一度洋平を見た。洋平は、笑ったままだった。

 洋平?おかしいと思い呼びかけたが、そのままだった。

 ちょっと、洋平!あわてて大きな声で叫ぶと。

「え? あ? ぼうっとしてた」と洋平は話した。

 晴陽奈は上げかけた腰を下ろした。目の前が…、見えてはいるが、真っ暗になった…。

 だめだ…。

 私は…、ショックなど受けていない! と晴陽奈は自分に言い聞かせた。この病のことは、すべてわかっている。ショックを受ける必要などないはずだ。これくらいでショックを受けてはいけないのだ。私の動揺を彼に悟られてはいけない。晴陽奈は崩れ落ちそうなめまいに似た感覚を覚えながら、踏ん張った…。


「ねえ、きょう、何日ですか」

 しばらく不自然な、まるでそこに一人しかいないような沈黙の後、ぼそりと洋平が言った。

「…だよ。」

 その次の反応は驚くべきものだった。ぱあっと顔に生気が戻ったのだ。

「あ! そう! やっぱり。今日、流星群の極大日です。はあ。しまったなあ。今日までに体を治して、観測しようと思っていたのに」

 晴陽奈はその生き生きとした口調を逃がしたくなかった。慌てて口を継いだ。

「星、見る?」

「いいんですか?」

 洋平はさらに続ける。まるで昔のようだ。

「いいよ。もちろん、夜中にこっそり、屋上からだけど、見に行こうか」

「ええ? 実験室から出て…。いいの?」

「いいわよ。まかせておいて」

「やった!久々のデートですね」

「そうね」

「あ、今の先生の、笑顔よかった。すごく、久々だ。そういう笑顔見たの」

 晴陽奈は笑ったつもりはなかった。目が見えていないなんてことはない、私が自然にほほ笑んだのだ。そうに違いない。でもこのままなら、何とか。まだ治る可能性はある。このまま元気な時期があれば、大丈夫…。

「じゃあ、夜明け前ですから、ちゃんと起こしてください、ね」

 洋平は嬉しそうにそうつづけた。晴陽奈も即答する。

「わかった」

 病室を出ながら晴陽奈は、ささやかな、洋平の願いを聞かせてやろうと思った。病室から被験者を出てはいけないのは当たり前だった。当然ながら重要な規則だが空気感染は、しないことはわかっている。私にできることは、やらなければならない。

 夜明け前、実験室をそっと覗くと、目を開けて横なっている洋平は異様だった。洋平はすっかり目覚めているようだったが、起きられないのだった。手を貸してあげると、震えながらも力を出しているようだった。それを悟られないようにだろうか、洋平は苦しそうにこういった。

「でも、屋上には、階段で上がらないとな。今日は歩けるかな」

 歩けるわけなかった。ごめん、心の中でそう謝る。そんなこと考えさせたくなかった。

「私が背負ってあげる」

「ええっ、僕が背負ってあげるならまだしも…」

「いいからいいから。恋人に背負わすなんて、めったにないんだから、感謝しなさい」

 そう言って、晴陽奈は、洋平を背負った。

 洋平は、嬉しそうに、背負われた。

「ああ、なんかいいな。先生のにおいがします。久々に人の匂いだ。いいな。うん。あれ、先生?」

「ん…、何? なんでも、ないよ。」

「せんせ、泣いてるの?…、あれ、なんで?」

「…。泣いてないってば」

 床には、涙の跡が廊下に点々とのこっていた。しかし、にじんだ晴陽奈の眼には、見えなかった。洋平の体は、あまりに軽すぎた。男子高校生があるべき体の重さではない。気が狂いそうだ。晴陽奈は、思考を何か別の世界に、暗黒の四次元にもっていかれそうだった。さっきは踏みとどまったが、もうだめだ、と思う。

 しかし、崩れられない。踏ん張らなければいけない。彼を背負って、私は生きなければならない。この軽すぎて、重すぎる十字架を…。


(5)


 晴陽菜は、とまらない涙を落としながら、洋平を背負って屋上へでた。晴陽菜はベンチに洋平を下ろすと、その隣に座った。洋平は大きく息を吸って、「よく晴れてます。月もなくてよかった」と言った。その声は、何時もより元気があった。晴陽菜は、泣いているのが知られないように、すべての涙を白衣の袖でぬぐって答えた。

「そうだね。よかった」

「先生、ありがとう。外に出るのは、しばらくなかったから、うれしい」

「そう。たまには、外の空気も吸わないと、実験室は気分がめいるでしょう。気分転換にもなるし」

「なんか、頭もすっきりしてきた。な、流れ星!」

「しまった。見損なったな」

「うんうん。よかった、先生のその顔」

「ちょっと、私の顔じゃなくて、流れ星を見に来たんでしょ!」

「はは。どっちも、です」

「もう、しょうがないわね」

「ねえ先生、会って2年だけど、楽しかった。最初にあったときは、やたら頭に来たんだ」

「ごめんね。私は、どう接すれば良いか良く分からなかったのよ。あんなことしか言えなかったよ。えらそうだった」

「はは、でも実はどんな先生が来ても、気持ちが入っていなかったら、たてついたと思う」

「みんなお坊ちゃん、お嬢ちゃんだと聞いていたからね。いるんだなあ、元気なのがって、びっくりしたり、うれしかったり」

「ひどいなあ。そう、なんであんなに先生にたてついてたのかな。よく覚えていない。ああ、また星が…えっと。あ、流れた。見えた。あれ?」

「洋平、大丈夫? もしかして、体勢が悪いんじゃないの? 横になっていたほうが…」


 晴陽菜は洋平の体を支えようとしたが、すでに洋平の体には力が入っていなかった。これは…、良くない兆候だ…。晴陽菜には悪い予想しか出来なかった。

「廊下で教育論とかで喧嘩した。先生とあんなに喧嘩するな、って智明に怒られた。あいつ、元気かな…。」

 晴陽奈は思う。でも、今夜の彼は饒舌だ、まるで病ではないようだ。

「確か…。何で手伝いをさせるんだって、喧嘩したよね」

「研究室で、…、姿勢…、気持ちがわかって、なんか、うれしかった」

 洋平は、屋上の一部を弱弱しく、でも強い意志で指差した。

「屋上で、ダンスを踊った。そう、あの、あたり」

「満天の夜空に、銀杏をみた。あの銀杏はきれいだった。銀杏の中に立っている先生、すごく、きら…、えっと、すごくきれいだった。絵のようだった」

「うん」


 晴陽奈は思う。初めて一緒に歩いたときだ。ところどころ記憶も混乱しているようだ。やはり、この饒舌は偶然なのか?

「あの黄色いじゅうたんがまだ目の前に広がる」

「今年の春はサクラ見に行きました。サクラと先生はよく似合ってた。僕は一人じゃないって思った」

「それから研究室に入った、いろいろ手伝った…」

「えと、手伝って。あ…。お酒も飲んだな」

 晴陽奈は思う。そんなこともあった、ついこの間のことだ。「そうだね。西山田先生の手作りだね」と相槌をうつ。

「それから、せんせと一緒になって…。温かくって」

「…、うん」


 洋平は、記憶を絞り出すように口に出していた。なにか相槌を打ってあげなければいけないのに、晴陽奈には、どうしてもできない。ただ、涙があふれ、嗚咽以外の何物をも出すことを許されないかのようだ。せめて、洋平に気づかれたくない。必死に白衣で拭う。

「進路でも言い合いした…、先生の大学に入りたかった」

「でも。信じてるから、いいんだ…」

「事故があって。先生が危なくて。…僕は晴陽奈先生を守れて、うれしかった」

 晴陽奈は声にならない叫びをあげながら、洋平を抱きしめた。こうしないと涙が止まらないのを隠せない。もう隠すことに意味なんかない、でも、でも。どうしてこんなことになってしまったの。私がこの学校に来たから?私が洋平を好きになったから?私が意地悪だから?私が、洋平と出会ってしまったから?こんな目に合うの?晴陽奈は、泣きじゃくりながら、ただ洋平を抱きしめた。

「病気が…でて、入院して…」

「でも、うれしい。こうやって好きを…」

「ちがう…」

「好きな、人といられる」

「だから、僕が、僕は…、わかってる」


 あ…。夜明け、だ

 もう僕の口は開かない

 でも、僕は理解している

 好きな人の、晴陽奈のそばにいられるから…なのだ。

 こうして好きな人のぬくもりの中にいられるなんて、夢のようだ。


 星が、消えて…、いくようだ

 いや、ちがう…。

 信じられないくらい、星がいっぱいだ…。

 僕は、なんて幸せ者だろう…。


「洋平、洋平、お願い。戻って。お願いだから………。お願い…。」

 晴陽奈は、洋平をかき抱いた。しかし、反応がなく、ただ穏やかな顔と力なく腕が揺れていた。

 かけがえのない、たった一つの、私の一部が、いま、去った。


(6)


 それからの私の人生は蛇足だった。

 洋平が逝った2年後、多くの医療機関に属して、そして死神と言われながら、たくさんの屍を踏んだ。そしてウィルスの遺伝子構造を解明することで対策方法を放射化学の見地から解明し、ワクチンに相当するDNA構造改変の提案を行った。これは感染直後であれば、一定の成果を出した。ウィルスが抹殺判定をする前に流動性を失わせて、排出経路に誘導させるものである。

 周りは称賛の声を浴びせてくれたが、満足感はこれっぽっちもなかった。ただ私は、もうすでに間に合わないが、やらねばならないことを、あまりにも遅れて成し遂げただけだ。私は、臨床実験で問題がないことを確認した後、当初の目的を果たした高校付属研究室の職を辞した。

 ノーベル生化学賞を受賞したのは、その数年後だったが、すでに私は放射化学の第一線を退いていた。何かから逃げながら、各地を放浪するような状態だった。私は無愛想で、人嫌いで、変人として、物珍しく見られた。でも、そんなことはどうでもよかった。もうあの時間、あの場所に関係する何もかもを忘れてしまいたかった。しかし、ノーベル賞受賞は、ハイエナのような人々を私の周りに群がらせようとする。

ある時私を見つけ出したハイエナに対して、私はこう答え、いっそう目立たないように姿を消した。

「受賞を、受けるつもりはありません。あれは、あの災厄で犠牲になった、すべての人々が受けるべきでしょう。私たちは浮かれている場合ではない。あの災厄に対して、私たちにとって何の意味があるのかを真摯に受け止めて考えるべきです」

 そして7年後、再び、人口は減り始めた。その減り方は以前よりも強力で、明らかに耐性を持った変異ウィルスのせいであった。前回感染しなかった人も、今回は容易に感染した。人類は、今度こそ慌てふためいた。

人類は、今度こそ審判を避けることはできなくなっていることを目の当たりにした。



エピローグ


 廃墟となった校舎の上には、満天の星がある。はるかかなたに、かつて首都と呼ばれた数千人が集まった光の塊があるが、空を照らすほどではない。私は、思い出にふける。観察会の時、最後の夜、この屋上から、こんなに星は見えなかった。人口が減ったせいで、見えなかったものが見えていた。皮肉なものだ。

私はぼんやりと、空を見上げた。あの時の流星群、洋平の涙、私の涙。ほかに、どれだけの悲しみの涙が、私たちを襲っただろうか。

 私は毎年、ふたご座流星群の時になると、空を見上げる。今年は、やっと勇気を奮ってこの校舎を訪れ、洋平と悠子の遺言である傘の下の私たちの名前を見た…。

 二人のことを想うと私の心は、とても温かくなる。これが私の生きているあかしだ。


 もう一度、空を見上げた。流星群は夜明けに極大を迎える。たくさんの涙が流された後、星々は、明るい夜空に迎えられ、一つずつ消えてゆく。彼らのように美しく、はかなく・・。

 そして私もまた、夜明けの星のひとつなのだ


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