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夜明けの星たち  作者: 羊野棲家
4/5

第4章

(1)


 3年生になると、希望者は正式に研究室への配属が行われるが、あくまでクラスと兼務であった。ただし通常の授業は数学、物理、化学を除いてかなり免除されており、研究室で過ごすことが多くなった。伊勢崎研究室は放射線を扱うことから、出入りは厳しく、関係者の無いものが訪れることは比較的少なかった。

 洋平は、他の3年生の内では、早くから研究室に入り浸っていたこともあり、中心的な存在であった。いろいろ手伝うことも込み入ってきたが、事情も概ね把握することができた。人が足らないことはすぐわかった。もう少し人数がいたほうが、研究も進むのではないか、と思うことが多かった。

 それを晴陽奈に言うと、

「それはそれでいいのよ。ゆっくりできるからね。西山田先生の研究室なんて保健室みたいに学生が入り浸ってるんだから」と、豆をひいたばかりのコーヒーを飲みながら言った。

「西山田先生は人気ありますよ、よく話は、聞いてくれるし、歯に衣着せないしね。あ、それだけは、人気ない某I先生も同じか…。」

「ちょっと、聞き捨てならないわね。折角いろいろ目をかけてあげてるのに。ふん、もう、来なくていいから」

「目をかけているんじゃなくて、目をつけられたんじゃないのか?」

「何か言った!?」

 そんな冗談の掛け合いは、すでに、研究室内では黙殺されていた。しかしこのときは、運悪く賀名生先生が聞きつけた。

「あれ、学校でそういう馴れ合いは、よくないですよ~。もっと、教師と生徒らしく、したらどうですか」

「そお?ちゃんと教師と生徒よ。ねえ、そんな禁断の一線を越えるとか超えないとか、そんな話、好きなの?悠子ぉ~」

「ええ? ええっ!? なんですか? 一線って。もう、そういう話はなしですよ~」


 この二人の会話はいつも面白いと洋平は思っていた。限られた人数が出入りしている中で、こういう人の存在は息抜きになると思った。そんな賀名生が去り、概ねその日の実験の成果が出たところで、通常ならば片付け終わればティータイムというところであるが、晴陽奈はこちらを向いて、今日は時間がまだあるか、といった。その顔つきはいつもと違っていた。洋平は、何のことかさっぱりわからなかったが、まじめなことに違いはないだろうと思い、少しばかり緊張した。

「今日は、もう少し見てもらいたいものがあるの」

 晴陽奈は、緊張した顔のまま続けた。ここの所、研究がうまくいっておらず、精神的に参っているような気配があった。そのせいなのか、それとも何か別なことなのか。


 晴陽奈は、立ち上がって、こっちに来てくれる? と言いながら、めったに近づくことのない、奥への部屋へのドアを開けた。内側には緑色のカーテンのかかっているのを開けると、結構大きな部屋であり、たくさんのモニター画面と、コンピュータが並んでいる。コンピュータの前には、いつもの主任研究員が座っていた。見回すと、仮眠のベッドや机が数個、冷蔵庫や洗濯機もある。ここで生活することもできそうだ。さらに奥には、いかにも厳重で重そうな扉があった。


「へえ、こんな部屋があったんですね。すごいな、24時間態勢か」

 洋平は、ついそう口走った。晴陽奈は、必要があれば必ず説明をしてくれると信じていたので、そういうことは少なかったが、この場ではその違和感に思わず、そんな聞き方をしてしまった。晴陽奈は、顔色を変えず、モニターの電源を入れると、中にはマウスや猿(洋平にはそう見えた)など動物の映像が見えた。

「この部屋は実験管理室と言っているの。この扉の奥に6部屋の実験室があるの」

「へえ、これが、ですか。初めて見ました、こんな部屋があったとはね」

 そして語られた内容は、洋平にとって驚くべき内容であった。

「ここは表向き基礎科学である放射化学講座なんだけど、一方で、遺伝子工学の国際研究機関にも属していて、国から援助も受けているの。まあ、研究の一部の、さらに末端なのだけどね」

「遺伝子工学ですか? こんな高校で?」

 そこまで言って、洋平は、はっと驚いた。真里が言っていたやつか。

「もしかして、突発的に集団で亡くなる人がいる集団かぜと関係があるとか?」


 晴陽奈はチラと洋平を厳しい目で見た。洋平が驚いたことに、主任研究員ももちらを見てすぐに向うを向いた。ほんとかよ。。。

「なんでそのことを?」

「いや、妹と最近その話をしたんですよ。まさか違いますよね」

「普通の人は遺伝子工学とその話を結びつけないけどな。感がいいね、君は。まあ当たらずとも遠からずというか」

 晴陽奈は、その後を話さなかった。かといって、立ち上がろうというわけではない。洋平もしばらく黙っていたが、助け舟を出した方がいいと思った。晴陽奈を困らせたいわけではない。

「立場的に言えないこともあるでしょう、別にいいですよ」

 晴陽奈は頭を振った。

「ごめん。でもそういうわけではないの。確かにこの研究室から発表こそしていないけど、隠されているわけでもないからね。まあ、おいおい研究成果を発表しようと思っているだけだからさ。とにかく、座んなさい。ここで話さないのであれば、今日ここに呼んだりしてないから」

 洋平は、黙って腰を下ろした。しかしだ、そうはいっても、洋平には晴陽奈が迷っているように見えた、それそうなのだろう。自分に立場なんぞはないが、晴陽奈にはあるだろう。しかし、晴陽奈は静かに語り始めた。


「さっき言っていた、ひっそりと流行っている、集団かぜの原因がまだわかっていないの。何らかのウィルスか何らかの遺伝子が原因になっているといわれているんだけど。はっきりしているのは空気感染ではないってことくらいかな。対処療法的な医学では限界があって、物理学・化学・生物学など基礎科学のいろいろな部門の研究者が、さまざまなアプローチから進めている国際プロジェクトがあるの。日本としては、人口減少はあくまで国の方針の達成成果になっているから、まさか正体不明なウィルスとは言いたくないみたいだけど。そんなこともあって、今の大学だけでは、十分に対応できないところがあってね。高校で、先端の科学教育をしながら手伝ってもらうことで、国際的な研究に協力しているというスタンスもほしいわけ。私も、一応その関係者なの。西山田先生も、計測の専門家という立場から協力してもらっているのよ」


「でも、すごいな。こんな高校で遺伝子工学で病気の解明を研究をしているなんて」

 洋平は素朴に感激した。しかし晴陽菜の口調は重かった。


「今のところ、大規模な疾病や疫病だという報告はされていないけれど、独自の研究をしている組織からは、広がっている原因不明のウィルスの拡大は、前代未聞の疾病になる可能性があるかもしれないといわれているの。今後どれくらい拡大するのか、よく解らないからなあ。まさかとは思うけど、最悪のシナリオを考えると、残されている時間は限られているかもしれない。」

「最悪ってなんです」

 洋平は真里の事をふと思い出した。

「いや、ごめんね。今のところ弱点が見つかってないからさ、無限に広がったらやだな~、とね」 晴陽奈は、明るい声で言った。洋平にもそれはわざとらしく思えた。しかし話の内容だけに、それが重大事項とは考えたくなかった。

「それ、本気じゃないですよね」

「そう思う?でもさ、20世紀になってから科学が発達してそれこそ何万種類の菌類やウィルスが見つかっているけど、宇宙空間でも生きられるものとか、ほら、最近見つかった木星大気の探査で見つかった菌類とか、いるでしょ。そんなものをやっつける方法は簡単にはないんだよ」

「それに」

 晴陽奈は声の質を変えて言った。

「彼らは、微量だけど確実に広がっている」


「ま、そういうわけで猫の手でも借りながら、さまざまな研究施設が総力をあげないと、壊滅的打撃を受けてしまうかもしれない。それほど、大変な状態なの」

 洋平には、とてもそんな大事が世界で発生しているとは思えなかった。このどんな情報でも洩れてしまう世の中なのに。

「しかし…、そんなこと、報道されていませんよ、ネットや噂で聞いたこともない」

「いや、そんなことないよ。ただし、国連の専門部会の常設委員会の発信程度だからね。進行している何かがあるってことと、解決できないウィルス性の病があるってことも。つながりは明確ではないから、まだまだこれからね。これから徐々にその全貌がつかめて来れば、わかってくるし、より上位の部会から発信されるでしょう。ただ、報道するにしても、何らかの道筋がないと、下手するとパニックになってしまう」


 そうかもしれないな、と洋平は思った。今は隠し事ができない時代だ。どんな些細なことでも公開されている。情報がちゃんと公開されるようになったことで、逆に膨大な情報が発信されることになり、少なくなった民衆がそれをすべて受け入れられなくなっているのだ。まあ、本当にそれほど深刻ではないのかもしれない。あるいは人類が手に負えず、理解できていないとか。いやそんなことがあるわけない。これだけ科学技術が発達しているんだ。時間はかかるかもしれないが、よってたかって、何とかしてしまうだろう。洋平はそう思い直した。


 晴陽奈は、洋平が考えている間も話し続けていた。

「まあ、そういう背景は、知っておいてもらわないとね。オープンになっている文献もあるしね。少し自分で情報収集してごらんなさい。ほら、教師の言うことは、信用できないのが、高久洋平の信条でしょ」

洋平は、晴陽奈の硬さが少しとれている気がして、安心した。そうだ、滅多なことはないんだ。深く考えるのはやめよう。

「もう、いいじゃないですか。信用できる人は自分で選ぶってだけですよ。」


 それを聞いて、晴陽奈はずかずかと近寄ってきた。

「じゃあ、私は信用されてるのかな」

「いや、まあ、どうですかね」

 急な声色の変化もあり、洋平は晴陽奈が近づくと、妙に緊張した。

「まあ、いいじゃないですか。プライバシーの侵害です」

「あれ、やっぱり照れてる?」

「怒りますよ。話はそれだけですか。深刻な話だと思ったのに。」

「ごめんごめん。それでね。実験室については、いくつか約束があるのだけれど、この扉はこちら側からは解除キーさえあれば、中に入ったら、決まりがあるの…。すぐには出られない。こちらに来てくれる。それに、何より手が足りてないのよ。これが正直なところ。」


 晴陽奈は、そう言って、実験室の解除キーを操作した。しかし頭の片隅には警鐘がなっていた。いいのかこれで。本当に将来のある青年を巻き込んでいいのだろうか。そう実際に手が足りていなかった。大学から高校へ来たのは、単に大学では手が足りないからだ。高校生が成長するのを待っていられない。飛び級させるよりも、理科教育を実践しながら少しでも研究を進める必要があるからだ。もう何十年も前に、インターネットを使って個人のパソコンに解析を負担してもらうプロジェクトがあったようだが、これの人間版だ。しかし、しかしだ。この実験はリスクがないわけではない。正体不明の遺伝子を持つウィルスは蔓延するほどではないし、大規模な疫病をもたらしているわけではないのだ。しかし、このウィルスには何か隠されているようなのだ。各国の研究機関も手に焼いている。私に手におえるかどうかはわからないが。


 晴陽奈は、気を取り直して実験室の中に洋平を入れた。

「へえ、ここが遺伝子実験室か」

 洋平は研究機関に入るという気持ちの高揚感を抑えきれずにいた。実験室にはお互いに2部屋づつ向き合った4部屋に分かれていた。奥にも一部屋あるようだがここは使われていないとのことだった。それぞれの実験室へは、中間的な部屋があり、その部屋内で、完全洗浄されているらしい。中から外へ出るには、その洗浄後、安全性がチェックされないとロックが外れないことになっているとのことだった。洋平はその意外な、いや当たり前な厳重さに少し不安を感じた、しかしそれは当然だと思いなおした。それにしても、晴陽奈から、信頼を得ているという点については、悪くなかった。一通り、説明を受けると二人は元の部屋に戻った。


「あなたは3年になってこの講座を選んだのだから、この部屋に入ることもはできる。あとは。RI分析室にも入る手続きはしてる。でも原則、この実験室の中には入らないでね。もちろん正式にこの研究講座の人間だけれど、医学的・生物学的な専門家知識を有しているわけでもないから、この中には入ってはいけない、ということ。もちろん、ウィルスが、あなたに感染するのが心配だというのもあるけど、実験中のウィルスを外に出すわけにはいかないから、単純に管理上の問題。わかるよね」

「はい」

「割と人不足だから、洋平しかいないときにトラブルがあっても、周りの人を呼ぶこと。それから、中の様子はこのモニターでわかるから」

 そして、晴陽奈は洋平を振り返って少しあおるように言った。

「中でマウスが牙がぐーんと伸びて、血みどろになって戦い始めても何もしないこと。ゾンビゲームじゃないから、そんな事には期待しないこと」

「う~ん。そういう興味深い状態は、難しいですね。無敵のマシンガンはどこにあるのかな?まあ、現状ではわかりました」

 晴陽奈はそれに満足して、管理実験室内のモニターを付け、まじめな顔でこう言った。


「ここは疫病センターじゃないから、そういうことはないよ。さてもう少し、深いところまで聞きたかったら、このまま教えるけど?」

洋平は、正直もういいと思っていた。

「…いや、今はいいです。今日はなかなか重い話でしたし。現実を考えると、少し怖いです。これを見るだけでも、ショックはあります」

 晴陽奈は、うかがう顔で、洋平を見ていた。

「うん、そうだよね。研究とか、実験って特に生物関係は残酷なことがあるからね。いつのまにかネズミさんやウサギさん、おサルさんを平気で切り刻むようになっちゃうからね。怖いよ」


 そこまで言うと晴陽奈は、よしっ、と声をかけて両手を腰に当てていった。

「いい時間だから先に帰ってていいよ。私はもう少しやることがあるから」

「大丈夫ですか?」

「なにがよ」

 晴陽奈は、両手を腰にあてたまま、きょとんとしていった。

「いや、最近忙しいでしょう。疲れているんじゃないかと」

「あらら、心配してくれているの?うれしいなあ。でも大丈夫。大人だし、義務もたくさんあるんだ。でも嬉しいよ。ありがと」

「いえ、研究が滞ると、集団かぜの解明に遅れが出るかと…」

「なに~、んもう素直じゃないなあ。ま、わかってるわよ。今日は見たことをゆっくり考えてみて。私のことを考えて変なことしちゃダメだからね」

「はあ…。わかりました、まあ今日は、帰ります」

「うん。気を付けてね」

「じゃあ」


 洋平は、自らを落ち着かせるようにしながら扉を閉めた。落ち着いてしっかり考えなくてはならない。ここはただの研究室ではないのだ。見かけ上、高校所属の新設の研究室なのだが、重大な義務を担っている。これ以上、足を踏み入れざるを得なくなっていることに不安を感じた。自分のようなものが関わっていいのだろうか? 洋平は自問自答した。もちろん、いまさら晴陽奈を裏切るつもりも、離れるつもりもない。結論は決まっていたが、晴陽奈に対して、研究室に対して、真剣に考える必要があると思った。


(2)

 3年生になって2学期が始まると、研究講座に関する授業・実験が多くなった、また課外クラブを免除される代わりに、放課後は、ほとんど研究室で手伝いをしなくてはならない。しかし、この作業で認められれば、大学への進学はかなり有利になるという話だった。人口が少なくなったとはいえ、名門大学への関門は狭い。洋平はすでに晴陽奈の研究室の大学を志望していた。


 晴陽奈は「このまま、卒業まで残り修行すれば、推薦は問題ないでしょう。試験はちゃんとあるけどね。でも、ほんとにこの専門でいいの? 自分で昔から考えていた夢もあるでしょう?」といった。洋平は、研究室に誘っておいてそれはないだろう、と思ったが、お願いしますと頭を下げた。晴陽奈と一緒の大学で何の問題があるだろう。すべてがうまく行きそうな気がした。


 2学期は、上位機関への研究報告に備えて、ただでさえ少ない正規の研究員の人が不在なことが多くなっていた。講座の設置からまだ日が浅いので、このあたりの時期はどうしても人手不足であった。とはいえ生物を扱う研究機関であれば対応は継続しなければならないこと。晴陽奈だけでなく他の研究員もオーバーワーク気味だったので、洋平が手伝う場面は徐々に多くなっていった。


 洋平はその日、朝から通常の授業ではなく、研究室の担当だったが、夕方は研究員の人たちが不在のために、晴陽奈と二人で、ここ数日手入れがされていなかった実験管理室周辺の、放射性同位体分析用の試料などの整理を行っていた。これは単純な作業だが、非常に重要だ。化合させる液体の組成バランスが崩れていては、その後の実験が無意味なものになる。そんなとき奥の実験室で、事件が起きた。晴陽奈は実験室の中でマウスの様子を確認に入っていた。


 ドン!その声を聴いて単調な作業に飽きて、うとうとしかけていた洋平は飛び上がった。インターホン越しの声でも、それは異常だった。

 何か起きたらしい。周りには研究員が誰もいない。晴陽奈は、実験室に入っている。そもそもどこでその音がしたのか、よく解らない。端末を見ても今のところ異常を示すランプはついていない。洋平は、研究員がいないのでOFFにしてあった監視モニター起動のボタンを4つとも、焦りながら入れた。マウスがいるだけで何もない。特に異常はなさそうだ。ふうっと息を吐いた。

「何もないじゃないか」

 洋平はそう思って離れようとしたが、はたと手を止めた。先生はどこにいるんだ?

 嫌な予感がした。まさか、ね。

 その時、またドン、ズシンと響く振動が聞こえた。前ほど大きくないが、何かがぶつかっている。なんだ?

 4つのモニターにはには異常がない。何故だ。マイクをオンにしてみる。

「先生!どうしたんですか、先生」


 こちらからの声は聞こえない。しかし何かスピーカーからは、ドタバタと音が聞こえる。

 待てよ、そういえば、4部屋の向こう側にも部屋があったな。物置だと言っていた。そので何かあったのではないのか、これはまずいんじゃないのか。

 個人の判断で中に入ってはいけない、そうきつく言われているが、ほおっておけない。とりあえず落ち着いて中を確認するだけだ。そのあと人を呼び行くなど考えればいいのだ。ほかに方法はない。周りには研究員の人もいない。自分がやるしかない。どうする?


 洋平は、考えるのをやめた。とりあえず、行動した。

 まず、緊急ボタンを押しておく。これで、他の人が来るだろう。そして洋平は実験室への扉の解除ボタンを押す。すぐに扉が開き中に入る。ここまでは、これまでも入ったことがある。10m位の扉の並ぶ廊下には、左右2部屋ごとの実験室の扉がある。ドタバタ聞こえる。両側は窓があり、おかしなところはない。間違いない。一番奥の部屋に向かう。そして実験の扉を開ける。鍵がかかっていると思ったが、あっさり空いた。そして驚くべき光景があった。


 血を流した動物らしきもの、うろうろしている。どうやら目が見えていないらしい。晴陽奈は、何かの機材が当たったらしく、入り口のそばに倒れているようだ。あ、まずい。血みどろの動物は混乱しているようだが、ドアが開いたのに気が付いたようで、こちらのほうに向かっている。手でを目を拭っている、そこらから血が出ている。これは、まずい。ゾンビ映画と何も変わらないじゃあないか。洋平の知識では、空気感染は良いと言っていた、ということは、体液や血はまずいのだろう。幸い晴陽奈の白衣に血はついているが、顔は大丈夫なようだ。その生き物は晴陽奈の方へ向かうように見えた。自分の血の匂いなのだろうか。


 洋平は、今度は考えなかった。急いで先生を連れださなければ。わあっ!と飛び込んだ。その音で生き物がびくりと動いてこちらを見た。濁った眼を確かに見た。これはでかい。猿じゃあない。すぐにぶつかる。目の前には、恐怖に慄く血まみれの顔があった。よくわからないまま、もみ合った。これは、ゾンビ映画だ!と思った瞬間殴られたらしく、こっちの目の前も真っ赤になって、頭を強く打って記憶を失った…。


(3)

 目を覚ますと、洋平はベッドに横になっていた。周りには、心配そうな顔をしたなじみのメンバーが顔をそろえていた。

「あ、目を覚ました」

「よかった」

 洋平は何が起こったのか、記憶があやふやだった。だが、すぐに、衝撃的な出来事ほとんどすべて思い出した。あれ、先生は?

「私はここにいるよ」

「あ、大丈夫でしたか、先生」

「うん。大丈夫」


 血まみれの被験者に襲われた気がしたが、大丈夫だったのか? こうやって隔離されるわけでなく、みなと一緒にいられるってことは、ウィルスは感染していなかったのだろう。よかった…。

「先生、大丈夫でしたか?」

「うん。」

 周りが顔を見回す。そして、晴陽奈に、おぼつかない伏し目がちな視線が集まる・

「先生…、もしかして感染したの?」

 洋平は恐る恐るそう聞いた。

「ううん、大丈夫。ありがとう。感染していないよ…。」

 洋平は晴陽奈らしくない、その口ごもった話し方に無性に焦りを感じざるを得ないが、一番大事な用件は達成できたのだ。

「なんだ…、よかった」

 洋平は心からほっとした。そして周りを見渡す。

「どうしたんです。なんか変な雰囲気でだけど…」

 晴陽奈が、思い切ったように言った。

「ごめん、あなたが、感染した!私のせいなの。本当に、ごめん。ごめんなさい」

 オレが、感染? 洋平は、一瞬その言葉が信じられなかった。だって、ここは普通の研究室だ。感染しているなら、実験室か、まあ病院行きだろう。に入れられるはずだ。冗談じゃないか。

「え? だって、ここは研究室でしょ。感染したら、実験室に入るんじゃ…」


 そういいながら、皆の顔をのぞいたが、それはどれも沈痛な顔をしていた。事実なんだ…、洋平は信頼できる友人であり、仲間である彼らの顔を見てすぐに真実を悟った。洋平は一瞬、目の前が真っ暗になりそうな気がした。しかし洋平は、わざとらしくてもいいから、と思い、明るい声でこういった。

「ふうん、なんだ。意外に感染しても大したことはないんだな。ちょっと起きてみるか」

 洋平は、そういって上半身を起そうとした。

「あ、駄目だよ!」

 悠子が、そういって洋平を止めようとした。

「大丈夫ですよ、賀名生先生」

 そういって、洋平は体を起こした。実際体を起こしても、どこかに痛みが走ったわけではない。

「ほんとに感染してるのかな。悪い冗談じゃないの?やめてくださいよ。外の空気を吸ってもいいですかね。」

 そうやって今度はベッドから降りようとすると、目の前に晴陽奈が立った。

「だめ。あなたは、ここから出てはいけない」

「本気ですか?」

「そう。本気よ。私がきっちり治してあげるから、それまで、我慢して。お願い」

「…、まあ、わかりました」

「ありがとう…」


 事故の始まりは、動物が唐突に錯乱状態になったことが原因だった。検査中に恐怖に襲われたのか、器具をかきむしり出血し、さらに出欠に驚いて振り回した器具類が晴陽奈にあたったのだった。突然洋平が飛び込んだことで被験者の興奮は頂点に達し、襲ってくるような洋平に必死で抵抗した。二人はお互い意味を考えることなく、取っ組み合った。そして洋平のわずかなかすり傷からウィルスが体に入り込んだのだった。

 高校内に設置された国と共同の事故評価委員会での裁定は、新設したばかりの研究室に対して情状酌量されたもので、今後の安全管理を見直すことを主体とした厳重注意であった。委員の中には、高校所属の研究室について安全管理の面で体制の危うさを指摘する強い声があり、廃止すべきとの声も上がったが、あくまで想定できない状況であったとされた。数週間後には研究再開が決定した。最終的な改善命令が出されたのちも公になることもなかった。


 事故直後、洋平の両親が面会に来た。両親は、多忙であり二人そろって出張中であったが、当然ながらも万難を排して訪れた。洋平は、両親が涙ぐんで心配して見ているのを見ると、自分の行動が軽率過ぎたかと思えて胸が熱くなるのを止められなかった。しかしながら…、自分の行動が無謀だったとはいえ、あの時は、ほっておくことができなかった。もう一回同じことがあっても、やはり突入したと思う。あとで晴陽奈が両親の前で号泣して謝罪したことを知った。どうすればいいのか、洋平にはわからなかった。混乱が自分から遠いところにある気がして、実感がわかなかった。


 その後、洋平の入院生活は数日で飽きそうだった。まさか自分がこの実験室に入るとは思わなかった。起きて体を動かすことは許されたが、特別な場合を除いては、実験室から出ることは禁止された。

 しかし食事や面談については、まったく制限なく、入れ代わり立ち代わり知った人が顔を出してくれた。ただし分泌物やくしゃみなど、感染の恐れがあるため、握手や同じ物品を使うなど触れ合うことは禁止された。晴陽奈が、研究の合間にたびたび来てくれ、以前よりも二人でいる時間が増えたことだけは、いいことだ、と洋平は思った。

「しかし、これでは勉強が進まないな。進路、これしか考えてなかったのに、どうしようかな」

 少しの沈黙があり、晴陽奈は答えた。

「うん、そうだね。それは賀名生先生に相談してみよう。私も副担任らしいことをしないと」

 しばらくすると、すぐにその話を聞きつけた悠子が現れた。

「えらいですね。病床でもちゃんと勉強しようなんて。私ができるだけ、授業の内容を伝えに来ますから、大丈夫ですよ。なんなら、宿題も出してもいいですからね」

「それはありがたいな。あまりすることもないし」

「はいはい。わかりましたよ」

「でもその前に、漫画を死ぬほど読みたいな」

「ええっ!勉強するんじゃないんですか!?」

「…いや、まあ、漫画に飽きたら」

「はあ…。晴陽奈に言いつけましょうかね」

「わかりました。進路について心配はしているのはほんとうですから。授業の進行を教えてください。お願いします、賀名生先生」

「はい。ちゃんとやってくださいね。治ったら、すぐ追いつけるようにしておきましょう」


 洋平は、そんな楽しい会話をつづけながら、なんとなく、体がだるいと思った。そしてすぐ気のせいだ、と思い直すことにした。病は気から、というじゃないか。晴陽奈のために、自分の完治のために、そんなことではいけない。せっかく晴陽奈を救えたのに、自分がこれでは、楽しみ半減じゃあないか。頑張ろう。たとえ将来どうなるかわからなくても、今、できることをがんばって、後悔しないようにするんだ。そう、洋平は、固く心に誓った…。


 夜、最後の訪問者が帰り、実験室に一人きりになると、やはり体がだるかった。自分の体が、自分のものでなくなりつつあるような漠然とした恐れを感じた。 ―ふん、こんなのただの風邪と同じ症状じゃあないか― この考えが、このウィルスに侵された人間が最初に感じたことであることと同じだということに気が付いてぞっとした。

 洋平は頭からすっぽり布団をかぶって、その怖れから逃げようとした。

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