第3章 桜ふる春、木の下で
(1)
日曜の朝、高久家の自宅のリビングでは、洋平と妹の真里が、テレビを前にしていた。洋平はテレビを注視しておらず、考え事にふけったように、雑誌をぱらぱらとめくっている。
「…、人口減少の不安は人類を恐怖に陥れつつあります。人口はこの1年で8千万人がなくなり、かつ昨年度の出生率は、今年も0.05%下がって0.35%となりました。国連とWHO,各国機関は、さまざまな対策を取り合っていますが、いまだ、画期的な方策を望むことはできていません。日本国全体の…」
真里は、チャンネルを代えた。
「厚生労働省の猪俣大臣のコメントです。…、もちろん昨年のブラジル風邪の影響はあるけれどね、それは疾病であり、人口減少とはかかわりはないと言い切れます。統計処理はそのような死を除いたもので、きわめて適正なものですよ。国策である小さな社会は確実に浸透しており…」
また、真里はチャンネルを代える。
「世界の人口は1300万人の減少で、17億6千万人となりました。これは1850年代の人口に相当し…」
これも似たようなニュース解説番組をやっていた。真里は軽くため息をついて、テレビの電源を切った。
「いったいどうしちゃったんだろう」
真里はそう、つぶやいた。
「…」
「ねえ、お兄ちゃん。」
ぼうっとしている、洋平に真里が呼びかけてやっと気づいた。
「…、何だよ?」
「これからどんどん人口が減ってしまったら、どうなるの?」
「…、役人さん大学の先生おすすめの、小さな社会ってやつで、細々とやっていくだろう」
「でも、みんな噂しているよ。どんどん人口減少して、最後には人がいなくなってしまうって。お兄ちゃん、どう思う」
洋平は声をあげて笑った。
「ははは。流石にそんなこと、ありえないだろ。人が減っている原因は様々らしいから。世界全体が豊かになったせいで、貧困の土地であまり爆発的な出生がなくなったとか。原因はきっとたくさんあるんだよ。とりあえず、国のお役人さんがその賢い頭を使って、何かやっているとアピールしているんだ。その場しのぎだよ。それを世間のためだと思い込むんだ。それで他は、一切信じないのがお役人なのさ」
「そうなの?難しいことはわからないけど、お兄ちゃんはひねくれてるからね。でも怖いな。科学や医療が発達しすぎて、人間の免疫自体が弱くなったのじゃないか?って言う人もいるよ。あとは、知らない病が流行っていて、人類は絶滅してしまうとか?」
洋平は苦笑した。ありがちな、大衆をあおる話題だ。
「お前なあ…、それは、デマだと思うよ。もしそうだとしても…」
「そう?だって、テレビでもえらい大学の先生がそう言っていたよ?」
真里は珍しく食いついてきた。その顔は、不安な色が出ていた。ちゃんと話しておいた方がいいかもしれない。
「彼らは、自分の観点でしか話ができない連中だから、鵜呑みにしない方がいいぞ。お前はすぐ人の話を信じるからな」
「そうかもしれないけど、はあ、何を信じればいいのか、わからないよぅ」
「まあ、その大学の先生の話は、ある一面からは事実なんだろうけど、現実に起こっていることのごくごく一部だとか、イレギュラーな一例かもしれないからなあ…。視聴者のことを慮って発言しているわけではないよ」
洋平は、中学生の妹を慰めながら、思う。実際に人口減少は世界的方針以外にも何かあるらしい。貧困地域での出生率抑制政策が成功したとか、大量の感染症での大量死が報告されたという話も、確かに報道されている。でも集団感染の病など、これまで何度も経験している。小規模社会への転換をうたった国連・WHOは、大量死をただの流行病で、人口減少とは切り離して考えたがっているようだった…。大人ってやつは、いったい何を考えているんだ…。
(2)
いろいろ考えている時、晴陽奈から連絡が入った。洋平はどきどきしながら応答ボタンを押す。
「はい?」
「あ、洋平君? 今日、急な実験が入ったんだけど、手伝ってくれないかな。ね、お願い」
「しょうがないですね。休みの日まで駆り出されるとは、聞いてなかったな」
といいながらも、洋平の胸は高鳴った。流星群の観察の日以来、二人は人の眼を忍んで身を寄せ合うことが多くなっていた。昨日帰宅前に、そのような暖かな時間を過ごしたばかりであった。洋平は、その余韻が思い出されて、我ながら、恥ずかしい気分になる。とはいえ、あれから晴陽奈に悲しみの渦は来ていないようだった。それは喜ばしいことなのだが、むしろ何か一つ、彼女の中に入りこめていない気持ちもあった。お互いの体の温かさ、柔らかい唇の感触から暖かさを感じ取ることはできるようになっても、まだ何か、洋平にはしっくりこない何かがあった。それは気のせいではないと、洋平は思う。洋平は、うれしい気持ちだけを抱えることにして、学校に向かった。学校は春休みに入っただけに閑散としていたが、校舎に入ったところで、同じ高校内研究室の西山田に出会った。
「よお、休みなのに出勤なんか。研究室に所属したの、後悔しとるんやないの」
西山田は、有名な国立大学の准教授であったが、不祥事で辞職したとのうわさが流れていた。生粋の京都っ子らしいが、堪忍袋は小さいという話だった。
「はい。伊勢崎先生から連絡がありまして」
洋平がそう言うと、「そうか。期待しとるよ。実は計測工学のテストは厳しい結果だったんや。でも伊勢崎さんに頼まれてな、なんとか赤点を免れたんや。感謝せんといかん」
それを聞いて洋平は青ざめた。確かに2年の期末テストでは、計測工学基礎論のテストはからっきしダメだったのである。ここで赤点を取ってしまえば、春休みにはびっしり補修があるはずだった。
「やはり、そうでしたか。駄目だとは思っていました。まあ、勉強しなおしても悪くないか、と思ってましたから。奇跡じゃなかったか」
「ほう、補講受けるつもりやったんか」
「はあ。さすがに…」
そういうと西山田はうんうんとうなづいて、「そやな。そうでないといかん。自分には正直でないとな。自分をだましてしまうやつは、いつか人もだますんや」と感心しているようだった。
「まあ、もし解らんところがあれば、遠慮なく聞きに来てええからな。研究者は、計測しなければ何も述べられんくせに、その方法を知らなさすぎる。基礎をびっしり学んで、専門技術でそれを生かせばいいんや。つまらん授業だが、こんな重要な技術はあらへんで」
洋平はそうだ、と思った。理系に進めば無駄な科学はないのだ。すべてがいろんなところで、無数のネットワークに結ばれている。人間が一人では生きていけないように、すべての科学技術もまた、お互いにつながっているのだ。
「そうですね。無駄な技術はない。科学のネットワークですね。」
「そうや。ええこと言うね。さすがは伊勢崎さんが見込んだことはあるな。まあ、計測工学は新学期も頑張って取ってくれや。もう甘くはせえへんけどな」
「はい。よろしくお願いします」
洋平は、西山田を見送った。まだまだやることは多い。誰もいない廊下に一人残された寂しさはなく、ただ未知のものにあこがれる高校生に戻っていた。
(3)
洋平は、閑散とした校舎から、研究室に入ったが無人であった。人がいないことはめったになく、いつも騒がしいため、不思議な感覚だった。洋平はそのあたりをぶらぶらしてみた。研究室は校舎から新たに増設された独立した棟にあるのだが、その全体を把握しているわけではなく、奥はもっと部屋があるはずだった。
今まで、ただ慌ただしく目の前の課題を追うのに精いっぱいであり、研究室にそのような大きな設備があることは感じられなかったのだが、こうして静まり返った研究室を見ていると、洋平は、取り残されたような不安な気持ちが沸々と湧いてくる。晴陽奈とは親密な関係に慣れてすごく心の安定があるが、まだ何か大事なことをまだ知らないような気がした。オレなんて高校生なんだ。精神的に不安定なんだからいいんだ、と洋平は思った。気持ちを切り替えて、研究室を見渡した。通常であれば晴陽奈を含めて、2人の主任研究員の人が常駐している。化学実験室ではあるが、おそらく何か実験に関する生き物、例えば細菌とか動物などがいるのだろう。洋平はそれを知りたいとは思ったが、教えられないのは、まだ自分が未熟だからなのだろう。確かに、教育機関としては、高校生が主役なのであるが、国立の研究室なのだ。それを考えれば、所詮基礎知識の少ない高校2年生なのである。いずれ、認められればその区画にも入ることができるかもしれない。頑張らなければ。晴陽奈や研究員たちの真剣なまなざしは、洋平をその気にさせるだけの熱意を持っていたのだ。
そんなことを考えているうちに、晴陽奈が現れた。
「ごめんごめん」
「いえ、こちらも遅かったんです。そこで西山田先生につかまりまして、成績問題ありと、喝入れられました」
「そう。西山田先生の授業は無駄にはならないわよ。まあその有難さを何人の生徒がわかっているかは、嘆かわしいけどね…」
晴陽奈は、本当に嘆かわしいといった顔で、コーヒーの濾紙をセットした。
「あれ、サイホンはやめたんですか?」洋平はその様子を見ていった。
「まったく、気が利かないわね。そう言う事は言わないのよ。ちょっとあわただしいからこっちでいいと思ったわけよ。めんどくさいんじゃないからね。」
「そりゃ、そうでしょう。あのサイホンの掃除は2年生の仕事ですからね。晴陽奈先生がめんどくさいってことはあり得ない」
「くっ。久々に洋平節がさく裂しつつあるじゃないの」
晴陽奈は悔しそうに言った。
「いや、飲むならセットしましょうか。僕が片付けますよ」
「あ、そう?じゃあ、お願いしようかな」
晴陽奈、まあ当たり前ね、と言わんばかりの顔でそういう。相変わらずだな、と洋平は思って苦笑したのだが、気づくと晴陽奈がすいっと近くに寄ってきた。「え? なんです」と言ったときに、洋平の頬に晴陽奈が唇を寄せた。「お礼だよ。やさしいね、ありがと」晴陽奈はそういうと、向こうの部屋へそそくさと去って行った。洋平は、晴陽奈に触れられた頬から発熱しそうなほど、体の血液が熱くなった。そして晴陽奈の残り香が漂う間、微動もしたくない自分を見つめていた。
ようやく洋平は頭を切り替えて、サイホンをセットする。前に、晴陽奈が言ったように、確かにサイホンは化学実験のような楽しさがある。コポコポと音がし、コーヒーの粉が湿度を含んで香りを出す。洋平には、晴陽奈が残した香りが立ち去るのは惜しいと思ったが、このコーヒーの香りと交わるならそれもいいと思う。そんな時間を忘れたような空間にいるのが楽しかった。
「あら、やはりいい匂いだね」
晴陽奈もそういいながら向こうの部屋から出てきた。
「ねえ、ところで、今日私のうちに遊びに来ない?」
晴陽奈はそういって、洋平の度肝を抜いた。
その夕方、桜が散る中をお互いの心を交わらせながら歩いた。晴陽奈の家は、桜並木がよく見える、高台に建っていた。その日、二人はお互いをよりやさしく感じられるようになった。