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夜明けの星たち  作者: 羊野棲家
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第2章

(1)

 洋平が校舎内の廊下を歩いているとき、余り歓迎しない、聞き覚えのある声が背中に突き刺さった。“ちょっと、手伝ってくれないかな”。当然だが聞こえないふりをするしかない。

 晴陽奈が洋平に話しかけて来たのは、夏が近づいて、今年一番元気なセミが鳴き始めた時期だった。洋平は暑い廊下から、早く教室に入りたいところだったので、聞かないふりをしたまでだ。そもそもなんで、俺が伊勢崎研究室の手伝いをしなければならないのか。

「…」

 洋平は返事をせずに、立ち去ろうとした。上手く聞こえなかったと思ったらしく、晴陽菜は、繰り返した。

「ねえ。研究室の仕事を手伝ってもらえない?大きい荷物が来てるんだけど、今誰も手伝ってもらえる人がいないんだな~。二つあるから一つ持ってくれるとうれしいんだけど、だめ?」

 仕方なく、洋平は立ち止まった。気に入らないとはいえ、クラスの副担任でもある。無駄に印象を悪くしても仕方が無いか。余り話さないようにすればいいだろう。


「…、駄目ってことはないですが」

「あら~普通、女の先生にニコリ笑って言われたら、喜んで手伝ってくれるのにねえ」

 晴陽奈は、そんな風に軽くながそうとしている。洋平にとっては、そのこちらの気持ちをまるっきり無視して、自分の流れにしようとする、そんな態度が癪に障るのだ。ウケようと思っているのだろう。嫌な奴だ。洋平は思い切り不機嫌な口調で言う。

「なんでです」

「あら、先生を手伝うのに、理由がいるのかしらね。それとも、何か急ぎの用事でもあるの?それならいいわよ」

「いや、別に…」

 洋平は、腹が立つ分、嘘をつくことができなかった。

「じゃあ、手伝ってよ。これ、重いのよ。ね、お願い。私の後についてきて」

 そういって晴陽奈はさっさと歩きだそうとする。これでは、思うつぼではないか。洋平は慌てた。

「ちょ、ちょっと待ってください。おれ、手伝うとは言ってませんよ」

 晴陽奈は、洋平からすればわざとらしく振り返って言った。

「ええ? いまさら? もう遅いよ、急な用事がないなら、手伝ってよ。お願い、おねがい、おねが~い」

 後ろを向きながら、晴陽奈はお願いの言葉を繰り返した。いったい、なんて押しつけがましいヤツなんだ。これだから、臨時雇いは嫌なんだよな。

「しょうがないな、ったく」


 洋平は、ほっておこうかとも思ったが、ここで捨て置くのも人間としてどうかと思われるかもしれないと思い、仕方なく、荷物を持った。それは、相当重い荷物で、一気についていくには厳しそうだった。なんだこれ、いったい何が入っているんだ?怪訝に思った、洋平だったが、研究室につくと晴陽奈はその中身のことを教えてくれた。箱の中身は、主に研究の資料の手書きの取りまとめ資料だった。重いのはすべて紙の資料だからであった。この数十年間で、文書についてはすっかり様変わりした。電子媒体の質もよく、無料となった無線ネットワークを用いた電子保存が主流であったため、洋平にはこまごまと取りまとめられたメモは、なかなか気持ちいの良いものに思えた。


「そういう、貴重な資料なわけよ。紙って束になると、相当重かったでしょう?」

 そういいながら、晴陽奈は、洋平に片手間で入れていたらしいコーヒーを渡した。洋平はあまり晴陽奈に近づかないようにしながら(丸め込まれるものか!)、段ボールの中をのぞいた。

「まあ、古臭い資料ではありますね。電子化すればいいでしょう。透過型スキャナーにセットすれば、重ねたまま、すぐにスキャンしてくれますよ」

「そうじゃあ、ないのよ。古び、ってのも大事なのよ。電子化されたものより意外にこういう資料を見返したりすると、アイデアがわくのよ。それに、電子化されたアイデアは下手したらすぐに広まっちゃうでしょ。隠し事のない世界もいいけど、質の悪いものを載せるのは、プライドが許さないわ」

 そうかもしれないな、と洋平は一瞬思ったが、どうも素直に聞く気にはなれなかった。

「そんなもんですかね」とりあえず、そう言っておいて、洋平は表情を隠すようにコーヒーに口を付けた。

 む…、と今度こそは不意打ちが、顔に出てしまうほど驚いた。このコーヒー、旨いな…。

 晴陽奈を見ると、こちらを見ておらずに、何かの雑誌に目を通していた。洋平はよかった、と思った。旨さを認めるのは、なんとなく負けを認めるような気がして嫌だったからだ。そう思っていると、今度こそ晴陽奈がこちらを見た。


「ねえ、君、私の研究講座に入らない?」

 驚いた。ばかな、どうかしてる。

「なんで俺が?」

「あまりいい人材っていなくてねえ」

「俺は、いろいろ問題を起こしますよ」

「少なくとも、気に入ってるわよ。私の発言に絶対素直にはいって言わないところとかね」

「そういうのは、一般的に、気に入らない、っていうんでしょう。」


 晴陽奈は少し考え込むようにした。そして、こちらを向いて持っていたペンを目先ぐらいまで上げて、軽く振りながら、こういった。

「そうでもないわよ。正直な話。もちろん、“先生”が教える内容ってのは、正しいのだけれど、正確には“概ね”なのよね。疑ってかかることも必要だし、そもそも間違ったことを教える可能性だってあるからね」

「それは、いけないでしょう。教師ってのは、教えるプロでしょうが!」

 洋平は、多少ならず憤慨して言った。昔からそういう態度が嫌いなのだ。

「まあ、そうだけどね。でも今の人材不足のご時世では、妥協しなければいけないこともあるはずよ。そう思わない?それに、どんなプロフェショナルでも間違えることはあるでしょう」

「そうだとしても、間違えもありき、では困ります」

「それはそうね。逆に言えば、間違えてもいいと思っている人は、プロではないわね。かといって、君の言うとおり、期待に十分答えてくれている先生が、今どれくらいいるのかな?」


「ううむ」

 うなりながら洋平は、少し迷った。確かに間違えない先生がどれだけいるのか見当はつかなかった。実際、いないと言ってもいい。もしかして、自分でそういうことを理想にして考えているだけで、今身におかれている周りの状況は、見えていなかったのかもしれない。しかし、これくらいでへこまされるわけにはいかない。 俺はこいつとは、ソリが合わないんだ。丸め込まれてはたまらないからな、と洋平は心を身構えた。


 晴陽奈は、そんな洋平の意思を見て取ったのか、目をそらした。

「ま、そういう先生がどれいようが、いまいが、受ける生徒のほうにも問題はあるわね。そこまでしっかプロを受け入れる環境がそろっていれば、プロも育つのよ。まあ、私にとっては、どっちもどっちという気がするけど」

 洋平は、また勝手なことを言い始めたな、と思った。


「学生にも問題があるっていうんですか」

「そうじゃない?」

 晴陽菜は、洋平にとっては、いやなくらい、しらっとそう言った。正直言って頭にきた。

「まだ高校生なんだから、そんな受け入れ態勢はできていないに決まってるだろ」

「そう、でも君は、そんなこと言ってるじゃない。人によっては、考え方次第では、できてるってことじゃないの?こんな会話をするのに、高校生だから、大人だから、って設定が必要かしら。歳がちょちょっと違うだけなのにねえ」

 晴陽奈は、そんなこともわからないの、という顔つきで言った。

「そ、そんなの屁理屈でしょう」

「そお?」


 洋平にとっては取り付く島も無い。洋平はあきれ果てた。こんなばかばかしい話に付き合ってられないと思った。教師というのは、こんなのでも勤まるのか。

「付き合ってられないな。用はそれだけですか? そういう考えを持っている先生の講座には入りませんよ。じゃあ帰ってもいいですか?」

「返事はまだいいわ。でも一応、考えてみておいて」

「ふん、しるもんか、ばかばかしい」

 洋平はそう小声でいって、さっさと研究室を出た。研究室を出て、洋平は思わず振り返ってみた。こっちが嫌ってるのは、わかってるくせに、嫌な女だ。洋平は本当にそう思った。


(2)

 その後、しばらく晴陽奈とはあまり接点がなく、日が過ぎて行った。実際に、夏休み前には試験があったし、学生も教師も忙しかった。それに夏休みに入ってしまえば、よほどのことがない限り、学生と教師の接点はないといってよかった。

 洋平は、しばらく晴陽奈の研究室への誘いのことを忘れていた。実際考えるつもりなどはみじんもなかった。あの人と自分の考え方が合うとは思っていなかったが、ましてや性格的にも仲良くやっていけるとは思えなかったからだ。


 洋平は、ある登校日、昼休みに屋上に上ったところ、意外な人物の姿を見た。それは晴陽奈であった。晴陽奈は、屋上のフェンスに手を付きながら、町のほうを見ていた。それは、いつも洋平が思っている、晴陽奈とは違う顔つきであった。普通に見て重い何かを背負っているような顔つきであった。それは、洋平にとっては、何か見ていけないものを見たようであり、ましてや話しかけられない雰囲気があった。


 洋平は意外な一面を見たように思った。洋平は、腰掛的に教員になる人間や、教育実習生が気に入らないのである。そういう点で、ふわふわした感じの晴陽奈もその類と思っていたが、ただの浮ついたやつでないのかもしれない思った。しかし、誰にだって悩みはある。騙されないぞ、と洋平は思った。とりあえず、話しかけられる雰囲気ではないし、話しかける気もない洋平は、武士の情けだからな、と思いながら静かにその場を去ることにした。


 夏休みが終わり、試験も落ち着いたころ、洋平は、晴陽奈の研究室を訪れることになった。それは意図的なものではなかったのだが…。初めて荷物を持って晴陽奈の研究室を訪れてから数か月たっていた。担任である賀名生悠子に、放課後に手伝いをお願いされたのである。そうして連れて行かれたのは、晴陽奈の研究室であった。


 賀名生悠子は、洋平のクラスの担任であるが、そのおっとりした性格から人気があった。むろん洋平も例外でない。彼女が困っているのであればだれでも助けてあげたいと思える人物であった。

「今日の手伝いは、晴陽奈先生の依頼なんだけど、いいかな?高久君」

 正直困惑していった。なんでこの人は、あの人にかかわらせようとするのだろう。悠子が困っているのならば、二つ返事でオーケーするのであるがこれは難題だと思った。とりあえず、何とか誘惑に抵抗した。

「むぅ…。それは、困ります」

「どうして?」

「一応、賀名生先生に頼まれたわけですから、賀名生先生の仕事を手伝うのが筋でしょう」 

 洋平が戸惑いながらも、そういうのを聞いて、少し離れていた場所にいた晴陽奈は大げさにため息をついた。

「は~、言うわねえ」

 それを見て、悠子は「やめなよ。真剣に話しているんだから」とたしなめた。

「今日は、本当は私が伊勢崎先生を手伝おうと思っていたのだけど、急に会議が入ってしまって、手伝えなくなってしまったの。そういうわけなので…、お願いできないかな?」

「はあ、どうしますかね…」

「伊勢崎先生は、高久君に手伝ってもらうなら、良いと言ってくれているんだけど」

「…、賀名生先生のお願いなら仕方ないですが、卑怯だな」

まだ晴陽奈は、素直じゃないわね全く、などと、遠くで言っていた。

「晴陽奈!きこえてるよ」

 悠子は、たしなめるようにそちらを向いていった。

「ふーん、聞こえるように言ってるんだからね」

 悠子は、あなたもちゃんとお願いしなさいよ、といった。手伝ってもらうのは確かなんだからね。

「まあ、そりゃあそうね。じゃあ、お願いしてみようかしら。ねえ、高久、手伝ってよ。お願い。」

 晴陽奈は、ふいに、近づいてきて、そういった。洋平はあきらめた。賀名生先生の頼みは断れない。そういう事であれば仕方がない。

「わかりましたよ、手伝いましょう。賀名生先生のお願いを断ったら、クラスでいじめられますからね、もう仕方ないです」

「ふうんん。そういう言い方をするわけね。まあいいわ、手伝ってくれれば」

 その様子を見ていた悠子は、ほっとしたような顔をして、「よかった。高久君、ありがとう。じゃあ、私はこれで」と立ち上がった。

 え?洋平は、大いに驚いた。その手伝いとやらを、しばらくは悠子も含めてやるものと思っていたからだ。 いきなり去られてはケンカになりかねない。もう少しいてもらわなければ、不安だった。「もう、行くんですか?」とつい聞いてしまった。

 悠子は、申し訳なさそうに言った。

「ごめんね、もう急がないといけない時間で…、また後で見に来るから。」

 晴陽奈は、あらあら、あきれたわね、といいながら、付け足した。

「別にとって食べようってわけじゃないんだから。保護者なしでも泣かないで」

「何言ってるんですか。賀名生先生の手伝いなんですからね。仕方無しですよ」

「はいはい。手伝ってもらえれば文句言わないわ」


 手伝いは、本当に下働きの類で、実験室で使ったビーカーや実験器具の洗浄であった。ただ、普通の食器を洗うようなわけでなく、例えば滅菌したり、蒸留水での共洗いなど、器具や使い方に目的があり、それは仮にも理系コースの洋平には、面白くはあった。それに、意外に晴陽奈は、洗浄の目的といかに重要さを教えてくれた。

「と、いうわけで、クリーンルームに近い状態で実験をしないといけないわけ」

 洋平は感心したが、なんとか興味がないふりをした。こうすればいずれ諦めるだろう。

「ふむ」

 そんな洋平のすがたを見ているか見ていないのか、晴陽奈は自慢げにいう。

「すごいでしょ。こういう小さな研究施設でも、ちゃんとやれば放射化学の研究ができるのよ」

 この人はまじめで、純粋なのだろうとは思ったし、申し訳ないと思ったが、あまり素直に賛同できなかった。ここが大学ならそれはよかったろうが…。

「ふうん。それはすごいことなのですかね。僕らのカリキュラムにはあまり関係なさそうですけど。先生の実績がたまるだけでしょう」

「もう、そういうもんじゃないよ。君はそういうところ、ちょっと冷めているよね」

「そんなことありませんよ」

「部活動もやっていないんでしょ」

「まあ、そうですが」

「無理にとは言わないけどさ、たまに手伝いに来てくれれば、化学のいい補修になるよ。あんた化学は成績悪くないでしょ。まあ、もっとも勉強しなくていいほど良いってわけではなさそうだけど。もう少し深くやってみても面白いよ」

「利用されるのはごめんですよ」

「ちょっと、そういう言い方はないでしょう」


 この時ばかりは、晴陽奈は怒ったようだった。

 洋平は謝るべきかと思ったが、なんとなく素直に謝れない自分がいた。自分にだって主張がある。理屈じゃなくても、守るべき主義があってもいいと思っていた。

「ま、いいわ。その暴言は今回だけは許してあげる。賀名生先生にも言わないでおいてあげるから、そのかわり、しばらく手伝ってもらうわよ。一見無駄に思えるかもしれないけど、物理・化学・生物・あるいは工学系に進むのであれば、知っていて損する知識はないよ。理系コースなら、そろそろそういう感覚を積んでおいていいわよ」

 そして、洋平は肩をつかまれた。

「そら、シャキッとしなさい。相手がどうあれ、自分のためになるとわかったのであれば、学ぶときは学ぶ。いい、わかった?ちゃんと手伝うのよ」

「…、うむう」

 洋平は、忸怩たる思いだったが、無理やり返事をさせられた。何かがおかしい、が少しだけ、この研究室の実験器具で遊んでみたいという誘惑に負けた、ということにしておいた。


(3)

 担任である賀名生に騙された、と思って通い始めた、晴陽奈の研究室であったが、次第に嫌悪感は興味へと変わっていた。相変わらず反抗心はあったものの、晴陽奈の研究に対する姿は半端ではないことに気付かされた。

 洋平は、そんな晴陽奈の姿を見ていると、これまで彼女に向けた言葉を申し訳ないと思うようになっていた。研究をしながら学生の授業を行うのは、尋常ではない大変さがあった。朝はたいてい6時前には高校に来ているらしかった。高校の授業は8時50分に集合し、一時間目は9時からのスタートである。その前に、一日で終わる研究の仕込みをしているようであった。普通の教師よりは、専門が深いため、3学年の化学でも有機化学以降の先端部分の担当であるようであった。そのような専門は一週間に十コマ程度であるそうで、それ以外の時間は職員室よりは研究室で実験の仕込みやら準備などを行っていた。


 夕方4時頃からは、職員の会議がたっぷりあるようだった。部活動などあるのだが、晴陽奈は月理部という月の地形を研究するマニアなクラブの顧問を務めているくらいで、そちらの方は熱心とは言えないようだった。それにしても会議の後は、試験の採点やら、新しい教材の整備やらで忙しい。3年生で専門講座を専攻した学生は5人ほどであったたため、これらの指導もある。洋平などは部活の免除の代わりにこの講座も受けており、夕方は7時ごろにやっと研究室での指導が終了した。これを毎日繰り返しているのだから、洋平などは、思ったより多忙だなと、感じていた。


 普通、帰宅してしまえば学生は、そのあとの学校で何が起きているかなど、気にする必要もない。しかし洋平は一度帰宅後に、学校の周辺を通る機会があった。光をともしていたのは、二つの研究室であった。それは11時を過ぎた時間であった。その後、午前0時前にさらに周辺を通って自宅へ戻る際、電気が消えていたのは、西山田の研究室であった。


 翌日、そのことを晴陽奈に言うと、「あらら…。ばれてしまったか~ねぇ。昨日はねえ、昼寝したら寝過ごしちゃってね、ちょっと夜更かししたのよ。ちょうどすぐ帰ったのよ。のぞいていないわよねえ。本当本当」などと照れるように言っていた。


 洋平には、その発言が本当かどうか計りかねた。学生への指導などで、晴陽奈が手一杯なことは確かである。洋平は当初、このような勤務の形は、自分を含めて学校や学生に対するパフォーマンスだと思っていた。しかし晴陽奈が、毎日続けていたことを知るまでそれほど時間はかからなかった。

 洋平は思う。屋上で見た晴陽奈の顔。深夜まで研究をすることや、学生との授業を熱心にやること、そしてそれを毎日続けること、それが目的ではないのだろう。それらを行う事、それ自体が晴陽奈にとって目的なのだろうか。継続は力なり、なんて言葉はまるで意味がない。目標はすでにここにあり、それをただ全力で行うことが彼女の生きがいなのだろう…。洋平は、晴陽奈の帰宅時間が遅いことは二度と口にすまいと思った。それは、丸め込まれたわけではない。“武士の情け”だから、いいのだ。


 晴陽奈の化学の授業は、回数を増やすにつれ、充実していくのが、クラス全員とは言えないまでも、何人かのメンバーにとっては興味深いものへと変化しつつあった。どうやら、こちらが、どのように解らないか? を理論的に説明してあげればいいのだった。晴陽奈が意図的にやっているかどうかはともかく、こちらが、いかに理解できないかを、話せばいい。たとえば、晴陽奈の説明のうち、その構成物質の特性がわからないから…、結合の形に関する知識がないから、理解できない。と言ってやれば、晴陽奈はそこから話した。もともと横道にそれるタイプの人間らしいのだが、必ず筋立てて戻ることができるので、授業に集中していれば、理解は可能なのだ。クラスの数名はそれに気づいて、今までの授業ではない、言い合いの多い授業となっていった。

 洋平は、自分の見方が決して正しくなかったことを、知った。


(4)

 晴陽奈の研究室に所属して初めての冬を迎えた。洋平は晴陽奈に対してぶっきらぼうではあったが、素直に手伝いをしたり、授業を受けるようになっていた。洋平自身からすれば、上手く晴陽奈と賀名生悠子に丸め込まれたような気がするのだが、クラスのだれもそのような突込みをする者はいなかった。おぼっちゃん学校だからな…と洋平は思った。友人は何人かいるが、智明は、ほっとしたように、晴陽奈と洋平に関する感想を言った。


「いや、よかったよ。はたから見てて、気が気じゃなかった。まあ、結ばれるべくして結ばれたね」と言った。

「結ばれるとは、どういう意味だ」

「まあ、そんな感じだよ。なんかお互い好きなのに、嫌ってるというか」

「そんなことがあるか。バカ」


 洋平は智明を軽く小突くと、その話を打ち切った。そんなバカなことがあるか。今だってまだ納得しているわけではない。でもちゃんとやっている人なら、それはそれでいい。ウマが合わなくたって、一生懸命やっている人と一緒にやるのは、無駄にはならないだろう。

 その日、実験はすぐには終わらなかった。暗くなると晴陽奈は、いつもそうしているように帰るように勧めたが、そのまま居残った。夜が遅くなった頃、晴陽奈たちは実験にキリを付けた。研究室付の助手の人が今日は番をするとのことで、晴陽奈と、学生数人は引きあげることになった。晴陽奈と洋平は、たまたま方向が同じであったため、少しだけ一緒に歩いた。


「すっかり遅くなっちゃったね。ごめんごめん」

「いや、かまいませんよ。今日は少し進みましたね」

 そういったとき、晴陽奈の顔が、ぱあっと明るくなった。

「そう、そう思う?わたしも今日は、ちょっと進捗があったかな、と思ったのよ」

「先生って、実験好きですよね」

 そりゃそうよ、と晴陽奈は当たり前のように言い放った。

 そして、洋平のほうを振り返って言った。

「こんなこと言ったら、怒られるかもしれないけど…」

 と、晴陽奈は洋平の顔色を窺うようにしながら続けた。

「学生に教えるのはいいの、でもそれ以外のもろもろの管理監督業は、なかなか報われないのよ。私だって、良い生徒じゃなかったから、それは、自分の報いかもしれないけどね、ははは」


 晴陽奈は歩き始めた。洋平も、話が始まるのを待った。以前なら、そらみろエセ教師、と言っていたかもしれないが、洋平には続きの話があることが、なんとなくわかった。

「でも、そんな教員の仕事の中で、こうやって新しい何かのために実験で新しいものを見つけるのは、とっても気持ちがいいわね。まあ、やっていることは実は深刻なことだから、浮かれているわけではないけど…」

 そこで、晴陽奈は言い及んだ…、珍しいことだ、と洋平は思った。

「ごめん、暗くなっちゃったかな。でも、今日はよかったよ。集中して実験できたし、それなりの効果もあった。もう少し、ほかの事例でも実験しないと、確証は持てたからね」

 晴陽奈のせっかくのいい気分を損ねないようにしたい、と思いながら、洋平も口を挟もうと思った。

「でも、意外に明日、一からやり直したら、うまくいかなかったりして!」

「あら!そういうこと言うの!そうやって水を差すんだ!」

「でも、先生なら明日一度やり直すでしょう」

「…、そうね。そう、そうじゃないとね。実証って難しいんだ。でも今日だけは希望を抱いて寝ることができそうだから、よし!と」

「そうですね、明日も頑張りますか」

 そういったとき、晴陽奈が、突然振り向いた。洋平は思わず立ち止まった。

「ね、こういう研究も悪くないでしょ?期待してるからね」

 晴陽奈の真剣な目に思わず息をのんだ。

「あ、はい」


 晴陽奈は、高校の横にある、銀杏並木を見つめた。

「ちょっと、銀杏並木でも歩こうか」

「イチョウ、ですか?」そんなものがあったろうか、と洋平は思った。そんな顔を見て晴陽奈は直ぐに言った。

「ははあ。知らないのね?」

「そんなのありましたっけね。」

「ええ!? ここの学生の生徒なのに、情けないわあ。こっちだよ。」

 洋平は連れられて納得した。体育館の裏には温室があることまでは知っていた。しかしその先に数十メートル続く銀杏並木があったのだ。

「そういえば、こちらにも学園の門があることは知っていましたが、すごい急登という噂でしたから…。知らなかったな。」

「そう?私は最初に赴任して、すぐに冒険したから知ってたよ。あの急登、宮守坂って言うらしいわよ。それにしても、もったいないねえ。こんな立派な並木なのに誰も知らないなんてねえ。」


 確かに、立派だった。数十メートル、続いている。

 あ、それなら、あの銀杏の木のことも知らないなあ。きっと、と晴陽奈は独り言のように言った。

「なんです?あの銀杏の木って。」

「あ、どうしよう。もしかしてみんな知らないスポットなのかも。教えてあげようかなあ。」

「いや、無理に教えてもらわなくても結構」

「よし、仕方ない。今日は暗いから、明日ね」

 そういって、駐車場のほうへ向かう晴陽奈は、少しだけ明るく見えた。気のせいだろう、と洋平は思った。でも、あの銀杏並木はなかなかいい。


 翌日は土曜日で午前中の通常授業の後、部活動や研究講座以外は何もなかった。そして夕方、暗くなる前に、晴陽奈は、まだ化学実験の残っていた、洋平を引っ張り出した。

「こら、昨日約束したでしょう。いいもの見せてあげるから。これからの時間が一番いいんだって。」そうして、昨日通った、体育館から温室の横を通り抜ける。

 わあ、これ、いいですね。思わず洋平は声を上げた。銀杏の並木は見事に黄色く染まって言う。それが整然と整っているすがたは、格別だ。


 こっちこっち。晴陽奈はさらに奥に行こうとする。いったいどこに行くのか、見当もつかなかったが、小道をずうっと行くと、少し開けた。

 その先にたどり着いてみた光景は…。


 高くそびえる銀杏の木だった

 それは並木でなく、ただ一本すうっと空に伸びている

 茜色から深い青色に代わろうとしているデリケートな空

 色彩の美しさに、すいこまれそうだ

 それにただ一人で道を切り開いたような立派なイチョウ。

 そして、見事な黄色の衣を身にまとっている。


 赤と青が調和した空、空に映えてオレンジ色の衣をまとう銀杏、銀杏とあの人の立姿。シンプルながらすべてが整っている。完璧な調和の美しさを醸していた。

 洋平は素直にそれが美しいと思ったし、言葉を発する必要がないと思った。そして、動くものを認識した。黄色のじゅうたんを歩く、薄いベージュのコートに身を包み、長い髪を揺らしながら歩く誰か。その誰かが歩みを止めて銀杏の空を見上げた。それもその風景に不可欠なものだと、洋平は思った。


(5)

 外には雪が降っていた。温暖化の影響で雪が降るのは18年ぶりとのことであったが、学園祭の準備はそんな特別な寒さの中、ひたすら続けられていた。研究室では晴陽奈が最近買ったサイホンでコーヒーを入れていた。よい香りが研究室を包んでいる。いつもは豆にこだわりがあるくらいで、普通に濾紙で入れているのだが、どういうこだわりか、サイホンを突然買ってきた。


「あ、いい匂いがするな」

 洋平がその匂いに反応すると、待ってましたとばかりに晴陽奈が喜色満面になった。

「でしょう。やはりサイホンで入れると違うよね」

 晴陽奈はニコニコしながらサイホンがコトコト言うのを眺めている。

「正直に言って、サイホンで入れるのと、濾紙で入れるのと何が違うのか解りませんが」

 洋平は正直に言った。

「でも、雰囲気はあるな」とも付け加えた。


 晴陽奈もあえて反論はしなかったが、サイホンを眺めながらつぶやく。

「そういう雰囲気や時間の使い方が大事なのよ、効率よく、なんでも合理化すればいいのとはわけが違うよ。どんなにおいしいコーヒーでも、においもなく、自販機のようにポンと出されても味わいも何もないでしょ」

「それは、そうかもしれないですね」

 洋平は肯定した。

「…? あら、ずいぶん素直になったわね。半月前なら、たるんでいるって言われたと思うんだけど」

 そういわれて洋平は赤面しそうになった。そうかもしれない。しかし決してこういう時間がたるみでない、ということを知っただけではないかと、思った。


 出来上がったコーヒーをカップに淹れながら、晴陽奈がつぶやいた。

「それにしても、学園祭とはいえ、こんな寒い中よくみんな頑張るわねえ」

「そんなこと言ってないで、手伝ってくださいよ」

「いや~よ。寒いもん。なんで、研究室なのに、外で模擬店なんてやるのよ。」

「研究費獲得ですよ。西山田先生のところなんて医療機器メーカーからいろいろ貰って裕福なのに、こっちはお茶菓子にも困っているじゃないですか」

「まあ、そうなんだけどね。へへ」

 洋平はその裏も知ってはいた。企業と協力すれば実入りはあるが、そのための研究時間を取られることも多い。晴陽奈はそういうことがあまり好きでないのか、時間がもったいないのか、すべて断っていた。

「とにかく、ほかのことは手伝うけど、外はいやよ」

「はは。わかりましたよ。そういえば、先生は月理部の顧問もしてるでしょ?どうしてるんです」

「ああ。月理部は部長の相沢君がしっかりして、観測記録の発表なんか、ちゃんとしているよ。むしろ私が出ていくと、ややこしくなるみたいだから…、あまり顔は出さないな」

「へえ。観測ですか。月はいいとして一度、木星や天王星を目で見てみたかったんだよなあ。」

「あら、そういうの興味あるのね?今度何でも有名な流星群の観察をやるらしいわよ。そうだ、ふたご座流星群だったっけ。私もふたご座なんだ。まあそれはいいとして、私も顧問として参加要請されているんだけれど。オープン参加らしいから。出てもいいと思うよ」

「流星群ですか。それもいいですが、まあ木星を見せてくれるならいいかな」

「うん、話しておいてあげるよ。模擬店は、よろしくね。しっかり稼いできてね」

「ははは…」


 洋平はいつの間にか晴陽奈となじんでいる自分を不思議に思う。苦手なタイプだと思っていたし、実際付き合いやすいわけではない。いまでも本当にそうかな? と思う話はちょくちょくある。それなのに一緒にこうして実験したり日々の多くを過ごしているのはなぜなのだろうか。意外と行動の目的は同じであるのだろうか。


 そのあと、数日間催された学園祭は雪の心配もなく、連日意外な快晴で迎えられた。洋平たちは忙しく学園祭を満喫したが、その間も研究室は、晴陽奈と助手でいろいろ継続して研究しているようだった。洋平も手伝いたいとは思ったが、晴陽奈に、ここは高校生らしく遊んできなさいと追い払われたのだった。


 そして最終日を迎えるにあたって、朝研究室に数日ぶりに顔を出したのだが、珍しく会話も弾まず、重苦しい雰囲気で、顔を出した洋平と数人の学生もそうそうに退散せざるを得なかった。その夕方、やはり晴陽奈はいなかった。その日晴陽奈は朝から珍しく情緒不安定だったらしく、ビーカーを落とすなどの小さな事故もあったらしい。その原因を助手に訊いたが、さあ、とけんもほろろであった。


 洋平は、漠然とした不安を感じ、まさかと思ったが屋上に行ってみることにした。ずっと前、屋上で見かけたあの顔こそ、今の晴陽奈に近いと思った。

 晴陽奈は果たして屋上にいた。

 洋平は話しかけていいものかどうか迷った。が、あの時はともかく、今は話しかけてみなくては、と思った。


「いったいどうしたんです、元気ないですね」

「そう? そういうときもあるのよ。意外だった?」

「そうだなあ。今日はちょっと変ですね」

 いつも通りだよ、という晴陽奈にはやはり元気がないのは明らかだった。

「いったいどうしたんです」

「どうもしないってば…」晴陽奈は、珍しくいらついたように言った。

「ちょっとひとりで落ち込んでいたいだけよ。それだけ」

「…」


 しばらく沈黙があった。洋平も口を開けずにいた。

「もう、学園祭のフィナーレでしょ? 戻りなさい。来てくれてありがとう。少しは気が晴れるわ。」

 晴陽奈がポツリと言った。しかし到底額面道理に受け取れる顔や声ではなかった。

「…」

「私は放っておいてかまわないから。ね」

 洋平は腹を決めた。

「帰りませんよ」

「何よ。一人になりたいって言ってるでしょ」

「僕もたまたまここに来ようと思っていたんです。帰れったって、屋上に好きでいるんだからいいでしょう」

「しつこいよ。一人になりたいんだってば」

「何でです」

「うるさいな」

 その後、沈黙が続いた。洋平は気持ちを落ち着けた。こちらから口を開かなければいいだけだ…。苦しいが…、楽勝、楽勝。その作戦はやがて成功した。

「聞いたら嫌な気持ちになるよ」

「…僕は好きでここにいるだけですから…」

「ああそう。じゃあ、聞きなさい。今日、ある病で研究対象になってくれた方が亡くなったのよ。それだけ。わかった?」


 死んだ?と洋平には、その意味がよく解らなかった。研究室が朝、相当バタバタしたらしい痕跡はあったのだ。しかし、あんな研究室に病気の人がいたなんて…、信じられなかった。確かに教室の一部にしか入ったことがないので、そういう設備があっても気が付かないのだろうが…。

「ちがうの。亡くなったのは、大学の方なのだけど。元気なころはとっても素敵な御嬢さんだった。せめてお役にたちたいって。私のところに来たの。私のところは、研究の中では、基礎的かつ末端部分だから、万策尽き果てた後に、実験台として来るところなのよ…」

 晴陽奈は涙ぐんだ声で話を続けていたが、所々で言い及んだ。

「いやになったでしょ。こんなところ。私はいや。嫌だよ。もう…、どうしたらいいのか…。私の力ではとても…、どうしたって助けられないし」

 洋平は、さすがにどう慰めて、あるいはどう口をはさめばいいか、よくわからなかった。とにかく今聞いた言葉から、何とかしよう。

「それは…、末期だからで、先生のせいではないでしょう」

「そうだけど、でも。でもね。もうそういう症例は何度も見てきて…。もう耐えられないかも」


 晴陽奈はぐっと気持ちを込めたようだった。泣いては、いないようだ、歯を食いしばって、涙を止めている。洋平はそんな晴陽奈の姿を見ていると、自分の心臓を圧迫されているように、嫌な気持ちになった。いつもの晴陽奈の姿とはまるで違う。快活で元気な姿は欠片もない。どうして、声をかけてあげればいいか、さっぱりわからない。そんな自分をいち人間としてふがいないと思った。そのまま果てしないような時間が過ぎた。言葉を発することは、洋平にはできなかった。


 外では、にぎやかな音楽が、冷たい空気に伝わってきた。洋平はあることを思いついた。今の自分が晴陽奈のために、精一杯できること、それは…。

「踊りましょうか」

「え、何を言って…? 私の話聞いてた?」

 晴陽奈は、全く思いも寄らない言葉に驚いた。洋平の目は真剣だった。

「はい。たくさんつらいことはあるでしょう、僕はまだガキンチョで、大人の先生の気持ちなんてわからない…、いや、そんなんじゃなくて、山ほど悲しい思いをした先生の気持ち解った、なんてとても言えません。でも、何も知らない僕だからこそ、気楽に言えるんです。ね。今ちょっと、この音楽に騙されたということで、踊ってみませんか。頭の悪い学生に無理やり、付き合わされたってことで」


 晴陽奈は、しばらくあらぬ方向を見ていたが、悲しい顔を洋平の方に向けた。そして小さな声で、「そうね」といって洋平の手を取った。洋平は、この人の近くにいてよかった、と初めて思った。これはどういう感情なのだろう。この人は何度もこういう悲しみを自分一人で抱えてきたんだ、と思う。それを昨年のあんなヌルい教育実習生と一緒にするなんて。自分の不明を恥ずかしかった。その分、晴陽奈への気持ちがどんどん大きくなるのを感じざるを得なかった。恥じるばかりだ。少しわかりにくいだけで、いい人だった。尊敬もできる。それにしても、全身が満たされたような温かくも切迫し

たようなこの感情は、なんだろう。


 冷たい空気にさらされた屋上で踊る二人、空からは、さみしそうな半月が見下ろしていた。


(6)星降る夜空


 屋上での出来事の後数日たつと、晴陽奈はいつもの元気さを取り戻したようだった。いままでの洋平ならば、それを素直に受け入れていただろうし、おかしいとも思わなかっただろう。しかし、洋平の心には、ぶすぶすとした、引っかかるような、満たされたような、漠然と不安なような、とにかく表現できない感情が残っていた。そのような不安はとりあえず、押さえておこう、と思った。それよりも晴陽奈の不安はとりのぞけないだろうか、と思った。きっと立ち直っていないだろう。自分なら、無理かもしれない。押しつぶれてしまうかもしれない。そんな中、あの人は何度も立ち上がってきたのだ。自分にはできるだろうか。洋平の心は初めての経験に大きく揺れていた。そんな洋平のここを知ってか知らないか、晴陽奈は、今まで通りに接していた。


 実験管理室に隣接した、晴陽奈の居室に顔を出すと、あ、例の件、伝えておいたから。大丈夫だって。と晴陽奈に突然言われた。

 洋平は、きょとんとした。

「あれ、忘れたの? ふたご座流星群の観察だよ」

 ああ、と洋平は、ほとんど忘れかけた記憶のひもを探し当てた。晴陽奈は、さも呆れたように、きゃしゃな腰に手をかけていった。

「大丈夫? ぼうっとしてない?」

「いや、大丈夫ですよ。思い出しました…。というか、忘れていたかな」

「やっぱり。やれやれね。ふむふむ、恋の病かしらね? 洋平君のクラスはかわいらしくて両家の御嬢さんで一杯だからなあ。もう、妙齢の先生としては…」

 暴走気味の晴陽奈を洋平は焦りながらも軽くあしらって、その場をしのぐのが精いっぱいだった。しかし焦る気持ちを抑えながら思う。そう、間違いなく恋の病だ。自分は、晴陽奈が好きなのだ。


 数日後、天体観測会には参加した。表向きオープン参加とはいえ、月理部部員以外に観測に参加しているものはいなかった。

「ありゃ、部外者はやはり、まずかったですかね」

 洋平は戸惑ったが、晴陽奈はいつもと同じ様子であった。

「私だって、専門知識のかけらもないのに顧問やっているんだから、同じだよ。つきあってよ」といってしばらく観測を手伝った。

 どうにかこうにか、木星を見せてもらったりしたあと、手持無沙汰にしていると、晴陽奈がやってきた。

「ちょっと、差し入れを買い出しに行くから、付き合ってくれる。どうせ観測の手伝いはしてないんでしょ?」


 洋平がそういわれたのは、まさに観測の手伝いをさせてくれと、部長の相沢にお願いしているところであった。相沢は、びっくりした様子だったが、目配せをすると「伊勢崎先生の子守が一番大変なんだ。頼むよ」と言った。洋平は「仕方ないな。これは最高レベルの貸だぞ」と相沢に言うと、すでに歩き始めている晴陽奈について行った。

 洋平は、晴陽奈と二人きりになると、妙に心臓が高鳴るのを感じた。まるっきり二人きりになるのは、あの銀杏並木を見て以外、研究室以外では久々だった。

 買い出しは、晴陽奈の車で出かけたのだが、その間、二人は無言であった。学園祭の最終日以来、洋平は自らの心の中に消し難い、晴陽奈の姿があった。


「あの、ちょっと、寄り道してもいいですか?」

「いいよ、どうせ観測会では、お荷物なんだからね」

「いや、先生はそうかもしれませんが…。」

「なに~? 自分だって手伝てるわけでもないでしょう」

 そんな会話はあったが、低調な会話であった。

 二人は近い距離で歩いていたが、お互い自然と手が触れるのを、嫌うわけでもないようすだった。触れるか触れないかという距離で歩いている。それを洋平は不思議に思う。屋上で見た、晴陽奈の姿。そして今隣にいるその人。洋平は、自分の心からどうしてもその姿を消せないでいる、その理由ははっきりとは分からないが、おそらく、そう言う事なのだろう。


 しばらくあるくと、小路は行き止まりになる。そこには小さな外套とベンチが一つある。懐かしい銀杏は丸裸である。

「さすがに寒々しいですね」

「そうねえ。あのあと数日で葉はすべて落ちてしまったのよ。一番美しい時期は1日、2日しかないのよ。自然は美しさのためにああしているんじゃないんだけど。不思議よね」

「…」

 沈黙を不自然と思った晴陽奈が洋平の方を向いて聞いた。

「どうしたの?」

「あの時は、すごくきれいでした」

「そうでしょ。みんなには内緒だからね」

 違う…、と洋平は思う。気持ちを伝えるのは難しい。ましてや身分が違えばなおさらである。自信のかけらもない。伝えてしまっていいものだろうか。判断はつかない。

 戻る? といいながら立ち止まる晴陽奈。

 洋平は、どうにも決心がつかなかったが、この状態を逃せば、いつ浸りになれるかわからない。このまま帰るわけにはいかないと思った。ためらいがちに帰る方向へ振り返ろうとする、晴陽奈の手をつかんだ。

「ど、どうしたの?」

 手をつかまれて驚く晴陽奈だったが、洋平は覚悟を決めて晴陽奈の体を強く引っ張った。

 わ、わわっ…、という晴陽奈だったが、かまわず洋平は手をまわして、ぎこちなくも晴陽奈の体を引き寄せきった。

「ちょ、ちょっとまって」


 晴陽奈は慌てたてそういうのが精いっぱいだった。しかし洋平は堰が切れたようにその体をかき抱いた。洋平は抱き寄せれば、体温が感じられて温かいと思っていたのだが、コートは冷たさしか感じなく、不安だった。晴陽奈を抱きしめている実感がもっとほしかった。抱きしめて嫌われるのではないかという、つい数秒前まで頭の中に一杯だったことは、もうどこかに消し飛んでしまっていた。二人とも無言になった。


 洋平は落ち着くことはなかったが、時間がたつと、晴陽奈の腕が自分にまきついていることに気が付いた。これは、嫌われていないという風に考えていいのだろうか、と思うと、新たに自分の心に胸の苦しさを感じ、そして火がつくような熱い思いが体を駆け巡るような気がした。洋平はそんな、狂おしい気持ちの中で、沈黙を破った。


「先生のことが好きです」

「…」

「好きです。大好きなんです」


 洋平は、晴陽奈が何も言ってくれないのが不安だった。そしてもう一度繰り返して、好きです、と言った。でもあまりしつこく言うと嫌がられるかもしれないが、いまさらやめられるものか。

「ん、んん」晴陽奈の声はいつもより上ずっていた。その変化は洋平に届いただろうか。


「でも…、でも私たちは教師と生徒なんだから…だ、だめだよ」

「そんなことはわかってます。でもいま、すごく惹かれています」

「うそ。私のこと、大っ嫌いだったくせに」

 洋平はさらに強く晴陽奈を抱きしめた。絶対に逃がさないと言わんばかりに。晴陽奈は、だめだよ、といいながら体をもぞもぞさせた。

「ごめん。今誤っていいのなら、謝ります。すみません。でもすごく好きです」

「うう。どうしよっか…な」


 そう言いながらも、二人はお互いを求めるよう初めてお互いの唇に触れた。それは自然な成り行きに洋平は思えた。そしてふたりは、さらに抱きしめあった。今このとき確かに何か運命の方向がぎしりと方向を変えた。その低く鈍い音はお互いに集中する二人の耳には届いていない。

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