プロローグと第1章
プロローグ
はるか、遠い昔のことのようだ。
つい数年前まで、この廃墟が学舎で、確かに人がいたことを私は知っている。
その場所を、私はあの時以来、久方ぶりに目の前にしている。
散々逡巡しながら、やっとここまで来た。
本当にたくさんの人たちが、ここにいた。
私にとっては、つらい場所でしかない…。
しかし確かに、ここは私たちが存在していた場所。
私の故郷。
私の想い出は、閉じた円であり、メビウスの輪のように出口がない。
今はさびしい廃墟になっているこの場所。
私は、人かげない廃墟を進んでゆく。
訪れる前に私が考えていた、相当荒れているだろうという思いはよい意味で裏切られた。埃がたっぷりと積もっているだけだ。むしろ気持ちが悪いほど整然としている。
そうだ、そうだった…。私は、当然のことに気が付いた…。荒らすものなど誰もいない。そんな人はいないのだ。このかつて一千万人を誇った大都市もいまや10万人を切っている。あるものは、固まって住み、あるものは、個人で、ごく数名で散らばって過ごしている。
荒らすものなんていない。もちろん、立て直す人間も…いない。
私は、底の無い寂しさに捕らわれて足を止める。光が当たらないこの場所は、私の体温を奪っていく。寒い。でも昔、ここは熱気であふれていた。夢も希望もある、学生や教師で一杯だった。それが今は、誰もいない。空気を暖める、人の体のぬくもりはどこにもない。
私は、気を取り直してさらに中へ進み懐かしい校舎の中に入る。
夕日が差し込む無人の教室に入ると、私が今生きている日常とは違う匂いがした。ここには、思い出だけでない、今、あの過去が存在しているような違和感さえあった。その感覚に浸る事はどこか時間の狭間に引き込まれ抜け出せなくなるようで怖かった。
怖い?
引き込まれることが?
本当に?私は何が怖いのか、と自らに問う。
私は、何を恐れることが有るだろうか。もう私には失うものは無い。そんな時間の狭間もあの世も存在しないのだ。ただ、冷たく現実があるだけなのだ。それに友との約束の場所は、まだ先だ。先へ進もう…。
実験管理室、関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉の前に立つ。私は直ぐに中にはいることはできなかった。なぜ躊躇してしまうのだ。もう逃げられないのに、でもその躊躇はきっと自然な行動だと私は思った。逃げたいわけではない。あまりのもこの中で起きた出来事が大きすぎたからだ。一つ大きく息を吸い込む。忘れかけていた懐かしい匂いに包み込まれる。意を決して、目の前の扉の中に入る。懐かしい匂いはさらに増幅されて私の感覚器官を刺激する。
私は、記憶と何かの意志に導かれながら奥に進む。かすかな記憶を頼りながら。みかけは、多少変わっているが、目的の位置は、間違えないだろう。私は、もう何年も動かされていないベッドを押し下げた。
埃にまみれたその床は、汚れだけで何も無さそうだったが、私は手でその汚れを落とした。何故か私の心臓は早鐘を打っていた。埃が取れていくに連れて何か傷のような物が見えて来た。
あった。
私と彼の名が傘をさしている、ささやかだが、ぬくもりのある、傷痕だった。
「ようへい…、ただいま」
確かに私たちは、ここで存在したのだ。
夕陽に輝く私の瞳の涙は、無数の喜びと悲しみを含んでその印にしたたった。
第1章
(1)
はるひな?
高久洋平は、その妙な単語にはっとした。春のせいか、新学期にもかかわらず、ぼうっとした頭に、妙にひびく言葉だった。聞き間違いかと思ったがその妙な言葉は、間違いでは無さそうだった。
電子黒板には、伊勢崎晴陽奈と書かれていた。その前には、白衣を着た女の教師らしき人物が立っていた。
「妙な名前は気にしないで。どうせ聞かれるから言うけど。私の父と母が…、あ、父って言うのは、これも聞かれる前に言うけど、初のノーベル地球学賞を貰った伊勢崎教授だからね。二度と聞いちゃだめよ。七光りって言うのもNGワードだから。それと、私の妙な名前はその父と母が、はるひさとひな子で妥協したらしくて、私に責任はないの」
さらにその伊勢崎という教師は続けていった。
「それから、わたしの研究は放射化学だからね。教える科目は、ズバリ!科学カテゴリーⅢの生物医学だからよろしく。お坊ちゃんお嬢様高校でも容赦しないから」
その言い方は、寝ぼけた頭にかちんと来て、高久洋平は、目が覚めた。過去の教育実習生や腰の弱い教師を思い出して、腹が立った。
洋平は、『国は、高等教育の高レベル化を図るために、一部の高校において地元国立大学の研究の一部を担う機関運営を試行することになった。ついては当高校の2年次からその研究担当者が副担任になる』ことを、1年の年度末に訊いたことを、洋平は思いだしていた。また得体のしれない教育実習生の類ではないのか?もしそうなら、大迷惑な話である。学校や俺たちは、かれらのキャリアのための腰掛けじゃない。
そう思った洋平は、我慢できず、声を発した。
「七光りなんかそんな自慢になりませんよ。伊勢崎先生。この学校には、大臣の政治家や科学者とか大小説家とかの息子・娘が沢山います」
晴陽奈は、洋平のほうを見ると、顔色を変えずに言った。
「自慢しようとしているわけじゃ無いのよ。個別に聞かれるのが面倒臭いだけだから、勘違いしないでね。父がノーベル賞なんか貰わなければ、名前だけの自己紹介だったのよ」
洋平は、また言うか、と思った。所詮これで有名人ということを知らしめることができたわけだ。確かにぼっちゃんの多い学校だが、あんたには、それで有利になるんだろうさ…。そんなことを思うと、もう一言言いたくなった。
「大丈夫ですよ。そんなこと誰も気にしませんから。僕らにとって役に立つかどうかですからね。受験で有名校に受からせて貰えばまあ、問題ないです」
「あら、その言い方、高校生のくせに夢がないわね、まあいいわ。他に質問はある?」
晴陽奈はそう言って周りを見渡した。概ね優等生が多いこのクラスではそれ以上の質問は出なかった。洋平は晴陽奈の態度に苛立ったがそれ以上は口に出すのをやめた。ホームルーム的なものが終わると早速友人がやって来た。
「おいお前、バカだな。早速、要注意人物じゃあないか。これからやりにくくなるぞ」
「そんな事あるもんか。ああ言うちゃらちゃらした、にわか教師は大嫌いなんだ。去年はだまっていたが、今年ははっきり言ってやらないとな」
「おい、お前らしくないな。はあぁこれから大変だぞ。気の毒だな」
「ところで去年ってのは、教育実習生のことだろう。あの先生、モテモテだったよな」
「お前らのそういう態度もバカなんだ。あの実習生、完全に勘違いしていったぞ。私は教師に向いているってな。まあ、お前らが彼女の人生を狂わせたんだ。その罪は重い!」
「何を言ってるんだ。洋平、お前も仲間に入りたかったんだろう。遠くから羨ましそうにみていたのは知ってるんだぞ。相手にされなかったからって僻むなよ」
「バカなこと言うなよ。お前も全くお目出度いね。人が減るとバカばっかり残って困るよ。」
「お前もその一人だけどな」
「それは、違いない」
「ははは!」
洋平と友人は声を出して笑った。校舎の窓の外には、新緑の緑の葉が芽を出している。 春、始まりはそこかしこにあった。そしてそれは少しづつ収束していることに、誰が気づいていただろうか。
いつもの1年が始まろうとしていた。
(2)
高校の中に大学の職員が入るのには、見かけ上は国の政策であったが、単純に高等教育のレベルアップだけではない、裏の理由があった。その理由について、人々が真実を知るのは、もう少し先のことになる。
その発端は、約二十年前にさかのぼる。小さなニュースがネットをにぎわした。小型の衛星が落下の可能性なのだが、その持ち主が不明であるという不思議な情報であった。結局、数か月後、各国天文台の予測通り、派手な火の玉をちらしながら中央アジアの草原に落下した。数か月で誰もが忘れるニュースであった。その十年後、誰もがその落下を完全に忘れた頃、同じ地域で、やはり小さな異変として、あるニュースが報じられていた。小さな村落が、風邪に似た感染症により村が壊滅したのである。WHOには報告がなされたが、それとて歴史上では珍しいことではなく、完全にグローバル化された社会では小さな異変でしかなかった。その事件も次第に忘れさられていった。
その感染症は、自らを保身しながら人の命を奪うことに関して天才的であった。時には集団で、時には単独の病としてひっそり人の命を奪って行った。その感染症の手口は、どんな科学者にも気づかれず、ひっそり進行することに成功した。
衛星の落下が報じられた四十年後、ついに世界の人口は現象に転ずる原因になっていた。当時、各国政府や国連機関は、地球規模の政策が実ったと自画自賛したが、それはただの数値上の話であり、実際にその減少の仕組みは少しばかり奇妙であった。社会科学者にしても減少傾向が不自然なものであることに、気づくまでさらに5年が必要であった。そして、衛星の落下から五十年後、科学者や政治関係者は、異常な致死率の類似した集団風邪との関係に気付き始めた。
その時の世界人口は二十億人でさらに少しづつ減っていた。先進国では、それでもまだある程度の人口の収支を保たれていた。しかしながら、小さな社会を目指す地球規模の統一政策により、出生率は極めて抑えられていたため、いざ減少傾向になると食い止めることは困難であった。例えば、日本では七千万人で継続していたが、謎の感染症が爆発してからは、5年間で五千万人を切ることになっていた。1年あたり、百万人の人々がそれぞれ、さまざまな理由で亡くなっていた。そのほとんどは、謎の感染症が原因であったが、その感染症は、ほかの病気に隠れながら、なかなか正体を現すことがなかったのだ。ある時は集団で、ある時は単独で死が訪れていた。
しかし政府や国連機関は、感染症について公表することを恐れた。原因らしい感染症のことを発表するには、科学的根拠が少なかったし、自らアピールしてきた「小さくて住みやすい世界」は実現しつつあったからだ。それに、世界的には、まだまだ人口減少は、緩やかであり、一般の市民生活には違和感がなく時間は進んでいた。日本では、大学高校の再編が進められていた。表向きは高校教育の高度化であるとともに、科学技術の飛躍的な発展のために、早期な専門技術の習得を目指していた。しかし実際は少子化による研究機関の低迷を防ぐのが真の目的であった。人類が生き抜くには特に科学部門で開発を行わなければ人類は継続不能であるとさえ言えた。
しかしながら、21世紀の経済重視の風潮は科学に対する興味を失わせ、科学技術の深刻な人手不足を招いていた。投資に関する知識が豊富でも、物を作る技術が充実しなければ経済が動くはずは無かった。世の中には優秀なマネジメントの教育を受けた人間が溢れたが、彼らは、手足を動かすことを知らなかった。石を投げれば評論家か、高度なマネジメント管理者に当たると言われた。お金の運用が上手にできても技術がなければ科学は発展しないことにやっと気が付いたのだ。政府は慌てて理科系教育を重視したが、慢性的少子化赤字経営への恐れから理科系教師はほとんどわずかしかいなかった。そして、暫定的処置として大学研究機関の高校への付属が試みられたのであった。洋平のいる都立高校もともと理科系大学の付属高校だったこともありはその処置から5年が経ち本格運用の第一弾とされていた。
(3)
洋平のいるクラスは、科学専門コースでいわゆる理科系であった。理科系・文科系は基本的に生徒が選ぶことになっているが、それまでの成績から統計的に何の専門が向いているかの判定が出て、それと自らの好きなコースを選ぶことになっている。洋平は、もともと外国文学などが好きだったのだが、理科系の成績がよく、前年の主担任にも誘われて、2年次に科学コースを選んだのである。洋平は、科学が嫌いなわけではなかったが、なんとなく冷たいとか、泥臭い印象があり、あまり科学系の仕事に就きたいとは考えていなかった。
そういう考えは、副担任である伊勢崎に対して、すっきりしない印象に加勢した。今年から大学並みの研究講座が併設されることは昨年から知らされていたが、どの学生もイメージが湧かなかった。それが3年次の大学受験にどうかかわるかを心配する者もいれば、洋平のように、ただ使われるだけじゃないのかと、反骨心を抱く者もいた。
晴陽奈の最初の授業の時のことを洋平はよく覚えている。専門用語が並び、理論はどんなに丁寧に説明されても、難しかった。洋平には、この妙な教師が、わざとやっていると思えて仕方なかった。要するに自分の知識を満足げに披露して、わからないところを妙に親切にする。洋平には、その考えを、自分はゲスなやつだとすることで、考えないようにしていたが、科学が比較的得意な教科にしている洋平でも、理解はおぼつかなかった。そんな授業が3回も繰り返されると、教室には閉塞感が漂っていた。その3回目の授業が終わったあと、洋平と友人の智明は、伊勢崎に昼食後の談話室で話しかけられた。
「あ、うちのクラスの高久君と矢野君じゃない。どうかな、私の化学の授業?新学期が始まって3回目の授業だけど、少しは理解しつつあるかな?」
洋平と矢野智明は、一瞬顔を見合わせた。晴陽奈の話し方は、自分たちの直面しているお手上げ感と理解していないようであった。この人は本気で言っているのだろうか。智明がおずおずと、口を開く前に、洋平は晴陽奈に向かった。智明はおっとりしたタイプで、この手の論争は普段参加しない。当然洋平が晴陽奈と立ち向かわざるを得なかった。
「わかるわけないでしょう。あれは、いったい何のための授業なんです。」
「ううん、やはり難しいか。君たちならそろそろ飲み込みつつあると思っていたんだけどな。」
晴陽奈はそういったが、洋平は、ストレートにバカにしていると受け止めた。できの悪い教育実習生も真っ青だ。それでもまだ、バカと言わずに、アホと言える余裕があった。
「アホで悪かったですね。そういういい方しますかね。自分は悪くないのかよ、なあ。」そう言って洋平は智明のほうを向いた。智明は、そんなやばいことを言うなよ、という焦った顔をしている。
「あ、ごめん、そういう意味じゃないの。あなたたちみたいな金の卵を育てるのは、特にこの専門の授業については、英才教育にする方針なの」
金の卵だって?洋平は、からかうのもいい加減にしてほしいと思った。
「金の卵が一個見つかれば、あとは知らんぷりですか」
「そうじゃないよ。でもあなたたちを期待して言っているつもりなの」
「確かに、おだてやすいのもいますけど、みんなそうなわけじゃない。特に俺みたいな筋金入りのアホは、そんなことまでわかりませんよ」
「こだわるわね。はっきり言っておくけど、あなたたちをアホだとは思っていないわよ」
「今頃遅いでしょう。まあ、ほとんどついていけてませんよ。僕とアホ友だけかもしれませんけどね。なるほど、先生の教えたかは完璧だから、僕らがついてこなければアホだというわけですか。こりゃわかりやすい理論だ。間違っても自分の教え方が悪いとは思わないらしい」
「そんなこと考えてないよ。教える方だって苦労してるのよ。横道にそれてわかりにくいかもしれないけど、それは必要なことだから、横道にそれているのよ」
「それなら、横道をわかりやすいように、まず説明すべきでしょ」
「そうなんだけど、そうしている時間もあまりないのよ。ほかの先生ともそれはよく相談しているのよ。」
こればかりは、晴陽奈は困った顔をしていった。
「ただ、自分の研究成果を上げたいだけじゃないの」
「ちょっと、そんなこと言うかな。さすがに腹が立つわね」
さすがに晴陽奈はむっとした顔をする。
「じゃあ、ゆっくりやればいいでしょう。そこでお手並み拝見しますよ」
「そうもいかない、事情があるのよ」
「やはり自分の研究が大事じゃないんですか。」
「そりゃ研究は大事よ。世界の医療にも役に立つわ。」
「本当ですかね。何に役立つんです。」
それはもちろん…、何かを言いかけて、晴陽奈は意外にも口ごもった。
「それは。放射化学はDNAの解析や病気の仕組みを解読できるわ。」
「何を口ごもってるんです、やはり怪しいな。」
「そんなことないわよ。少し、今の段階では、言えないこともあるの。」
「本当ですか。それでノーベル賞を貰おうってんですね。ちゃんとうちの学校の人間に手伝わせて、大学に受からなかったが、彼らの人生は幸せだった、とでも言うんですね。」
「ちょっと!それは言いすぎでしょう。」
晴陽奈は、今度こそ頭に来たようだった。それを察したか、智明がたしなめた。
「ちょっと!洋平、もうやめとけよ」
うるさいな、と洋平は友人を遮った。
「大体、授業を完ぺきにして、そのうえで、夜なべでもして研究するのが筋でしょう。ここは義務教育ではなくても、高校ですよ」
「古臭い考え方じゃない。専門教育が前倒しになると考えれば、科学の最先端の技術を学ぶことができるのよ。どうしてそう受験受験にこだわるのかな」
それは智明もそう思った。クラスの中には確かに七光りや大学受験を目標のみで学校に来ている奴はたくさんいる。しかし洋平はそういう連中とは別だった。勉強が苦手というわけでもないし、なぜこれだけ依怙地になるのか、よくわからなかった。
しかし洋平は、さらに続けた。
「いいですか、僕が言いたいのは、教育実習生やあなたみたいな研究者が、当たり前のように犠牲を要求するのが嫌なんですよ。それにちょっと学生にチヤホヤされてその気になって」
「はあ? チヤホヤなんてされてないわよ。それに、教育実習生と一緒にしないでよ、それ、何の話?」
「同じようなものでしょう、本腰が入らないのは」
「本腰が入らない、ですって?あなた、ちょっと言い方に気をつけなさいよ」
洋平はいつの間にか智明が消えているのにも気づかず、興奮しつつあった。
「研究や実習ばかりで、こちらのことは二の次でしょう? この前も、授業に遅れてきたでしょうが」
「そんなことはないわよ。あれは、単なる遅刻だってば。それにちゃんと副担としての仕事はこなしているわよ。どうしても、教育実習生にこだわるわね。私はちゃんと教員免許も持ってるのよ。前の大学だってちゃんと授業してたし。それは西山田先生も同じよ。いったい私たち? 私? の何が不満なの?」
「先生なら、授業や学生のすべてに見通しがきくようにすべきでしょう。研究なんて時間はないと思うし、ましてや教師にならないくせに実習に来るやつらは、すべてが学校に費やされていないと思う」
「そう。それは一理あるように思えるかもしれないけど、少し間違ってる。間違ってるというか…、そうね。理想と現実の区別ができていない」
「ほら!すぐそうやって、偉い先生は、理想論は否定しようとするんだ。」
「違うよ。机上の空論と現場の違いってところかな」
「机上?机上の空論は先生方の得意技じゃあないですか」
「逆よ、あなたの言ってる理想の教師ってのが机上なの」
「そんなことはないでしょう。大事なことでしょう」
「そうだよ。それと、教育実習生と何かあったの? そっちのが私は心配だな」
「それは今関係ないでしょうが!」
口ごもっているときに、智明が誰かを連れてきた。連れてきたのは、洋平のクラスの主担任である賀名生悠子だった。
「ちょっと~ちょっと、待ってください。二人とも」
賀名生悠子は、背が低くやや天然系で、すこしとぼけた口調が特徴である。話を聞くのがうまく、誠実である。一昔前の学校であればなめられたのであろうが、今の時代は、もっとも貴重な人材であった。
悠子は、急いで走ってきたらしく、息を切らしていた。
「あの、二人とも何があったのか聞かせてください。ちゃんと、私が聞きますから…はぁ」
その真剣な様子は、二人の言い争いに水を差した。洋平は思ったほど晴陽菜が熱くなってこないことが腹立たしかった。しかしながら洋平自身も教育実習生との嫌な思いに関する話では、言いたくないこともあったので、まずい雲行になりそうだと思っていた。その点で、賀名生悠子の登場には少しほっとして、気を取り直して言った。
「賀名生先生に言いたいことは別にありませんよ」
「あら。私にだけ何か言いたいの!? 教師全体が嫌いなんじゃないの?」
晴陽奈はすかさず言った。洋平は、わかって言っていやあがる、全くいやな女だ!と思った。洋平はむすっとして言った。
「いや、一般論です。特にみんなを前にして言う事でもないし」
「ちょっとお、この扱いの違いは何かなあ」
晴陽奈がこの一連の騒動で一番不機嫌そうな声を出した。
悠子はそれには反応せずに、「そうですか…。先生たちに何か不満があるなら、大事なことです、今言えなくても、あとで落ち着いたら話してくれればいいですから。」と言った。こちらの肩を持ってくれようとする。相変わらずいい人だ、と洋平は思った。
「はいはい、あとで、賀名生先生に泣きつきなさい。まぁ、でもあなたに一理もないとは、私も思ってないのよ」
晴陽奈はそんな風に言ったが、洋平はそれを聞いてすかさず言った。
「嘘だ! 丸め込もうとしてる!」
それを聞いて、晴陽奈は、やれやれという顔で小さくため息をついた。
「む~、噛みついてくるわね。あとで自分がしていることや、言ったことを深く反芻なさい。それ、誰が正しかろうと、間違っていようと、大事よ。私だってこの会話は不快だよ」
そういって晴陽奈は、立ち去った。
洋平は、ちょっと待てよ、と言おうとしたが、智明に止められた。
「お前が、賀名生先生を呼んだのか」
「そうだよ、感謝してくれよ。まったくお前、新学期から変わったぞ」
「そんなことあるか」
それを見て、賀名生悠子は心配そうに言った。
「うん、私も少し今までとは違うと思いますよ。何かあったのですか?」
「いや、何もないですってば、まあいいですよ」
洋平は、もう話を逸らさないといけないと思った。なぜか教育論争は、賀名生悠子とはする気にならなかった。それはなぜか、洋平にはよくわからなかった。
「本当にいいんです。すみませんでした」
そういって、ぺこりと頭を下げた。
悠子は、わかりました、といいながらも、しっかりした口調でこういった。「研究講座制度は、確かにまだ一年目で、みんなに説明しきれていない部分があります。その点は本当に申し訳ないわ。でもね、今、だれもどうやっていいのか解らないのですよ。手探り状態なの。そんな中で、伊勢崎先生やもう一つの研究室を受け持つ西山田先生は、大きな役目が与えられているわ。これからの小さい社会での科学技術の構築方法とか、医療分野の貢献方法とかね。だから、もう少し、長い目で見てあげてください」
洋平は、もういいんです、といって悠子の話を遮った。そんな話は聞きたくなかった。みんな何かを抱えて生きているんだ。誰かだけに優先していいことがあるもんか。