優しい月夜
速水は先に露天風呂に行っている。西森は泊めてもらっている部屋に入ってほっと一息ついた。
速水が帰ってくるまで、どうしても先に寛ぐ気になれず旅館のロビーにいた。部屋の机の上には今日の朝、正宗に見てもらった西森の花籠がある。花籠を届けた時にどこで聞いたのか正宗が嬉しそうに話しかけてきた。ウキウキとした正宗は珍しくて、どうしたんですか?と尋ねる西森を優しく微笑んで、少し楽しげな目を向けた。
「今日はこのまま旅館に泊まりなさい。速水くんにも連絡しといたんじゃ!」
驚いて目を見開いた西森をからかうように口元をにんまりと緩ませている。頬が熱いなと思っていたら顔全体が真っ赤になっていたらしい。純情じゃのう。感心したように今度はしげしげと見つめてきた。
「と、とと。。い、いえ。明日も花籠を作りたいですから。今日もこれから花畑を回ります」
秋の涼やかな風が窓から流れてくる。気持ちいい冷たさが西森の頬を撫でていった。心地よい風のお陰でなんとか自分を取り戻し、西森がようやく口を開ける。速水が帰ってくるのは嬉しいが、周りから言われるのは照れ臭い。先程アキラからも言われたばかりだ。
「何を野暮なことを。わしからの好意はありがたく受け取っておくものじゃ。さあ、来なさい!一週間ぶりじゃ!迎えるにはいろいろと準備があるじゃろ。女将にも言うとるから」
慌てて逃げようとした西森の腕をがっしりと掴む。正宗は昔から武道をやっているので力は強い。あっという間に旅館の中に引き込まれた。
どんどん先に進んでいく正宗に引っ張られ、すれ違う仲居や板前に挨拶をし混乱したまま歩いていく。途中で女将にも出会った。戸惑う西森には気にせず女将はふんわりと優しく笑っている。
「良かったわぁ!西森くん、いらっしゃい。さすが、お義父さんね」
女将の優しい笑顔は西森も大好きでいつも心が安らいだ。でも、今日は違う。なぜか背中に嫌な汗が流れていく。今すぐにでも逃げ出したい。女将は西森にとっても母親のような存在なので正宗同様気恥ずかしかった。
「まずは、お風呂ね。それから、後で着替えを持っていくから。そうそう。露天風呂ではなくて部屋のお風呂に入ってね。それじゃあ、お義父さん、西森くんをよろしくお願いします」
女将に、もちろんじゃ!と快活に答えて部屋へと連れていく。何か言おうとしたがものすごい力で引っ張られた。穏やかな笑顔が遠ざかっていく。もう諦めるしかないのか。。西森はぐったりと項垂れた。
正宗に案内された部屋は奥のこじんまりとした二人用の部屋だった。大きな和室と専用の露天風呂が備わっていて、よく有名人のお忍びで使われている部屋だ。美しい掛け軸も、控えめに生けられた花もとても上品で落ち着く。無駄のないたおやかな秋の花が西森を迎えた。
「綺麗だなぁ。。」
正宗に連れてこられたことを忘れて思わず花へと近づく。女将は花を引き立てて生けるのが上手い。本来の花の美しさがそこにはあった。自然の中で咲く花ばかりを見てきたが、女将の手によって真心や思いやりも加わり客を出迎えている。花の心と人の心が一つになったような、温かな美しさだった。
「この花は知っておるな。桔梗じゃ。裏の奥にな。たくさん咲いておった。西森くんが教えてくれた花畑じゃ。まるで速水くんが帰ってくるのをわかっとるようじゃのう」
美しい桔梗の花。そっと触れると柔らかな花がかすかに揺れる。桔梗の花言葉を思い出して、西森は思わずドキマキとした。気分が高まっているのはわかるが、少し浮かれすぎている。溢れてきた想いを無理矢理心の中に押し込めた。
花言葉はなんじゃったかのう?首を傾げる正宗になんと言っていいのかわからない。聞こえないふりをしてわざと花籠の話に切り替えた。正宗は嬉しそうに笑っている。
しばらく正宗と話をしていると、仲居がやって来て正宗を呼ぶ。どうやら助かったようだ。気づかれないように息を吐いて、出ていく正宗を見送った。
「何もかも。。出来すぎなんだよ。みんなに知られてるっていうのも、なかなか大変なんだな」
速水が大きな露天風呂に行ってくれて良かった。西森はすぐそばにある部屋専用の露天風呂に行く。そこには美しい薔薇の花がたくさん浮かんでいて、月の光に照らされとても美しい。でも、今の西森には目に毒だった。
速水から指輪をしてもらった時、強く抱き締められた時。自分でも考えられないほど鼓動が激しく脈打ち、体が熱くなった。これで速水がこの露天風呂に入って出てきたら自分はもう熱さで蒸発してしまうかもしれない。しかも、速水はこの頃やけに花言葉にも詳しくなった。桔梗の花言葉なんてすぐにわかる。この小さな露天風呂が速水に気づかれないでよかった。
「はぁ。。もう。。速水さんとは春から暮らしてるんだし。今更、恥ずかしがることもないじゃないか。でも、なぁ。この露天風呂は。。」
少々、ロマンチック過ぎる。女将のセンスはとても素晴らしいが、夜には夜の不思議な雰囲気があった。月の光が美しい。煌めく波はとても滑らかそうだ。昼間入った時には全く感じなかった。
さらさらと流れるお湯をじっと見つめる。揺れる水面の上から柔らかな湯気が溢れていてとても気持ち良さそうだ。もう一度、入りたくなってきた。西森はしばらく考えた後、部屋へと戻り携帯を取り出す。速水が露天風呂へと出ていってからあまり時間は経っていない。入るなら早めがいい。西森は準備をして素早く服を脱いだ。
体にかかるお湯が心地よい。体がゆっくりと解れていく。全体を包み込む温もりに西森は力を抜いて身を委ねた。水面の薔薇から甘い優しい香りが漂う。寄り添ってきた薔薇に軽く顔を寄せる。両手ですくって大切に包み込んだ。
「優しい甘い香り。薔薇は秋に咲くんだよね。春のイメージだったから、初めは驚いたなぁ」
春は華やかな印象が強い。牡丹や桜など暖色系の花も多く種類も多い。だから、薔薇も春の花だと思っていた。暑い夏をくくり抜けて涼しくなった秋に咲くなんて。浮かんでいるたくさんの薔薇を西森は優しく見つめた。
「。。。。」
たくさんの薔薇が西森の方へと集まっている。美しい花に注意が向いて、やって来た人物に気づかなかった。急に水面が大きく揺れて薔薇も大きく揺れている。
「あ!は、速水さん!!どうして!?」
はっと顔を上げた先に速水の姿があった。その顔は少し不機嫌そうで西森はばつが悪い。速水の言いたいことがわかったから、先に口を開く。たくさんの薔薇で顔を隠すように温泉の中に埋もれた。水面ぎりぎりに顔まで浸かれば速水が笑った気配がした。
「だ、だって、速水さん。大きい露天風呂が良いだろうと思って。。いつも向こうの露天風呂に行くじゃないですか。だから、今日も。。」
ぶつぶつと呟く西森に速水がゆっくりと近づいていく。西森はさりげなく体を移動した。逃げるように遠ざかる西森を速水は何も言わずに追いかける。温泉が大きく煌めいた。
「知らなかったんだよ。個人用の露天風呂があるって。。。こら!西森、顔を見せろ!わかりやすく逃げるんじゃない」
急いで移動すればせっかくの美しい薔薇が壊れてしまうかもしれない。速水もわかっているからこそ激しく追いかけてはこなかった。優しいなと思いながらも西森は逃げる。速水に捕まりたくはない。照れなのか何なのか。とりあえず自分の気持ちが落ち着くまで速水には待ってもらいたい。こっそりスピードを上げて西森は逃げる。速水も素早く追いかける。何度か静かな追いかけっこをした後、速水が西森をじっと見つめた。速水の真剣な目が西森を捉える。西森も負けじと見つめ返す。温泉の流れる音だけが辺りに響いた。真っ直ぐな視線がふと柔らかくなる。やがて速水はゆっくりと岩にもたれ掛かった。諦めたようだ。大きなため息が聞こえた。
「西森。。お前って、ほんと面白い奴だな。部屋の露天風呂があるって雅也が教えてくれたんだぞ?俺が風呂に入るんだって言ったら、西森と一緒に入らないのかって」
健気な奴だ。上を見上げて速水はのんびりと告げた。雅也を思い出しているのか、優しく微笑んでいる。西森は大人しく速水の声を聞いていた。電話とは違う声。柔らかくて温かい優しい声。近くでやっと聞くことができるのに、そわそわして落ち着かない。温泉に口まで隠して西森はじっとしている。薔薇で隠された西森を速水は可笑しそうに笑っていた。どうやら照れが伝わったようだ。不機嫌だった顔は姿を消して、優しく穏やかな笑顔がある。西森はまた顔が熱くなり逃げるように遠ざかった。
「おーい!西森。そうしてるとのぼせるぞ。まあ、その時は遠慮なく連れていくけどな」
速水は長期戦に持ち込むつもりらしい。西森は思いきり顔をしかめた。そんな顔をしても駄目だからな。楽しげに笑う速水が憎らしい。軽く横目で睨むと肩をすくませて温泉にゆったりと浸かっている。顔にかかる薔薇の花がくすぐったい。西森は少しずつ温泉から体を上げた。
「聞きたいことがあります」
強めに言って速水の方を向く。速水は何事もなかったかのように温泉を楽しんでいる。西森はムッとした。
「速水さんの指輪はないんですか?つけてほしいんですけど!」
こっちはあたふたと慌てているのに速水は悠然と寛いでいる。憎たらしい。語尾を強く言って速水を睨み付けた。自分の指には輝くものがあるのに速水にはない。不釣り合いなようで嫌だ。速水からつけてもらった後、聞こうと思ったのに優しい笑顔につい嬉しくなって負けてしまった。今度は誤魔化されないぞ。強い視線を向けた西森に、ないぞと速水は事も無げに呟く。西森はまた顔をしかめて速水を睨んだ。
「ないもんはないよ。お前だけに作ったんだから。俺のは必要ないだろうが」
嫌だ。西森は口に出さず思いっきり速水を睨む。困ったように頬を掻いて西森から視線を外した。暑くなったのか温泉から体を上げて岩に腰かけている。西森は恥ずかしくなってそっぽを向いた。
「お前がつけておけばいいかなって。。うーん。そんなに怒るとはなぁ。」
速水はわかっていない。やっぱりペアの指輪をしたいじゃないか!西森は心の叫びを目に込めて速水をさらに強く睨む。速水が少し怯んだように見えた。速水は本当に西森の気持ちがわからないようだ。西森に指輪を贈ったことに満足している。それが西森の苛立ちに拍車をかける。珍しく睨み続ける西森の視線を苦笑しながら受け止めた。
「わかったよ。自分のを作る気にならないから、今度買ってくる。一人で買いに行くのもな。。」
突然楽しげに微笑んだ速水を西森は胡散臭そうに見つめながら何だろうと耳を傾けた。速水は自分がどんなに魅力的かわかっていないのだろうか。西森はため息をつきたくなった。指輪をはめてくれればこの心配が幾分かは静まるのに。恨めしそうに見つめる西森に速水はゆっくりと近づく。もう心が落ち着いていて、速水が来ても怖くない。西森は大人しくしていた。
「なぁ、西森。今度の休みに都会へ遊びに行かないか?その時に指輪を買おう。お前が選んでくれよ」
いい案だとにこにこ笑う速水に西森はきょとんした。都会へ?速水と?休み?西森の頭にはたくさんの?が飛び交い、呆然とした。速水とどこかに行ったことはない。いつもこの田舎町でのんびりと散歩を楽しむか、花畑を探す西森に速水が寄り添うかばかりだった。只でさえ休みの少ない速水に無理をさせてはいけないと西森はいつも気を使っていた。遊びに行っても大丈夫なのだろうか。西森の声が伝わったのか速水は嬉しそうに笑っている。西森を見下ろしながら優しく頭を撫でた。
「今回の出張の代わりに休みを二日貰ったんだよ。西森。都会に行くぞ。見たい所を考えておけよ。まずは、指輪だな」
柔らかく笑う速水は格好いい。いや、どんな速水だって好きだ。胸が熱くなって優しい気持ちになる。まだ呆然としている西森を速水は優しく微笑んで何度も頭を撫でた。
皆様こんにちは(*^^*)いかがお過ごしでしょうか?
雨ですねぇ。雷ゴロゴロです。雷が鳴っているとファイナルファンタジーのラムウを思い出します。杖の先から電撃が走る~!召喚魔法、格好いいです。
ではでは皆様これからも素敵な時間をお過ごしくださいね(*^^*)