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雪と春  作者: haru
照らせない星
6/9

保志野 -3-

 「お客さん、そんな大荷物持ってグラバー園なんか行くんですか?何かあるんです?」

 言葉と共にバックミラー越しに投げかけられる視線を無視し、保志野は窓越しに見える景色に目を遣る。アスファルトには、前方の道路のアスファルトには逃げ水が映っている。保志野の脳裏には、仕事時代の事が浮かんで来た。

 保志野と春太はCMSの同期だった。CMSは「一定以上の学歴の学生をターゲットに、夏位から採用を行う」という一風変わった新卒採用を行っており、そこで採用されたメンバーはどこか風変わりな社員が多かった。それが、深夜までの作業が当たり前とされている制作会社の劣悪な業務環境やCMS自体の経営難と相俟って、春太が「動物園」と揶揄していた異様な空間を作り出していた。

 同期の東大卒の男は、自身の愛社精神の高さや仕事への熱意を24時過ぎに熱弁した翌朝から会社に来なくなった。ある後輩社員が、自分の辞職時の話し合いでの上司からの罵倒をICレコーダーで録音してSNS上に拡散する一方、会社は会社で辞職した社員に謂われない難癖をつけ、1200万円もの損害賠償請求を行っていた。保志野が朝、銀行からの自動音声電話を取った際には、「風見さんから800万円の入金です」というアナウンスが流れた。風見はCMSの幹部の名前であった。そんな中で、保志野と春太は多くの社員が辞めていくのを見送りながら、共に働いていたのであった。

 保志野と春太が入社して3年目、6月の事だった。会社で事件が起こった。保志野のPCから、沢山のメールが誤送信されたのである。それは結局保志野の誤送信、ということになったのであるが、責任者が客先(独立行政法人の一つだった)に顛末を説明しなければいけない段になると、その責を負おうとする幹部は居なかった。幹部連中は、保志野にセクハラかパワハラでしかないような雑言を投げかけるばかりで、誰も責任を取ろうとはしなかったのである。

 そんな中で、責任者として名乗り出たのが春太であった。年齢、肩書きからすれば本来であれば春太が行うべきものではなかったが、幹部連中は諸手を挙げてその申し出を迎え入れた。春太は状況を整理すると、保志野と共に客先へと向かった。

 春太と保志野の二人は、虎ノ門駅を下車し、幾つかの坂を上がったり下りたりして、客先へと向かっている。保志野は前方を歩く春太を視界の端に入れながら、アスファルトに映る逃げ水を眺めていた。

 「今回は面倒くさい事になったね」春太が言った。

 「ごめんね、チームも違うのに迷惑かけて…」保志野が返す。

 「え、別に保志野さんのせいじゃ無いよ。善田でしょ」

 保志野は黙っていた。善田は、二人の同期社員で、所謂男好きのする顔立ち、体つきの女性であった。同期7人のうちで一番仕事をせず、上手く上司に取り入る事で立ち回っているような女性であった。

 「まぁ、善田からしたら保志野さんは目障りかもね」春太が続けた。

 「そんな事……私は別に善田さんの事嫌いじゃないよ」

 「そりゃそうでしょ。ゴミに対して嫌いも何もないよね、可哀想なだけで」

 保志野は自分の胸の内を見透かされたような気がした。思わせぶりな態度を取って男を籠絡しようとする善田よりも、そういった事を極力控えている自分の方に男性社員の心が傾いている事を認識していたのである。

 春太は客先で、頭を下げつつ責任の所在を上手く先方にも持たせるような言葉運びで、状況を終結させた。帰り道で、保志野は春太に言った。

 「今日は本当にありがとう。今度何かお礼させて下さい」

 「え。あなたにそんな事言われると怖いな……」

 「どうして?」

 「だってあなた『も』そういう力のある人でしょ?そんな見え透いた感じでいわれてもな……」春太は立ち止まり、保志野の方を振り向いてそう言った。春太の背中から後光のように漏れてくる夕日のオレンジの光に、保志野は目を細めた。

 保志野は春太が具体的に何の事を指しているのかは分からなかったが、直感していた。ああ、この人は私と同じタイプの人なんだ。持って生まれた力を抑えているつもりでも、他者を圧倒してしまう能力。「弱肉強食」とよくCMSの社長は口にし、力を付けることで強者になるように社員に言っていたが、保志野はそれが本質的に誤っている事に気付いていた。一握りの有能な人間になるよりも、無能な大多数の一員である方が、他者の共感を得られるという意味で物事を進める上でも、人と心を通わせる上でも、圧倒的に優位なのである。

 この一件以来、春太と保志野はプライベートでも逢瀬を重ねるようになった。保志野はその頃の事を思い出すと、自分の頬が少し緩んで来る事に気付いた。しかしすぐにそれは一点に集結し、黒点となって彼女の心を焦がすのである。窓の外のアスファルトには、もう逃げ水は映っていない。

 「お客さん、着きましたよ。5640円…いや、5000円で良いですよ」

 そう言う運転手に薄く笑みを返しつつ、保志野は5640円をトレイに置いた。そして荷物を抱え、グラバー園へ続く階段へと歩を進めた。

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