ボクの奥さん
暑い。それはわかる。だけど……。
「その格好、ボクが帰って来たときは、やめて……」
普段は足なんて出さないのに、何を思ってキミは今日に限ってホットパンツなんてはいているの。もうそれだけで、どうかしちゃいそうなボクがどうかしているんじゃないかって思ってしまう。
「ぶ~」
キミが口を尖らせて、上目遣いでボクを見る。そんなキミが可愛くて、ついギュッと抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。
「とにかく、ボクが帰ったときは足、見えないようにしておいて。じゃないと、押し倒しちゃうから」
玄関で靴を履きながら、ボクは後ろにいるキミに言う。口調がきついのは、理性を保つため。
「は~い」
つまらなさそうにキミが返事をして、靴を履いて振り返ったボクに鞄を渡してくれる。
「でも……」
といって、玄関を出たボクに続いてキミが玄関から出ようとする。そんな姿、ボク以外の人に見せちゃ駄目だよ!!
「ユーコ。今日はここでいいから。ボクが行ったらちゃんと鍵を閉めるんだよ?」
いい? と念を押す。キミはうっかり鍵をかけないまま家の中でゴロゴロしていることがあるから心配だ。
「わかった。アッ君、いってらっしゃい」
不満そうな顔でキミがボクに言う。アヒルのように唇を尖らせているキミが、可愛くて仕方ない。
「いってくるよ」と言って、ボクはどうしても抑え切れなくて、キミのそのとがった唇に軽くキスをした。そしたら、キミがニコッと笑って、「気をつけて」って手を振ってボクを送り出してくれたんだ。
キミが嬉しそうな顔で見送ってくれたことがすごく嬉しくて。そんなこと、今までにだって何度もあったはずだけど、その度にすごく嬉しいって思ってしまう。
今日これから始まる会社での一日も、何とか切り抜けられるような気がするんだ。
「お前、今日、にやけ過ぎ……」
隣の席の竹下さんが、大きなためいきをついてボクにそう言った。
だってね、今朝は何だか幸せな気分だったんだもん。
「そうですか?」
と言いながらも、自分でもにやけているのがわかる。
「お前は、奥さんに一喜一憂しすぎだろ……」
呆れ顔で竹下さんは「はい」と言って書類をボクに手渡した。
「それ、頼むわ」
竹下さんはそう言って、デスクを離れて戻ってこなかった。
竹下さんとボクは、バディを組んで仕事をしている。竹下さんは営業で、ボクはその補佐。内勤で竹下さんのバックアップをするのが仕事。
今日、竹下さん外回りなんて言ってなかったのに……。たまにひょっこり竹下さんは外回りに行って、そのまま直帰することがある。ボクは竹下さんがどこで何をしているのか知っている。ま、できる営業マンの特権なのかもしれないけど。それでも、職権乱用ですよ、って言いたい気持ちが抑えられずに、竹下さんの携帯にメールを送る。すかさず「お前のせい」と返信が届く。
幸せでスミマセン、とボクは心の中でにやけながら竹下さんに謝った。
「ただいま」
玄関を開けて、声をかけても返事がない。返事があることのほうが稀なんだけど……。
リビングダイニングの扉を開けて声をかけようとしたけど、キミの姿がない。
仕事しているのかと思って、キミの部屋を覗いてみたけど、いない。
おかしいな~と思いつつ、着替えるべく寝室のドアを開けたら、キミがベッドの上で大の字で寝ていて、ちょっとビックリした。
寝室にいたことがじゃない。キミが今朝と変わらない格好で、大の字で寝ていたから……。
「ユーコ」
イラットしてボクの声がちょっと大きく、強くなった。これ以上、キミには近づけない。
ゴロンと転がって、キミがボクをうつらまなこで見る。
「あぁ。アッ君、お帰り」
目をこすりながらキミが体を起こす。
「ユーコ。今朝ボクが言ったこと覚えてる?」
首をかしげて、眠そうにボクを見るキミ。暫くキミの時間が止まって、「あっ」とキミから低い声がもれた。
「忘れてた。ハハハ、ごめん」
う~んと伸びをして、キミはベッドの淵に腰掛ける。
「とにかく……」
その足、ボクには目の毒だから、と言いかけたボクを遮って、キミが「お湯沸かしてくるね」と言って、さっとボクの横を通り抜けて、キッチンに向かった。
「もう……」
あのホットパンツ。キミはもしかして、ボクに何か言ってもらいたいの? それとも、ボクのこと誘っているわけ? じゃなかったら、ボクのことなんてやっぱり気にもならないってこと?
なんだかよくわからないキミのことを考えつつ、ボクはサッと着替えて、キッチンに向かった。
今日の夕飯はそうめんだ。暑いから、キミが何も食べなくなって……。でもキミはそうめんが嫌いだって知ってる。死ぬほど食べたから、もう食べたくないんだって。
それでも、何とかキミに生きてこの夏を乗り切って欲しいから、少しでものど越しがいいそうめんを食べさせることにしたんだ。
冷蔵庫を開けて、ボクは「あれ?」っともらした。確かめんつゆ、もうなかったはずだけど……? ここにあるめんつゆは何?
「ユーコ。めんつゆ、作ったの?」
乾燥そうめんを探しているキミをみる。何だかモゾモゾと探しているのが、可愛い。下の戸棚の中を探しているキミに「そっちじゃなくて、こっち」と、上の戸棚を開けてそうめんを取り出す。
「そこか~」と言って、キミがニコッと笑ってボクを見る。
「で、めんつゆ」とボクが言うと「そうそう。今日作ったの」と言ってキミが立ち上がる。
「アッ君ほど上手くできているとは思えないけどね」
ヘヘヘと言って、キミはボクの手からそうめんを奪う。
何だかいつもと違うキミに、ボクは戸惑った。夕飯の準備してくれているなんて、おかしくない?
確かに、今日の夕飯はそうめんね、ってメールを送ったのはお昼だけど。キミがめんつゆ足りないな~と思って用意したなんておかしい。むしろ、うっかり全部飲んじゃって、ヤバイと思ったから作った、とか言うなら……、いや、キミはヤバイと思って作るような真似なんてしないよね。
そうめんも、茹でてくれるなんておかしくない? そもそも夕飯は、ボクの仕事でしょ? どうしちゃったの?
不安でキミを見ていたら、何も考えずにキミがなべの中に2袋丸々そうめんを入れたところだった。
「だ~!! ユーコ。そんなに食べないでしょ?!」
焦ってみたところで、入ってしまったものはしょうがない。
もう、とボクはぼやいて「もう、いいからめんつゆ用意して待ってて」とキミに言うと、キミは酷く不満そうな顔をした。
今朝といい、今といい、今日のキミは一体どうしたの?
無言でめんつゆを用意して、キミはおとなしくテーブルで待っていた。不満そうな顔をしつつ。
案の定、そうめんは残ってしまった。仕方ないなと思いながら、冷蔵庫に片付ける。
キミはずっと何だか不満そうな顔をしてテレビを見ている。
「ユーコ」
呼ぶと、「何?」とちょっとだけ笑ってキミがボクのほうを見る。
「どうしたの?」
聞いたとたんにキミの顔が険しくなって「なんでもない」と不機嫌な声を出した。
そうめんだと洗い物が少ない。さっと洗って、お皿やボールは水切りに入れておく。拭いて片付けるのは後回しだ。ボクはキミが気になって仕方ない。
「ユーコ」
ボクがキミの隣に座って、テーブルの上に置いてあるキミの手を握った。
「アッ君」
チラッとキミがボクを見る。
「何?」
キミがチラチラとボクを見るのが気になる。それ以前に、ボクには気になって仕方ないことがあった。
「そのショートパンツ。どうにかならない?」
とにかく、キミの近くにいるんだったら、そのキミの足をどうにかして欲しい。
「アッ君、いや?」
首をかしげて、キミが聞いてくる。
「いやじゃないよ。むしろ好きだけど……」
好きだけど、変な妄想に憑りつかれて、キミの話をちゃんと聞けないことのほうが困る。
「だけど?」
首を右に左に傾けて、キミはボクに答えを促す。
「もう」諦めにも似た呟きをはいて、ボクは無理矢理キミをボクのひざの上に座らせた。このほうが、キミの足が視界に入らないけ幾分かましだ。
ボクのひざの上に座っても、キミはボクの視線よりもまだ低い。
「アッ君?」
ボクを見上げて、キミが不思議そうな顔をする。
「朝言ったじゃない。襲っちゃうよって」
キミの太ももを撫でながら言ったら、キミが「ごめん」と言って俯いた。
ピトッとキミがボクにくっついてきて、「ねぇ、アッ君」とボクを呼んだ。
「何?」
ボクの腕の中にいても、キミは俯いたままだから、キミの表情なんてわからない。ただ、何だかつまらないような困ったような顔をしているんだろうなってことは想像できた。
「私、アッ君の奥さん失格かな?」
「は?」
何を突然言い出したのかと思った。奥さん失格も何もない。そもそも、奥さんに失格も何もないでしょう。
「何それ。ユーコがボクの奥さん失格って?」
「この前、友達とランチに行ったの。その時に言われたの……」
奥さん失格じゃない? って。呟いて、キミがボクの体をギュッと抱きしめる。
「は~? 何それ」
キミが奥さん失格だって言うなら、世の中にはもっとたくさん奥さん失格な人いるでしょう。ボクはそんなこと、キミに言った友達にムッとした。
「だってね……」
ってキミが、友達に言われたことをボクに話してくれた。
キミはずっと家にいるのに、仕事で疲れた旦那に夕飯を作らせているとか、子供もいないから好きなことができていいとか、旦那に甘やかされているとか。
聞いているうちに、彼女達のただの愚痴のような気がした。それは、単にキミがうらやましいだけじゃない。
「夕飯は、ボクが好きで作っているんだし、子供もユーコの体の負担が大きいから作らないんでしょ。そもそもユーコはボク以上に家のことやってくれているじゃない」
朝ごはんとお弁当はキミが作ってくれている。それに、洗濯も。たまに忘れちゃうけど掃除もしてくれている。ゴミ出しだってキミがしてくれているでしょ。庭木の水遣りもお義母さんの畑の手入れも、車や家のメンテナンスもキミがしているじゃない。
他にも町内の会合とかもキミが出席しているじゃない。仕事だってしているのに。それなのに……。
「ボクに甘やかされているなんて、どの口が言うの?」
ムッとして、キミの頬をボクは両手で引っ張った。実際に言ったのはキミの口じゃないってことぐらいわかっているけど、それをちゃんと否定してこなかったキミに怒ったんだ。
「イチャイ……」
頬を引っ張られながら、キミがボクを見て呟いた。
キミの頬から手を離すと、もう、とボクの口から大きなため息が出た。
キミが両手で自分の頬をさすっている。
「そんなこと、気にしちゃ駄目だから。いい?」
ボクがキミにきつく言った。キミはしょんぼりした感じで「うん」と呟いて、ギュッとボクの体を抱きしめる。
「そもそもさ……」
ボクはブツブツと話し出した。
今でこそ、何だか夫婦っぽいけど、始めのうちは全然そうじゃなかったじゃない。
キミとボクが籍を入れたのだって、特に一緒に暮らしたいから、とかじゃなかったでしょ。もっと別の理由で、とにかく、ボクはキミの生死がわからなくなるのが怖かっただけなんだ。
そもそも籍を入れたときなんて、恋人でもなんでもなくて、ただの知り合い程度の仲だったの覚えてる?
ボクが勝手にキミのそばにいたくて、こっちに来たんだ。キミに何かして欲しくて来たんじゃない。
ボクがキミのこと、好きになったのだって籍入れた後だったし、キミが僕のこと好きだって言ってくれたのなんか、つい2年程前じゃない。籍入れて、もう5年も経つのにだよ。
今までの経緯を語ればそんなもんだ。
「ボクは、キミに何か望んでなんかいない。ただ、キミがキミらしく生きていたら、ボクはそれでいいよ」
それなのにキミは、お義母さんが亡くなってからずっとボクに気を使ってさ。仕事もあるのに家事も全部やろうとして。
ボクはキミをギュッと抱きしめる。
「ユーコは、大切なボクの奥さんだよ」
だから、と続けて、ボクはキミの顔を見る。
「もう、こんなことして誘わないで」
ボクは困った顔をして、キミの太ももを触る。そしたら、キミがニコッと笑って「ヘヘ、ごめんね」って言った。
でもね。
ボクのこと、ちゃんと想ってくれてるってわかって、ちょっと嬉しかった。
ありがとう、愛おしいボクの奥さん。