石
(私は大人になりたくないの)
懐かしい教室。三十六個の机と椅子。薄い黄色のカ−テン。ひびの入った古い壁。教室の前の教師用の大きな机も、生活感を残したまま時間を止めたようだった。それは、私が過ごした小学校の風景なのだが、どこか創られた空間のようなわざとらしさが見え隠れしていた。
「そうだ。大人になんて、ならなくていい」
誰もいない午後の教室に、残っているのはいつも三人だ。だから、よく声が通る。不思議なほど温かい明るさは、セピア色の光のようだった。この世界に、余計な音はなくて、その他にもどこか欠落した世界だった。
「そうだよ。香苗も私も拓也だって、いつまでも変わらないんだから」
私は机から立ち上がろうとした。だが、椅子が小さくて動きにくい。
「俺たちはいつでもここにいる。いつまでもこうしていられる」
「だから、大人になんかならなくていいの。まだ、ずっとこのままで」
見ると、窓際にもたれかかっている拓也も、ロッカーの前に立っている里美も、十七歳の容貌だった。
音を刻まない時計は、三時半の辺りで止まっていた。窓の外のそよ風の先からは、児童の声や雑踏のノイズが聞こえてきそうなものだったが、まるっきり無音だった。
「何を気にしているんだ。余計なことを考えているのか」
そうだ、私は大人になりたくない。このまま三人でいたいからだ。一番楽しいままの関係で、そのままの時空を生きたいのだ。
「また遊びに行こう。この三人で」
「うん。遊びたい。また楽しいところへ連れてって」
これは……何の夢だったっけ。
私の意識は急に落ちていく。
私はまた闇の中にいた。深くて全てが黒い。その無の中に、私だけがぽつんと存在している。私は孤独を感じた。そして、嫌が気配がしたかと思うと、急に気分が悪くなった。段々と息が苦しい。私は焦燥した。光が欲しい。光が欲しい。
そう叫ぼうとしたが、声にならなかった。どうしようか考える間もなくその場に崩れ落ちた。ここにいることは苦しかった。
その時、雷鳴と一緒にまばゆい光が現れた。
「また、お前か。どうやったら二度もこんなところに迷い込むんだ?」
突き抜けていく声は反響もせず、まるで自身もここから帰れないような不安を与える。
「知らない。私は何も知らない。私だってこんなところに来たくない」
でも少し気分が楽になっていた。私に問いかける男は、こないだの雷の男だった。光が眩しく、私が感電してしまいそうなほど、近くで放電させながら宙に漂っている。しかし、安らかな気配が本能的に私を安心させていた。
「嘘だ。どこかで望んだはずだ。だからここに迷い込むんだ」
「私が? 何を望んだの?」
まだ、思い出そうとできるほど頭がはっきりしない。でも、望みなんて長く忘れていた何かのような気がする。
「闇さ。闇を抱えて、それに身を委ねようとしたんだ」
「どういうこと?」
「お前は記憶のどこかで、深い闇に取り憑かれたんだ」
「悪いけど、ちっとも分からない」
「きっと深く悲しいことがあって、長い間それを嘆き続けたんだ。まずはそれを思い出さなければならない」
「それが、私がここにいることと関係があるの?」
「もちろんだ。そのせいで、お前に闇誘いの悪魔が取り憑いて、お前を苛めているんだ」
「悪魔?」
「そうだ。心に暗いものを抱えたときに、その隙間を狙って取り憑いてくる。そんな時だから憑かれた方は抵抗できないし、もっと心が暗く支配される。そうなると、不幸が連鎖したようにやってきて、やがては自身も闇に飲み込まれてしまうのさ」
「私がどこへ行っても苦しいのはそのせい? だとしたら許せない」
「そうだろう。ただ、そいつは基本的に夢の中でしかお前を支配できない。だから、夢の中では奴の方が有利だな。退治するのはとても難しい。倒すことも、夢の世界でないとできないからだ。そして、現にお前はここじゃ一人で何もできないはずだ」
「だったら、あなたが手伝って」
「俺は手伝えないな。俺もこんな世界の住人じゃないんだ。お前にしか退治できないんだ」
「さっき、私には何もできないって言ったじゃない」
「だから、少しだけ協力しよう」
男は小さな石を差し出した。
「これは?」
「夢の中でお前を自在にしてくれる石だ。願えば全てが実現する、これは魔法の石だ。夢から夢へ渡り歩くことも、夢の中で空を飛んだり水中で呼吸したり、何でもできる。想像したこと、全てが力となる。これを持つ限りお前に不可能はない。ただ、闇には気をつけろ。創造したあらゆるものを無に吸い込んでしまうからだ。それ以外からはお前を守ってくれる。便利だろう? ただ、使いすぎれば夢から目覚めることができなくなる。余計なことはしてはいけない」
「ねえ、これで私は何をすればいいの?」
「砂時計を探せ。闇誘いは、暗い過去を瞬時に引き出して闇を増幅させるのだ。そのために左手には必ず褐色の砂時計を握りしめている。それを奪えば、お前は夢を取り戻せる」
「わかった」
「じゃあ、もう行け。俺もここには長くいられない」
「ありがとう。でも、本当に私一人でできるかな?」
「危なくなったら叫べ。運良く俺がそれを聞いたら助けてやる」
私は頷いた。
「よし、帰れ」
男の両手が光ったと思うと、私は白い光に包まれて、そのまま意識は消えた。
次に目を開けたときは、病院のベッドの上だった。体がまだ重い。嫌な点滴も繋がれている。今日はこの病室に誰もいないようだった。
頭がはっきりしないせいもあるが、夢を見すぎて記憶が混乱していた。本当の自分の記憶がどれなのか探ってみたが、それすら曖昧としていた。私の現実は夢よりも儚いのだろう。こんな時は誰かの声が聞きたかった。誰かがいるということで、自分を確かめたかった。動けない体じゃ何も確認できなくて不安だ。せめて、体を起こすことができれば窓の外を見られるのに。でも、それすらも無理だった。目を開ける作業で、キャパのほとんどを遣ってしまっている。
不安だった。もし、私に悪意のある誰かがここに来ることができれば、簡単に私を殺すことができる。私は抵抗することも叫ぶこともできないし、寝ていればそれすらも気づかず死ぬかもしれない。儚い私は病死と診断される。そうなれば家族もそれを信じるだろう。いや、私自身、天国で病死だと信じるのだ。今の私は完全に無力で無防備なのだから。そうだ、そいつは今にも私を殺しに来る。私は一刻も早く逃げなければならないのだ。だけど、そんなことは到底できない。それに、どこに逃げれば安全なのか。敵は強大だ。どこに逃げても敵の諜報機関が私を見つけるだろう。ならば、早いうちに備えなければならない。味方も必要だ。しかし、迂闊に巻き込んではいけない。逃げるなら国外だ。中国経由で亡命しよう。行き先は意外なほどがいい。パスポートを作らなければ。それよりも、逃走資金が必要だ。困った。私は英語がしゃべれない。ニューヨークの空港からタクシーに乗ると「ホウェアトウ?」と聞かれる。私はパンフレットのホテルの住所を示し「ここです! ここ!」と訴えるのみだ。
私は冷静になれなかった。余計な思考ばかりが溢れていく。強い強迫観念のようでもある。これは投薬による副作用によるところなのだろうが、そんなことは今の私には知る由もない。不安定なままで、すぐまた意識は薄くなっていく。
私は、公園の広い砂場の中に伏せている。濃い砂塵によって、ここは見つけにくいのだ。伏せたまま、ただじっとしていた。砂と埃の混じった風が吹きすさんでいる。
また、この夢だ。私はじっと伏せたままこの展開に飽きていた。連続して同じ夢を見ることはよくある。だが、その度に私の意識は何かを考えて暇を潰さねばならないのだ。この世界では、私に行動的な自由はない。だから、風の音や自分に降りかかる砂の粒まで、毎回同じだから覚えてしまう。同じことの忠実な繰り返し。
不意に左手の中が熱くなった。私は何かを握りしめている。
そっと左手を開いてみると、そこにあったのは雷の男からもらった石があった。石を持つ手が熱くなる。全身にエネルギーが流れていくような感覚を覚えた。私は体を起こして石をまじまじと観察した。変哲もない石に見える。
私は砂塵の中立ち上がった。私はその風が嫌だった。そう思うと、風は私を避けて通り、気流が不規則になると後ろの方で一部が上昇気流になっていた。私の中で何かが覚醒した。対流が下降して私に向かってくると、今度は私を空に突き上げた。乱気流も一つに集まり、私は風を味方に飛翔した。視界は晴れ渡り、私は空中にそのまま浮遊した。全てが私の思い通りになることを悟った。闇に漂うあの感覚とは違う。私は公園の外ででたらめに歩き回ってる鬼を見つけた。何とも情けなく儚く見えるものだ。もう、ここには用はない。違う世界に飛び立つのだ。浅く念じると、雷の発光と同時に私に意識が遠くに飛ぶ。
ボールが飛んできた。白いボールが私にぶつかって落ちて転がった。バレーボールだった。遠くから誰かが私に謝った。私はひどく近視だから誰なのかは見えない。私は構わず歩き出した。これから職員室に行かなければならないのだ。私は体育館を出ると職員室へ向かった。途中廊下の窓の外から、今度はバスケットボールが飛んできた。この夢は嫌だった。何度も見た話だ。私はただストーリーをなぞるのはたくさんだった。ここから抜け出したいと強く念じた。光の中から現れたのは、克己だった。曽根克己は違う世界での私の彼氏だった。
「克己?」
「峰子? 何してるんだ?」
峰子というのはその世界の私の名前だった。ややこしいが、夢によっては名前まで違うことがある。克己は同級生でバスケ部だった。心強い私の味方だった。
私たちは白い部屋に入った。何も置かれていない、床だけの部屋。壁は一面がクローゼットになっていた。
後ろに気配がして振り向いた。ドアから、全身タイツの男達が部屋に入ってきた。一人が私たちの目の前に立ち止まった。
「聞いてくれ。これからゲームをしよう」
後ろではクローゼットを開ける音がした。
「聞けば君は、砂時計を探しているそうじゃないか」
「どうして知ってるの?」
「詳しくは言えないな。いずれは話してもいいが」
「砂時計……?」
克己が不思議そうな顔をしている。
「あ、私の話」
「そう、それはこの世界の鎖を解く鍵だ」
ふと振り返るとあんなにぞろぞろいた男達は居なくなっていた。
「さてゲームをしよう。クローゼットのドアは六つある。その中で一つだけ誰も入っていない場所がある。他には全て私の仲間が入っている。その一つを当てれば君たちの勝ちだ」
「そんなの分かるわけないでしょ」
「いや、分かるはずだ。君が力を十分に発揮さえ出来れば」
あの雷の男からもらった石の力のことだ。
「分からなかったらどうなるの?」
「世界を間違うだけさ。さあ、これ以上は何も言えない。選ぶんだ」
この中から一つを選べばいいんだ。
克己を見ると、私に判断を委ねているようだった。
私は左から二番目を開けた。
その瞬間他のドアが全て開き、全身タイツの男達が出てきた。そして、私たちの横でしゃがみ込むと、拍手をした。
「おめでとう、ほら正解だ」
私と克己は飛び込むようにクローゼットに吸い込まれた。はるか後ろでドアが閉まる音を最後に、私はまた違う世界にいた。