闇
第一話
誰か、私に光をちょうだい。
そう叫んだ声は、暗澹とした闇の中に吸い込まれていった。
ここはどこだろう。私は今とても深いところにいる。何だか段々と息が苦しい。嫌な焦燥ばかりが私を支えているような、さもなければすぐに脱落して崩れてしまいそうだ。私は力を振り絞って、もう一度同じことを叫んだ。
すると、突然雷鳴が轟き一瞬の光が走り抜けて、そこから雷を漂わせた衣のようなものに包まれた傷だらけの男が現れた。男は無数の火花を散らしながら空中に留まると、静かに私を見据えた。
「お前は誰だ。どうしてこんなところに迷い込んだ?」
どうやら、私に問いかけている。
「知らない。私は何も知らない。私だって訳分からないんだから!」
無意識に怒鳴りつけた。大声も闇に吸い込まれていく。少しの反響もない。不気味な静けさを強調する世界に、聴覚さえも違和感を訴えているように感じる。
男の光は弱くなった。纏う雷光も闇に浸食されているように見える。
「どうやら、ここは想像以上に闇が濃い。儚き者よ、お前も早々に大地に帰るがいい」
そう言うと、男は息を溜め「ふんっ!」と叫ぶと、私は明るい何かに包まれた。でも、それはすぐに消えた。
私は目を覚ました。
病院のベッドの上にいた。圧迫感のあるマスクをさせられ、体中に管が繋がれている。息をしてみた。苦しいけど、安らかで悪意はない。お腹の辺りの感覚がない。どうしてだったか。指を動かそうとした。重い。関節を少し曲げた。神経も体の反応も鈍重になっている。
(私は手術するんだっけ……?)
意識もはっきりしなかった。私はそれ以上考える体力もなく、再び眠りについた。
私はビニール袋を持っていた。中には無色透明の液体が入っている。ここがどこなのかは知らない。急に誰かが私に怒号を発した。私は思わず袋を落としてしまった。液体があふれると、ピンクに変色して広がっていた。
私はその「誰か」から逃げ出した。走って、階段を下ると、私は階段の下に隠れた。
「誰か」は私を探しているようだった。私は小さくなって息を殺している。
激しい息切れが聞こえる。足音が近くなったり遠くなったりする。私は震えていた。弱い自分自身を庇うように、小さく丸くなりながら。
やがて、足音はすぐ私の近くで止まった。
「見いつけた」
歓喜した男が私を見下ろしていた。そして多くの気配が集まってくる。私は咄嗟に逃げようと走った。でも、ここは行き止まりだ。私は自分から逃げ道をふさいだのだ。
「無駄だよ。僕は君を逃がさないよ。さあ、返してくれよ」
言いようのない恐怖に私は後ずさりした。私は横にあったポリバケツの蓋をはずすと、中に飛び込んだ。すると中には底がなかったようで、私はどこまでも落ちていった。辿り着いた世界は、また闇の世界だった。
無限に広がる黒の虚空。ここでは自分の存在さえ意味をなくしてしまいそうだ。でも、今度はそれほど嫌な感じはしない。苦しくもないし、冷静でいられる。だが、ここは完璧な闇だった。一筋の光もなく、何も存在しない。それなのに自分の姿ははっきりと見える。
私はどこに立っているのか、いや、立っているのかさえも定かではない。
足元を見ながら、一歩歩いてみた。確かに、床を踏みしめたような感触があった。
私は心の内に「飛べ!」と念じた。すると、ふわっとした浮き上がったような感覚を感じた。相対する景色も皆無なので、私が浮いたのか沈んだのかも分からないが、確かにこの感覚は浮遊だ。重力も感じないし、今は足がどこにも触れない。しばらく飛び回った後、私は空を目指した。
次に目覚めたときも、やはり病室のベッドの上だった。鬱陶しいマスクと、吐き気をくれる嫌な点滴ははずされていた。気分は悪くない。ただ頭がはっきりしない。感覚も鈍くて、どこかを見渡そうとも首を動かすのも難儀だ。
「香苗? 起きたの?」
横で声がした。母の声だ。微妙に焦点が定まらないまま、視覚でも母を認識した。
「良かった、起きたのね。心配だった、だって一週間もこうだったのよ」
何故そうなのか記憶がない。入院していたことだけは感覚で覚えていた。
「私、手術、したんだっけ」
自分でもびっくりするほどか細い声だった。いや、声にもなっていなかったかもしれない。体が全く思い通りにならないのも、体力が極端に低下していることを示している。
「ええ、成功したのよ、おめでとう」
「そう」と言おうとしたが声にならなかった。そして、それ以上は何か言う気にはなれなかった。母は私の気持ちを察して、静かにしていてくれた。きっと綺麗な笑顔で見守ってくれているのだろう。しかし、私はこの状況を把握できてはいなかった。一体何故こんなことになっているのかも思い出せない。
だが、私は生きていることが不思議だった。何故と聞かれても急に説明できないが、とにかくそう思った。長く眠っている間にたくさんの夢を見た。薬のせいか、おかしな夢も多かったはずだ。
そう、私はよく夢を見る。最近は妙な夢も多かった。そのおかしさを夢の中では自覚できないから、現実に戻ってから私は矛盾を考える。その現実でもこうなのだから、本当の私の感覚というものも曖昧なものだった。
私は夢に関して特別な感覚を持っている。夢の中には独立したこことは違う世界があり、私にとってのもう一つの現実が幾つも存在する。そこで私は自由で、現実とは違うルールで生きる。そうした夢の中の幾つもの現実を、私は生きている。夢の中には、幼少の頃から通い続けた世界もあるし、思い出も親友も、今の私が得ることのできない多くのものを持っている。私はこの能力に、「自在夢」と名付けた。自在に好きな夢を見られるという意味ではなく、夢の中が私にとって自在だという意味だ。夢が私に自在の世界をくれる。もちろん、それらは夢であることに代わりはないのだが、確固とした世界があり、毎日の日常があるのだ。それぞれ異なった付き合いの長い友達がいるし、喧嘩したり仲直りしたりする。積み重ねた同じ世界での日々は、私は現実と同じと考えている。夢の中で、これは夢だと気づける場合もそうでない場合もあるが、どちらも同じく現実として機能している。なぜなら、そこで私が生きているからだ。その中にも、私は自我があってモラルもあって、生活がある。そして、その中ではこうしてベッドの上に横たわっている必要はない。夢の中は、私にとって夢であって現実でもあるのだ。
私には夢と現実に差異などない。どちらが偽りでも、関係ないことだ。
私は再び眠った。
「あのね、二組の牧野君かっこいいのよ。みんなの間で評判いいんだから」
「えー、明菜ったらあんなのが好みなんだ。意外……」
私と話しているのは、親友の佐倉明菜だ。同級生で付き合いは長い。きっかけは小学校の時同じ塾に通っていて、話すうちに意気投合したのだ。明菜は生涯の親友だと思う。その塾は中学の時に辞めてしまったのだけど、それからも仲はずっと良かった。
「だって、彼はハンサムボーイだし、ダンスだって上手なんだって」
「そう言えばしなやかそうにも見えるね。でも、何だか怖そうじゃない?」
「それが、話すと意外に面白いこと言うの。優しくて強そうだし」
明菜の目はきらきらと輝いていた。こんな活き活きとしているのも珍しい。私は牧野君には興味がなかったが、目立つ生徒ではあった。憧れる女子は多く、しかし男子にひがまれるようなところはない。どっちにしろ、私には縁のない話なのだろうが。
「ああ、憧れの牧野君に少しでも近づけないかしら」
「まるで少女漫画のセリフ……」
「だって、彼ったら素敵なんだもの。でも私なんかじゃきっと駄目ね」
「頑張ればいいじゃない」
「いいの、遠くから見てるだけで」
「こりゃあ、完全になりきってるね」
明菜は、陶酔しているような口ぶりで高らかな調子で言うのだ。私には手がつけられない。でも、友達として明菜には幸せになって欲しいと思う。
「ねえ、香苗もいいかげん好きな人とかいないの?」
「全然いないよ」
これまで二度か三度、恋愛はした。飽くまでこの世界での話だ。でも、誰とも付き合ったこともないし、それは明菜も一緒だ。
いきなり場面が変わった。
埃の風が舞う、人の住んでいない町。見覚えがある。さっきとは違う世界に移ったのだ。よくあること、現実とはルールが違うのだから。そしてこの夢の中の私は、それを自覚していない。当たり前のようにかくれんぼをしている。ここは、六人の子供達がかくれんぼをする世界。最も、その子供達は皆高校生の容貌になっているのだが。
私は、公園の広い砂場の中に伏せている。濃い砂塵によって、ここは見つけにくいのだ。伏せたまま、ただじっとしていた。
このパターンは覚えている。何度も見た夢だ。私は結局五番目に見つかってしまう。タイムリミットぎりぎりで風が止んでしまうのだ。わかっていても、夢の中の私はいつも全く同じ行動をする。この世界に於いて自在とは、この意識だけだった。でも、この世界のかくれんぼに緊張する私の意識と、飛んできたばかりの異邦者の私の二重意識が同時に存在している。これも、割といつものことではあるのだが、いつも不思議に思う。いわば、同じムービーをキャラクターの視点から繰り返し見ているだけのようなことなのだが、ただ違うのは私自身は成長しているのだ。何年も前から同じ夢、同じ行動なのに。
探し回っている鬼の声がした。私はここでは見つからないことを知っている。鬼の声がこっちの方に向けられた。反射的に私の体は逃げようとする。私は見つかっていないことを知っているのだが、必死にかくれんぼをしているこの世界の私は結末を知らない。
一つの体に二つの私がいるのは不思議だった。私はそれを自覚し、もう一つの私は飽くまで一人なのだ。こんな夢を私は、いつも見ている。ここでは、私が見つかってしまえばまた違う夢を見るか、目覚めるのだ。調子が良ければ一度の睡眠で八つくらい夢を見る。多ければ十一くらいは見たことがある。そんな朝は逆に疲れてしまう。
砂に伏せたまま、時間は流れていった。まだ風は強い。もう髪の根本まで砂が絡みついてる。耳の中や口の中もきっと砂まみれだろう。収まらない強風は、ごうごうと音を鳴らしている。しかし、砂埃が視界を奪い続ける世界はやはり異常だろう。夢の中は必ずどこかでひどく現実離れしている。
また鬼が戻ってきた。私の声を叫びながら探し回っている。この時点で生き残っているのは私だけなのだ。このゲームは鬼が負けを認めるか、五時まで逃げれば私の勝ちなのだ。辺りは薄暗いが、もう少し時間は残ってるはずだ。公園の時計はここからは見えないのだが、この世界で遊び慣れているからわかるのだ。
突然風が弱くなって、ついには止んでしまった。そして間の悪いことに鬼は正面で私のすぐ近くにいた。
「香苗、ここにいたのかぁ」
ゲームオーバーだ。いったん意識はそこで途切れる。
今後大幅に改訂されるかもしれません。されないかもしれません。