5.コーヒーと灰皿
5.コーヒーと灰皿
相変わらず、健司は一向に働こうとせず、奈美恵の給料日になると店に顔を出し、奈美恵の稼いだ金を受け取っては雀荘へ通った。 奈美恵の手元には一銭の金も入ってこなかった。
このままでは今の生活から抜け出せなくなる。 奈美恵はそう思い、何とか逃げ出す方法がないか考えるようになった。
ある日、奈美恵のことを不憫に思った店のマネージャーが健司に内緒で働ける店を紹介してくれた。 同じ業界だとすぐに足が付くといい、隣町のスーパーを紹介してくれたのだ。 奈美恵は人目に着かない加工品などの包装を行う仕事をさせてもらうように頼みこんだ。
こうして少しずつ自分の金を蓄えて車を買った。 年代物のクーペだ。 車を買ったものの、置いておくところがないので、その足で街を出た。 当面の生活をするだけの現金があったので、 東京まで車を走らせると、真っ先に働き口を探した。 仕事が見つかるまで安いモーテルに泊って身を隠した。 その間、何度も奈美恵の携帯電話に健司から電話がかかってきた。 留守電には脅し文句のようなメッセージが延々と吹き込まれていた。 奈美恵はたまらなくなり携帯電話の契約を解除した。
何件かスナックやナイトパブの面接を受けたが、賃金の安い外国人を雇うところが多く、条件の合うところに行き当らなかった。 そして、隠れているホテルのそばのスナックへ電話をしてみたら、金曜なのにバイトが体調を崩して休むことになり困っているからと面接もなしで、その日から来るように言われたのだ。
ようやく働かせてもらえる店が見つかった。 店では“マリ”と名乗った。 しかし、東京へ来てからのホテル代と食費で持ち金が底をついていた。 そんな時、店で俊彦と出会った。
既に日が暮れようとしていた。 マリは俊彦の部屋のリビングでソファに座り俊彦と向かい合っていた。
「だいたいの事情は分かった」俊彦は腕組みしていた手をほどくと立ち上がり、バルコニーのドアを開けた。 透き通った空気が部屋の中に流れ込んできた。
マリは吸い殻で一杯になった灰皿をキッチンへ持って行き、新しい灰皿を持ってきた。
「一休みしよう。 コーヒーを入れてくる」俊彦はキッチンへ行った。 マリはまた、元の位置に戻ってソファに腰掛けた。
キッチンに来ると、流しに置かれた灰皿が目に入った。 マリは吸い殻をゴミ箱には捨てなかったようだ。 俊彦は感心した。 まだくすぶっているかもしれない吸い殻をすぐにゴミ箱に捨てなかったのは、かなり気が利く子だと思った。
俊彦が淹れたコーヒーはとてもいい香りがする。 マリはそう思った。
「クーペにはもう乗らない方がいい」俊彦が言った。
「車は足が付きやすい。 店まではこいつで通うんだな」そう言って、リビングの隅に置いてある自転車を指した。
「大丈夫さ。 これでも部屋のインテリアというわけじゃない」
マリは頷いた。
「じゃあ…」マリが口を開くと同時に俊彦が言った。「しばらくここにいればいい。それから車は下手に処分したりしない方がいい。 このままここに置いていた方がいいな」
「ありがとうございます」マリの目からは涙がにじんでいた。
「そうと決まったらメシでも食いに行こう」俊彦は車を回収に行ったついでに買ってきた紙袋をマリに渡した。 中には女性もののジャケットとワンピース、ストッキングから下着まで入っていた。
「これ…」マリが戸惑っていると、俊彦はニコリと笑った。
「そんな恰好で外には出られないだろう?」
俊彦はマリを連れてマンションの隣にあるビルの駐車場へ入って行った。 そこに停めてあるRV車のドアを開けると、マリに乗るよう合図した。
「これ、トシさんの車ですか?」マリが聞くと俊彦は頷いた。
「ここは?」
「俺の会社だ」
「トシさんって、社長さん?」
「そういうつもりはないけど、みんなはそう呼ぶな」




