白と黒 表と裏 生と死 自由と不可能
昔書いたものの再掲です
読んだことあるぞって方はお久しぶりです
二〇一八年八月三一日。娘が自殺した。
二二時過ぎ、マンションの下の階に住むHさんが「血が垂れてくる」と私たち家族の住む部屋に訪ねてきたので、そんな馬鹿な、という思いで私は話を聞いた。Hさんの言う場所は、娘の部屋のベランダにあたるところだった。信じられない思いで、それでも足早に向かい、部屋をノックした。返事はなく、ただ部屋から光だけが漏れ出ていた。
ノックは次第に強くなり、娘の名前を呼ぶ声もどんどん大きくなった。けれどそれでも返事は返って来なかった。まさか、という思いとどうか何事もなくという祈りを込めて、鍵のかかっていた部屋の扉を無我夢中で開けた。どうやって開けたのかはもう覚えていない。火事場の馬鹿力というやつで、力ずくで開けたのかもしれない。気づけば身体のあちこちが痛くて、肩で息をしていた。
視界が開けてすぐ目に入ったのは、半分以上が赤で滲んでいるカーテン。そしてそこにもたれかかっている娘の姿。少しの間、体が動かなくて息をすることすらも忘れていた。頭は理解することを拒否していて、思考だけが亀よりも遅くなっていた。痺れを切らしたのか、Hさんが私を呼ぶ声が遠くで聞こえて意識が戻ってくる。半ば転ぶように足をもつれさせながら娘の傍へ行くと、娘はもう息をしていなかった。状況が飲み込めないまま、それでも娘がもう手が届かないところへ行ってしまったということだけは感じて「っゔ、っゔ」と嗚咽すらできずに浅い呼吸のまま泣いた。
娘の顔に震えの酷い両腕で触れ、頭を胸に抱いた。確かにここにいるのに、ここにはいない。頭がガンガンとして痛い。キーンとした耳鳴りが絶え間なく響いていた。ドタドタとHさんが入ってきて悲鳴をあげていたけれど、それすらも意識の外だった。
次に覚えているのは、Hさんから連絡を受け帰って来た夫に声をかけられたとき。夫も酷く取り乱していたけれど、ボロボロでぐちゃぐちゃになりながら泣いていた私のために、率先して動いてくれた。Hさんは夫を呼ぶ前に警察へ通報したそうだが、なぜだかひっ迫しているようで着くのにだいぶ時間がかかると言われたそうだ。実際夫が帰ってきてからもまったく警察は来なかったし、そもそも通報するときも全然繋がらなかったそうだ。
私は野次馬を追い払ったりこれ以上騒ぎにならないよう口止めしたりする夫を、ただただ娘を抱えて見ていることしかできなかった。やがて夫は娘を一回離してくれと言った。なぜなのかわからなくて、私はぼーっとしたままゆっくりと首を傾げた。それから娘を抱く、すでに感覚もなくなってうまく動かせない両腕に、それでも力を込めてより強く抱きしめた。そんな私を見て夫は言葉を探すように視線を彷徨わせたのち、「ななななんで、自殺、自殺、なん、か、したの、か、わか、わからな、くて。な、なななんか、なんか、わかる、こここと、ない、かな、って」そう、震えた細い声でたどたどしく言った。じさつ、ジサツ、自殺。そう、か。娘は、自分の意志で行ってしまったのか、私たちがいない場所へ。それが、なんで、ナンデ、何で、なんで。わからない、わからない、わからない、……なにが? じさつ、ジサツ、自殺。なんで、ジサツ、わからない、……だから、サガス、ワカル、コト。あぁ、そっか。ぼんやりと理解した私は娘をそっと胸から離し、ふと、顔を見た。理解はしていても離したくなかったのかもしれない。
覗き見たその顔は、痛かっただろうに、苦しかっただろうに、笑っていた。辛さのなかに、それでも幸せそうな表情が滲んでいた。見たことのない、スッキリとしているようにも見える笑顔だった。
暫く沈黙が続いた後、夫は乾いた血がついている首に触れた。まだ血は流れ続けていて、夫の手を深い赤に染めた。首には穴があって、血はそこから流れているようだった。血の跡は体の後ろ側にもあり、首の後ろを見てみるとどうやら穴は貫通しているようで、そっちにも血を流す穴があった。それで私はやっと、カーテンを染めていた血はそこから流れていたのだと知った。娘の体のあたりに顔を向けたまま意味もなく視線を動かしていると、左手に目が止まった。娘のその手は、傷の入った古い千枚通しを握っていた。
もうとっくに涸れたと思っていた涙がじわりとまた溢れてきて、視界がぼやける。その千枚通しは工作が好きな娘に頼まれてもう何年も前に買ってあげたものだった。色んな太さがあるセットで、もらってすぐにウキウキしながら部屋へ戻って行った娘。いつも机に置いて、いつでも作れるようにしているのだと言っていた。それで娘は、死んでしまったのだ。
結局、なぜ娘が自殺したのかはわからなかった。ただ、Hさんのところに垂れていた血はやはり娘のもので、ベランダへ出るための大窓が開きっぱなしになっていたからそこから垂れたのだろう、ということは予想がついた。もうすぐ九月と言ってもまだまだ暑く、娘はよく窓をあけて夜風にあたっていた。
肌が乾燥して、節々が固くなった娘をそっと床に横たえる。なんで、こんなことになったのだろう。数時間前まで、娘は私の目の前で生きていた。美味しいと言って私の作った夕飯を食べてくれた。いつものように、娘は部屋へ戻って、私はお風呂へ向かって、夫の夕飯の準備もして……なにも変わりなかったのに。なんで私の娘が……。私も夫も、夢現だった。
日付を跨いで二時半ごろ。チャイムが鳴ったので夫とゆっくり、ぼんやりとしたまま目を合わせてからハッとして立ち上がった。……否、何時間も座りっぱなしで動かさなかった足では立ち上がることができず、私はそのまま崩れ落ちかけたところを慌てた夫に抱きとめてもらった。
結局私は娘といることにして、夫だけが玄関へ向かった。やっと警察が到着したようで夫が警察を伴って戻ってきたが、これといって新たな進展もなく、ただ自殺だろうとだけ言われた。
なんで、なんで、なんで。なんで死んだりなんかしたの。何があったの。何でそんなに急に。お母さんが悪かったのかな。なんかしちゃったのかな。ごめん。ごめん。ごめんね。何もできなくて。あなたを死なせてしまって。ごめん。ごめん。
おねがい、かえってきて……。
***
二〇一九年八月三一日。一回忌。一年経ったというのに、私の時計は止まったまま。生きているのに死んだように毎日を過ごす日々。だって、あんな、唐突に、一瞬で。
しかも娘は、悪い男に誑かされたせいで自殺なんてしたのだ。それだけでも「はいそうですか」とはいかないのに、その男はダンと言うそうで、あの日娘だけでなく数百万もの大勢の人たちも誑かして自殺させたそうだ。その男が憎いというのも仕方がないだろう。けれどその男は死んでいるというのだから、感情の行き場がない。どす黒い感情はすべて消化不良のまま、ずっと私の中に巣食っている。あんな性根の悪い、腐った男にあの子は……。
ゆるさない、ユルサナイ、許さない、赦さない。
ゆるせない。
あなたが死んだって私の娘は帰って来ないの。死んだって赦さないわよ。
***
二〇一八年八月三〇日。一人の人間、Ⅾが眉間に皺を寄せ、難しい顔のまま届いたメッセージを見ていた。
「期限の八月は明日までだぞ。とっとと選べ。自分で死ぬか、俺に殺されるか。言っておくが、逃げようなんて思うなよ? 俺は地の果てまで追いかけるぞ。絶対に逃がさない。絶対に殺す。逆に、なんであいつを殺したお前が生きていて良いと思えるんだ? あいつを殺した、その事実は一生消えない。お前は、あいつを殺したんだ。死んで然るべきだろう。さぁ、はやく選べ」
Ⅾはそれから数十分数時間狂ったように叫んだり、歩き回ったりして悩んだのち、準備を始めた。
寂しがりやで、消えることない罪を負った人間が、大量の罪をまた背負う、最高で最悪な死に際の準備を。
***
二〇一八年八月三一日一九時ごろ。Aは夕食を終えるといつものように部屋へ戻り、窓を開けた。生暖かいけれど、夏を感じられるこの夜風がAは好きだった。
通知音に慌ててスマホの画面をつける。冷房のつけていない部屋は蒸し暑いので窓際にそのまま腰を下ろした。
ダンと言うのは有名なストリーマーで、フォロワー数は数百万を超える。フォロワー一人ひとりが熱狂的にダンを支持しており、その界隈は一種の宗教とも言われた。そこら辺に明るくない者からすると、なぜネットの怪しげな者にそんなにものめり込むのかと不思議だろうが、ダンは恐ろしいほどにその素質をもっていた。容姿も、声も、人格も、すべてが美しいダンの魅力は留まることを知らなかった。その神に愛されたと言っても過言ではない人間が、自分を認識して、肯定してくれる。暗澹とした闇を多く抱えている人ほどダンの沼に深くハマり、妄信的にダンを愛した。人々に寄り添うダンを聖人君子だと度々支持者は言ったけれど、それはダン自身が誰よりも深い、とても大きな闇を抱えているからだと話す者もいた。
ダンが配信をする日には多くの者が休みを取り集まる。三一日、その日はまた一段と人が多かった。なぜかと言うと、ダンが完全に姿を見せて配信をするからだ。それまで完全にその身を晒すことはなかったというのに、どういうわけか唐突に訪れたその機会に支持者たちは驚きながらも喜んで予定を空けた。かく言うAも、ワクワクしてその配信を待っていた一人だ。
開始されたその配信はダンにしてはイレギュラーなものだったが、ダンは通常通りのペースで、通常通りの様子で話した。いつもと違った点と言えば、汗をかいていたことくらいだ。Aが心配からコメントで指摘してみると、ダンは少し口籠ってから「暑いんだ」と返した。配信には都市部も閑散とするほどの人が集まっていた。
それから一時間ほど配信を続けたダンは、一呼吸おくと何やら緊張した様子で話し始めた。その瞳は、少し揺れているように思えたが、その時はネットの調子が悪かったし、画質もあまり良くはなかったため、Aは気のせいだと片付けた。
世の中、自分の意志じゃどうにもならないことばっかだよね。自分はこうしたいのに、周りがそれをノーという。ああなりたい、こうなりたいはあるのに、それには全くもってなれやしない。
でも唯一、自分の意志でどうにかできるものを皆もってるんだ。いったいなんだと思う?
イノチだよ。生きるも死ぬも自分次第。毎日息をして生きる方を選び過ごしているけれど、死ぬという選択肢だっていつでもとれるし、あるんだよ。
いつでも安寧の逃げ場はすぐ傍に。
なんて言ったって、死のうとは直ぐには思わないよね。生きるという方が普通になってる今、わざわざ腰を上げて別の選択肢を選び直すだなんて、ちょっと面倒だしやる気が起きない。
かと言って、生きたいわけでもない。今わかっているだけでもこの先嫌だなと思う予定はあるだろう? やりたくないけど、やらなくてはいけない、そんな予定。それを嫌だ嫌だと日時を意識する度思いながら、日々を憂鬱に過ごす必要なんてないんだ。
別にそういう予定がなくたって、生きたくないと思う人はいるだろう。とても嫌なのにそこから離れることは困難でどうしようもない人や、苦い記憶がふとした時にフラッシュバックする人、いたる所で自分を苦しめる記憶が呼び起されて生き辛い人、取り返しのつかないことをしてしまって悔やむ人、それを責められてココロが削られていく人、なによりも誰よりも自分を自分が許せない人、……、……。
あぁ生きたくない生きたくない生きたくない生きたくないね。けどやっぱり、死にたくもない。考えは堂々巡り。なにかきっかけさえあれば、自分を終わりにできるのに。
ねぇ、きっと君も、あなたも、そうでしょう? そうだよね? そうだよな? そうなんだよ。きっと君らもあなたたちもそう思ってる。
…………。
死ぬのは怖い。そりゃあそうさ。本能が生きることを強制してくるからね。とてもとても鬱陶しいけど、気にしなくて良いんだよ。むしろ嘲笑うように死んでやろう。皆が皆の意志で、皆のやりたいように。きっかけならこれから与えてあげる。
さぁ、一緒に、行こうか。誰も手が届かない場所に。大丈夫。大丈夫だよ。どんな痛さも辛さもこれまで感じたものより、これから生きることより、マシだ。大丈夫。大丈夫。痛くなくて辛くない死に方もあるから。大丈夫。大丈夫。大丈夫だよ。
大丈夫なの。
さぁカウントダウンをしようか。準備もあるだろうし、十分、十分経ったらにしよう。今日のために見やすいデジタル時計を用意したんだ。だって今日は、最高な記念日だもの。完璧な準備をしなくちゃ。
声に出してのカウントダウンは十秒前から始めるよ。
そう言ってダンは手に持っていた10:00・9:59・9:58……と動き出した時計を見やすい場所に置いた。そのカタンッ、という音でAはハッとして動き出した。
何にしよう。何で行こう。近場にその手段となり得るものがあまりない。でもリビングや風呂場はAの母がいる。スマホをその場に置いてAは部屋の中を歩き回った。そして机の前まで行って、足を止めた。
そうだ、これ、これがある。
ぴったりの品を見つけたAは思わず口角を上げた。そして一番太いサイズの千枚通しを手に持ち、スマホが置いてある窓際に戻って再び座り込んだ。まだ時間に余裕があったのでどこら辺に刺せばいいのか調べてみる。ダンはその間囁くような優しい声で歌っていた。いつもより声が細いから喉の調子が悪いのかもしれない。
準備が整って暇になったAだが、おもむろに立ち上がって机の引き出しを開けた。そこから鎮痛剤を取り出して飲むと、再び窓際に戻った。ずるいかもしれない、とは思ったがAはせっかくだし、と気にしないことにした。祖母から分けてもらったモルヒネが入っている強い鎮痛剤。工作中に怪我をして大泣きしていたAにくれたものだ。結局飲まなくて何年も放置していた。これで本当に準備万端。
もうすぐ、時間がくる。
皆準備はできた? そろそろ時間になるよ。三〇秒前。やっと、やっと楽になれるね。二〇秒前。顔、強張ってない? ニッ、ってしてみてよ。ふふ。一〇秒前。……8、7、6、5、4、3、2、1、……ゼロ。
スマホから銃声が聞こえると同時に、Aは千枚通しを頸動脈に突き刺した。
抜いてみたが思ったより血の量が少ない。できるだけ即死したいAは後ろからもう一度刺してみた。
それを抜いた辺りで、Aは体に力が入らなくなった。
***
二〇一八年八月三一日二一時ごろ。
Aの部屋では男の笑い声が響いた。Aは既に死んでいるため違う。部屋にはA一人のためAの家族でもない。
声は、Aのスマホからだった。しかしダンは先程銃で死んだ。ということは、ダンの近くにいるダレカ。
そろそろ粗方死んだかな。いやあ……可哀そうになあレイ、お前はダンにはなれないんだよ! だって最後には大勢巻き込んで死んだんだからなァ!
男がニヒルにまた笑った。
ダンには何者もなれやしないんだ! お前が殺したからな! 本物のダンはもうどこにもいやしない! いろんな奴に寄り添うフリして償ってるつもりだったか? 内心見下してたクセに! そんなことなんににもなりやしないんだ! 実際ダンは帰って来たか? ハッ! ほんとに笑わせてくれる話だ!
……。
……。
レイなんかを慕って死んじまうなんてなあ。まあ、指示したのは俺だけど。あんだけみっともなく生にしがみついてたクセによー、もっともらしい理由つけてたっくさん巻き込んじまって……。普通に生きてただけなのに、レイなんかに捕まっちまって災難だなぁ。死への引き金を引いちまったお前は大罪人だよ、レイ。やっぱり、ダンを殺した奴がイイヤツなんてことはないんだ。
……そうだ……絶対にそうだ……そうでなきゃ、いけないんだ……。
……。
……。
なあ、なんでだレイ。お前……なんでなんだよ。そんなヤツじゃなかっただろ? なんで、なんでダンを……。
……。
ハハッ……もうレイもいなくなっちまったから聞くこともできやしない。
……俺が、殺したからな。まさか、本当に死ぬなんて。
……おかしいな。それを望んでたはずなのに。
……。
……ごめん、ごめんなぁダン。俺なんにもできなくて。なんにもしてやれなくて。ごめん。ごめん。挙句の果てに、レイも殺しちまった。赦せなかったんだよ。だって……レイは……アイツは……お前を殺したんだぜ?
……なんて言ったって、俺もレイを殺したんだから、お前は俺を赦さないだろうな。
それで、良いんだ。だって俺は、無関係な奴らもいっぱい殺しちまったんだからな。
ごめん、ごめんなぁ。
二度目の銃声が、Aの部屋に響いた。
***
二〇二一年八月三一日。三回忌。あのダンと言う男は自殺教唆として世間から罪人扱いされている。なにせ三年経った今でも、子供をインターネットに触れさせることに抵抗がある親は多いくらいだ。
娘は、あの表情から見るにあの男と幸せに死んでいったのだろう。でも、あの男は脅されてただけで死にたいなんて思ってなくて。娘は慕っていたようだけど、それすらも虚構で。でも、それを知ることはもう叶わない。それで、よかったの……? それを知っててもなお、あなたは死のうと、思ったの……?
11月8日の文学フリマに出ます
金石ってサークルです
よろしくお願いします




