第三話② 崩れる前に引け
旧灰鐘坑道の内部は、外から見たよりもずっと湿っていた。
天井は低く、壁面には古い掘削痕が幾重にも残っている。所々に打ち込まれた支柱は黒ずみ、長い時間の湿気に晒されて痩せていた。足元には細かな砂利と、古い木片。それ自体はただの廃坑の景色だ。
だが、俺の目には違うものが映っていた。
どこで土が新しく崩れたか。
どの支柱がまだ持つか。
鼠がどの壁沿いに走ったか。
そして、四人の呼吸がどこで乱れ始めるか。
「第一印、つけます」
最後尾から声をかけると、ミラが立ち止まった。
レインは左壁に白墨で短い斜線を引く。一本目。帰路のための基準だ。
「ずいぶん慎重ね」
「慎重で済むうちは、その方がいいです」
少し進んだところで、ノアが壁へ手をかざした。
「……空気の流れが変だ」
「どっちです?」
「右前。抜けてる感じがする」
レインは耳を澄ませた。確かに、右側の通路だけ反響の返りが薄い。風が抜ける穴があるのか、それとも見えない枝道が多いのか。いずれにせよ、帰路では基準を狂わせる。
「右は後回しにしましょう」
「採取場所はそっち寄りじゃない?」
シエルが言う。
「だからです。向こうは進ませる構造になっている可能性がある」
「進ませる?」
「ええ。楽に進める道ほど、帰りが危ない」
ミラは余計な反論をせず、左寄りの本線を選んだ。その判断の早さに、俺は少し驚いた。言葉を一度受け取り、必要だと思えばすぐ変える。少なくとも勝ち方に固執する部隊の動きではない。
第二分岐を越えたあたりで、シエルがしゃがみ込んだ。
「これ、鼠の糞だね」
「量が多い」
ノアも低く言う。
壁際に黒い粒が点々と落ちている。新しい。しかも、奥へ向かうほど密度が増えていた。
「巣が近い?」
ミラが問う。
「近いだけじゃありません」
レインは足元を見た。
糞の散り方が、片側に偏っている。単にここを通っているのではなく、何かを壁際へ寄せるように動いている跡だ。
「誘導しています」
「何を」
「獲物を、です」
三人が息を呑む気配が伝わった。
「石喰い鼠は正面から襲うより、逃げ道を狭めてから噛みつく方が得意な個体がいます。特に坑道みたいな細い場所だと顕著です」
「嫌な習性ね」
「迷宮育ちの群れなら、なおさらです」
その時、前方の暗がりで小石が転がった。
ミラが即座に半身になり、ノアが片手を上げる。シエルの灯石が少し強く輝き、坑道の先を淡く照らした。
黒い影が三つ、四つ。小柄だが目だけがぎらついている。石喰い鼠だ。
「来る?」
シエルの声は落ち着いていた。
「まだ様子見です」
レインが言う。
「こっちの並びを見てる。散らないでください」
影はしばらくこちらを窺っていたが、やがて一匹だけが短く鳴いて奥へ消えた。残りも追うように退く。
ミラが細く息を吐く。
「偵察か」
「おそらく。群れ全体が近いですね」
「今のうちに引く?」
ノアが問う。
俺は少し考えた。まだ引くほどの危険ではない。だがこのまま漫然と進めば、第二分岐と第三折れ角の間で挟まれる。
「採取地点までは行けます。ただし、そこで長居はしないこと。採ったらすぐ戻る」
「了解」
「あと一つ」
レインは前方の床にしゃがみ込み、砂利の上に指を滑らせた。
「ここから先、足跡の向きが変わってます」
「足跡?」
「鼠のじゃありません。人間のです。往路より復路の方が乱れてる。つまり、前に進んだ時より戻る時の方が慌ててる」
「……受付で言ってた途中撤退組」
シエルが小さく呟く。
「たぶん」
ミラが短く頷き、再び先頭に立った。
そこから先は早かった。第三の折れ角を曲がると、湿った窪地に淡い青白さが見えた。発光苔だ。壁面から床際にかけて、薄く群生している。
「あれね」
「採取自体はすぐ終わります」
レインは周囲を見回した。
問題は帰りだ。
窪地の両脇は狭く、支柱の状態も悪い。天井近くには新しい傷がある。しかも、さっきまで聞こえていた鼠の気配が急に遠のいていた。静かすぎる。
「ミラさん、採取は最低限で」
「分かった」
「ノアさんは右側警戒。シエルさんは灯りを落としすぎないでください」
三人が動き始める。
ミラが手早く苔を刃先で削ぎ、シエルが用意した袋へ入れる。ノアは坑道の片側へ意識を向けたまま、低く短い詠唱を紡いだ。足元の砂利がわずかに固まり、踏み込みやすくなる。派手ではないが、こういう補助は撤退時に効く。
その時だった。
乾いた音が、頭上で鳴った。
ぴし、と木が裂けるような、細い音。
俺の背筋が冷たくなる。
「――ミラさん、採取中止」
「まだ半分も」
「いい、引きます」
「理由を」
ノアが問う。
次の瞬間、二度目の音がした。今度ははっきりと。支柱だ。
しかも同時に、奥の暗がりで低い鳴き声が重なる。鼠の群れが、一斉に動き始める合図。
「崩れる前に引け!」
レインの声が坑道に響いた。




