第三話① その坑道、三人で入ると帰れません
翌朝、王都の空は薄曇りだった。
南区の冒険者ギルドは朝から騒がしい。木の扉が開くたびに湿った外気が流れ込み、掲示板の前では探索者たちが依頼札を取り合うように眺めていた。獣皮鎧の擦れる音、鉄具の触れ合う音、受付嬢の呼び声。その全部が、遠征隊付きの静かな記録室とは別の世界に思える。
レインは、少しだけ場違いな気分を覚えながら、ミラたちの後ろを歩いていた。
「緊張してる?」
振り返らずに、ミラが言う。
「していないと言えば嘘になります」
「なら普通ね。初めての隊で、初めての依頼前。平気な顔してる方が危ないわ」
その言い方に、レインは少しだけ肩の力を抜いた。
ギルドの掲示板は大小の札で埋まっていた。浅層迷宮の巡回、薬草採取、荷運び護衛、下水道の魔物掃除。高額依頼は少ないが、そのぶん競争も激しい。
ミラが手を伸ばしかけた依頼札を、レインは見た瞬間に止めた。
「――待ってください」
三人が揃って振り返る。
ミラの指先が触れかけていた札には、こう書かれていた。
旧灰鐘坑道・第二層手前 発光苔採取および石喰い鼠の掃討
報酬は悪くない。浅層扱いの依頼としては、むしろ少し高い部類だ。
だが、場所が悪かった。
「どうしたの?」
シエルが首を傾げる。
レインは札の文面を見たまま、低く言った。
「その坑道、三人で入ると帰れません」
周囲の喧騒の中でも、その一言だけは妙にはっきり響いた。
ミラの表情は変わらない。だがノアはわずかに眉を寄せ、シエルは手にしていた灯石を止めた。
「……三人で、ってことは」
ミラが問い返す。
「僕抜きなら、です」
「理由は?」
「旧灰鐘坑道は浅層に分類されていますが、構造だけなら中層寄りです。分岐が少ない代わりに、逃げ道が少ない。加えて、石喰い鼠が巣を作る時期だと、獲物を奥に追い込む動きが出る」
レインは札を指で押さえたまま続ける。
「この依頼、報酬が少し高いでしょう。採取だけなら不自然です。つまり、以前に事故があったか、少なくとも戻ってきた探索者が少ない」
「そんなことまで分かるの?」
シエルが半ば感心したように言う。
「分かるというより、見覚えがあります」
レインは短く息を吐いた。
「勇者遠征隊が黒冠へ向かう途中、補給用の副資材を集めるためにこの坑道へ寄ったことがあります。正式報告には残っていませんが、あの時も危うく半壊しかけた」
「……浅層の坑道で?」
ノアの声は低い。
「浅いから安全、ではないんです。浅い場所は、油断した隊から死にます」
ミラは依頼札を見つめ、それからレインを見た。
「じゃあ聞くわ。四人なら?」
「帰れる可能性は上がります」
「ずいぶん言い切るのね」
「条件つきです」
レインは今度こそ、しっかりと三人を見た。
「僕の指示を一度は聞くこと。危険だと言ったら止まること。採取よりも退路確保を優先すること」
「それだけ?」
「それができない隊は、たぶん誰が入っても同じです」
一瞬、沈黙が落ちた。
ギルドの喧騒だけが、四人の周りを流れていく。誰かが笑い、誰かが受付で声を張り、別の誰かが依頼札を乱暴に剥がしていく。その中で、ミラだけがじっとレインを見ていた。
やがて、彼女は依頼札を剥がした。
「決まりね」
「ミラ」
「やめるんじゃないの?」
シエルが目を瞬く。
「逆よ。やるからこそ、今ここで聞ける話を聞く」
ミラは札を丸めず、丁寧に持ち直した。
「この人を試すって昨日言ったでしょう。だったら、分かりやすい場所の方がいい」
「分かりやすすぎる気もするが」
ノアが腕を組む。
「危ない依頼ほど、役割ははっきり出るわ」
「……俺は反対じゃない」
「私も。面白いし」
「面白いで決めないでください」
「でも、行かない理由もないでしょ?」
シエルの言葉に、レインは返事に詰まった。
実際、その通りだった。危険を知っているからこそ、見過ごせない。三人だけで入れば危ないと分かっていて、それでも黙って見送る方がよほど後味が悪い。
ミラは受付へ向かいながら言った。
「受けるわよ、旧灰鐘坑道。四人で」
「……分かりました」
レインも後を追う。
受付で依頼札を渡し、簡単な説明を受ける。石喰い鼠は群れると厄介だが、個体としては浅層級。発光苔は第二層手前の湿地状区画に群生している。ただし最近、採取班が二度ほど途中撤退しているらしい。
「途中撤退の理由は?」
レインが問うと、受付嬢は少し考えてから答えた。
「通路が分かりづらいとか、帰り道で鼠に追われたとか、そういう話ですね。大怪我は聞いてませんけど」
レインは小さく頷いた。
やはりだ。
大きな事故としては処理されない。だが、同じような違和感が何度も起きている。そういう場所がいちばん危ない。誰も致命傷として記録しないせいで、敗因だけが蓄積していく。
ギルドを出たあと、四人は坑道へ向かう前に最低限の道具を揃えた。予備の灯石、白墨、細い麻紐、簡易楔、携行食。高価な装備ではないが、どれも引き返すためには必要なものだ。
最後に、王都外縁へ向かう街道の手前で、ミラが足を止めた。
「隊列、どうする?」
「僕が最後尾です」
「前じゃなくて?」
「前で見える危険もあります。でも、帰れなくなる兆候は後ろからの方が分かることが多い」
ノアがわずかに頷いた。
「合理的だな」
「先頭はミラさん。二番手にノアさん。三番手にシエルさん。灯りは二つ使いましょう。前に一つ、後ろに一つ」
「了解」
ミラはそこで、ほんの少しだけ口元を上げた。
「じゃあ行きましょうか、レイン」
「……ええ」
旧灰鐘坑道の入口は、王都から歩いて半刻ほどの丘の麓にあった。
崩れかけた木柵。放棄された荷車。湿った風。外から見る限り、ただの古い採掘跡にしか見えない。だが、俺には分かった。
ここは、人を油断させる形をしている。
入口の前で立ち止まり、レインは静かに言った。
「入ったら、まず左壁に印をつけて進みます。戻る時はそれだけを追ってください。迷ったら、前じゃなく後ろを見ること」
「分かった」
「あと、変だと思ったら必ず声に出してください。小さい違和感ほど、あとで大きくなります」
ミラが先頭で坑道へ足を踏み入れる。
続いてノア、シエル、そして最後にレイン。
薄暗い坑道の中へ一歩入った瞬間、湿った空気の匂いと、わずかに遅れて返る反響が耳に触れた。
レインは内側の鞄に手をやる。
敗因録は持ってきていない。だが、そこに書かれた順番なら、まだ頭の中に残っている。
旧灰鐘坑道。第一分岐まで平穏。第二分岐で違和感。第三の折れ角で、退路が細くなる。
そして――
「レイン?」
シエルが小声で振り返る。
「何でもありません。進みましょう。ただ、ここから先は浅い場所だと思わないでください」
返事の代わりに、ミラが前を向いたまま細剣の柄へ手を添えた。
四人の足音が、旧坑道の奥へ吸い込まれていく。




