第五話① 勝ち方より帰り方
翌朝、俺たちはまた南区の冒険者ギルドにいた。
昨日より早い時間だというのに、掲示板の前はもう人で埋まっている。革鎧のきしむ音。金具の触れ合う硬い音。朝の冷えた空気に混ざる獣脂と鉄の匂い、そしてほんの微かな血の匂い。探索庁の記録室にいた頃の朝は、紙とインクの匂いだけだった。
だが今は、この雑多なざわめきが少しだけ嫌ではない。
「見て」
シエルが小さく顎をしゃくった。
視線の先、昨日受けた旧灰鐘坑道の依頼札には、小さな追記札が結ばれていた。
支柱劣化あり。群れに追われた場合、折れ角で隊列崩壊の危険。投擲灯推奨。
短い。だが、それで十分だった。
誰かが次にあそこへ入る時、少なくとも何となく嫌な場所で終わらない。どこが危険で、何を持ち、何に気をつけるべきかが残っている。
その事実に、胸の奥が少し静かになる。
「昨日の報告、もう反映されてる」
シエルが感心したように言った。
「早いですね」
「ギルドは、死人が出る類の面倒事には敏感なのよ」
ミラが答える。
「特に、理由まで言葉にされた面倒事にはね」
ノアが腕を組んだまま追記札を見上げた。
「これで次は、少なくとも同じ崩れ方は減る」
「減る、です」
俺は頷く。
「なくなるとは言いません。でも、知らずに踏む人は減ります」
そう言いながら、俺は掲示板へ視線を移した。
浅層依頼の札が並ぶ中、一枚だけ縁の擦れた札がある。何度も取られ、何度も戻された跡だ。手垢のつき方が不自然で、紙の角だけが妙に柔らかい。けれど報酬額は控えめだった。
危険のわりに旨味が薄い。
だからこそ、原因が放置されやすい依頼だ。
旧南導水路・第三制水室点検
針羽蝙蝠駆除および水門標識回収
俺がその札を見ていると、ミラも同じところで足を止めた。
「気になる?」
「はい」
「俺もだ」
ノアが言う。
「報酬の割に、持ち出された回数が多すぎる」
「でも戻されてもいる」
シエルが続ける。
「面倒な依頼の匂いがするね」
俺は札の文面を見つめたまま、昨日の坑道を思い出していた。
狭い退路。追い立ててくる群れ。崩れかけた支柱。
そして、俺自身が一拍だけ確証を待ったこと。
同じ浅層でも、危険の形は場所ごとに違う。
だからこそ、次は最初から読み違えたくなかった。
「旧南導水路は、王都の古い導水設備です」
俺は言った。
「今はほとんど使われていませんが、制水室まわりだけ点検対象に残っているはずです」
「行ったことあるの?」
シエルが聞く。
「僕自身はありません。ただ、補給記録で名前を見たことがあります。敵が強いというより、足場と灯りを間違えると崩れやすい場所だと」
「そこに蝙蝠、ね」
ミラが札を見上げた。
「嫌な組み合わせ」
ノアが俺を見る。
「で、レインはどう見る?」
俺は少しだけ考えてから答えた。
「強敵の依頼じゃありません」
「じゃあ何?」
「失敗の形が整理されていない依頼です」
三人が黙ってこちらを見る。
「強い魔物がいる依頼なら、危険でも理由は分かりやすい。戦力不足か、装備不足か、相性の問題か」
俺は札の擦れた縁を指で示した。
「でもこれは、浅層級の依頼なのに途中撤退だけが増えている。つまり、勝てないんじゃない。手順か判断のどこかが噛み合っていない可能性が高い」
ノアの目が細くなる。
「……お前が一番働く種類の依頼か」
「はい」
シエルが札を見つめたまま、小さく息をついた。
「誰かが毎回ちょっとずつ嫌な目にあって、でも原因がはっきりしないまま放置されてるやつだね」
「そうです」
ミラが腕を組む。
「でも報酬は安いわよ」
「安いからです」
俺ははっきり言った。
「腕の立つ隊ほど敬遠します。浅層でこの額なら、もっと割のいい依頼へ行く。でも放置されれば、そのうち怪我人か死人が出る」
昨日の追記札が、視界の端で揺れていた。
「今の僕たちには向いています。深いところへ無理に潜るより、こういう依頼を安全に片づけて、報告を残す方がいい。実績にもなります」
「ちゃんと帰れる実績、ってこと?」
シエルが言う。
その言葉に、俺は少しだけ目を伏せた。
ちゃんと帰れる実績。
それはたぶん、どんな武勲より先に積み上げるべきものだった。
「それに」
ノアが肩をすくめる。
「昨日ので分かった。こいつの強みは、勝ち筋を作ることじゃなく、崩れ筋を潰すことだ」
「両方やります」
「言うようになったじゃない」
ミラが口元だけで笑った。
そうしてから、彼女は迷いなく札を剥がした。
「受けましょう。今の私たちに欲しいのは大金じゃない。危ない浅層依頼を、きちんと片づけられるって証明よ」
受付へ持っていくと、昨日とは別の受付係が俺たちを見るなり、少しだけ目を丸くした。
「あ、昨日の……」
「はい。この依頼を受けたいんですが」
ミラが札を差し出す。
受付係は文面を確認してから、少しだけ迷う顔をした。
「旧南導水路ですか。最近、途中で引き返す隊が多いんです」
「理由は?」
俺が尋ねると、彼女は肩をすくめた。
「人によって言うことが少しずつ違うんです。針羽蝙蝠が光に寄るとか、床が滑るとか、橋が狭いとか、制水室の手前が嫌だとか」
「つまり、危険の形が整理されていない」
「そういうことになります」
やはりそうだ。
まだ死人は出ていない。
だが、途中撤退が続いている。
こういう依頼が一番厄介で、一番見落とされやすい。
「あの」
受付係が続ける。
「通常報酬は控えめですが、点検経路と危険箇所を詳細に報告していただければ、記録手当がつきます。最近、庁舎側も再調査の必要性を気にしていて」
「記録手当」
ノアが俺を見る。
「ほらな」
「受けます」
ミラが即答した。
受付係は注意事項を読み上げた。
旧導水路内部には浅い残水があること。床の苔と水膜で足を滑らせやすいこと。第三制水室手前に細い石橋があり、そこを渡って点検札を回収すること。針羽蝙蝠は個体としては浅層級だが、灯りに寄るため群れになると混乱しやすいこと。
依頼札を受け取ってギルドを出たあと、俺たちは昨日より丁寧に準備をした。
予備灯石を多めに。投擲用を二つ。滑り止め用の布紐。簡易鉤。細い木杭。
ノアは自分の盾の縁に革を巻き直し、シエルは灯石に巻く薄布を数枚用意した。ミラは細剣とは別に、短い投擲用の刃を腰へ一本だけ差している。
「昨日の反省がちゃんと形になってる」
俺が言うと、ノアが肩をすくめた。
「反省を次で使わない方が無駄だ」
「僕も、今日は灯りを最初から落として持ちます」
シエルが言う。
「見やすい高さと、見落とさない高さは違うって分かったし」
「私は追わない」
ミラが短く言った。
「少なくとも最初の誘いには乗らない」
三人の言葉を聞きながら、俺は少しだけ息を吐いた。
昨日の反省が、もう今日の準備に変わっている。
それだけで、隊としての輪郭が昨日よりはっきり見えた。
旧南導水路は、王都外れの石壁の下に口を開けていた。
低いアーチ。黒ずんだ石。湿った風。外から覗くだけなら、ただの古い排水路にしか見えない。だが内部から流れ出てくる空気は冷たく、長く人が歩いていない場所特有の静けさがあった。
入口の前で、俺は全員を見る。
「今日の隊列は昨日と変えます」
「どう変える?」
ミラが問う。
「先頭はミラさんで同じです。二番手にシエルさん。灯りを中央で管理してほしい。三番手にノアさん。狭所では前へ出てもらいます。僕が最後尾」
「理由は?」
「蝙蝠は光に寄るなら、灯りが前すぎると先頭に群れます。中央なら流れが読みやすい」
「なるほど」
シエルは灯石を胸の高さまで下げた。
「これくらい?」
「ちょうどいいです」
さらに俺は石床へしゃがみ込む。
「あと、今日は三つ守ってください。走らない。振り回さない。叫ばない」
「最後が一番難しそう」
シエルが小さく言う。
「針羽蝙蝠は急な光と大きな音に寄ります。怖くても、まず姿勢を崩さないこと」
「怖がらせる言い方するわね」
ミラが苦笑した。
「怖い場所だからです」
俺は答える。
「ただ、昨日よりは戦いやすい。危険の形が事前に見えているので」
ミラが細剣の柄を軽く叩いた。
「よし。じゃあ行きましょうか」
四人で導水路へ足を踏み入れる。
最初に耳へ触れたのは、細い水音だった。
次に、灯りに溶けきらない天井の影。
そして梁の継ぎ目に白く点々と残る糞の跡。
俺はそれを見た瞬間、灯りの位置と隊列の間隔をもう一度だけ測り直した。
今日は、最初から試される。




