第四話① 途中撤退の理由
旧灰鐘坑道から戻った俺たちが南区の冒険者ギルドへ入った時には、空はすっかり夕暮れ色に沈んでいた。
昼間より人の密度は落ちていたが、それでも依頼帰りの探索者は多い。受付の前では報酬待ちの列ができ、酒場側からは笑い声と木杯の触れ合う音が流れてくる。そこへ土と埃をつけた四人が入っていけば、どうしても目立つ。
「おい、旧灰鐘坑道の札を取ってた連中じゃないか」
「戻るの早くないか?」
「途中撤退だろ。あそこ最近ずっと嫌な感じらしいしな」
そんな声が、あちこちから飛ぶ。
俺は気にしないことにした。気にしたところで、今さら何が変わるわけでもない。
ミラも反応せず、そのまま受付へ進む。ノアは荷袋を肩から下ろし、シエルは外套の裾についた土を軽く払った。
「達成報告です」
ミラが言って、発光苔の入った袋と石喰い鼠の証明部位を受付へ置く。受付嬢は一度それを見て、それから俺たちの顔を見た。
「……旧灰鐘坑道の依頼、ですよね?」
「ええ」
「第二層手前の採取と掃討」
「はい」
受付嬢は袋の口を開き、規定量の発光苔を確認したあと、鼠の尾の数も数えた。途中でわずかに眉が動く。
「達成ですね」
「何か問題が?」
俺が聞くと、彼女は首を振った。
「問題というより、少し驚いています。あの依頼、ここ何回かは途中撤退が続いていたので」
「大怪我は?」
ノアが低く問う。
「幸い、そこまでは。ただ、皆さんが妙に危ない、帰りが嫌な感じだったとしか言わなくて、詳細が曖昧だったんです」
その言い方に、俺は小さく頷いた。
やはりそうだ。
強敵に叩き伏せられたわけじゃない。致命傷を負ったわけでもない。だから危険の形だけがぼやけたまま残る。そういう失敗は、いちばん蓄積しやすい。
ミラが俺を見る。
「書ける?」
「はい」
三話の帰り道、そして坑道の入口でもう決まっていたことだ。
戻ったら報告を残す。今日の危険を、次に使える形にする。
受付の脇の小机へ通され、羊皮紙と炭筆を受け取る。机は狭いが、簡略図を切るには十分だった。
まず入口から第一分岐、第二分岐、第三の折れ角、採取地点までを描く。次に、右側通路だけ反響が薄かったこと、壁際の糞の偏り、偵察個体の出方、採取地点の支柱の劣化、静かになりすぎたタイミング、そして群れの追い立てが帰路で始まったことを順に書き出す。
途中で、受付嬢が炭筆の動きを覗き込み、小さく息を呑んだ。
「……ここまで見ていたんですか」
「見ていないと、たぶん帰れませんでした」
「でも石喰い鼠ですよね。個体としては浅層級でしょう?」
「単体ならそうです」
俺は地図の上を指でなぞった。
「問題はあの場所では、あいつらが前から来ないことです」
「前から来ない?」
「正面から噛みつくんじゃなくて、壁沿いに散って追い立てる。狭い通路と折れ角を使って足を乱す。しかも採取地点の支柱が傷んでいるから、退く判断が遅れると崩れと重なる」
その時、横から別の声が飛んだ。
「大袈裟じゃないか?」
振り返ると、革鎧姿の男が腕を組んで立っていた。三十代前後、日に焼けた顔。仲間らしい二人が後ろにいる。
「石喰い鼠なんざ、浅層の小物だろ。追われたくらいでそこまで言うか?」
「ベイルさん」
受付嬢が困ったように眉を寄せる。
「報告中ですので――」
「聞いてるだけだよ」
ベイルと呼ばれた男は肩をすくめた。
ミラが口を開きかけたが、その前に俺は答えた。
「単体なら、小物です」
「なら問題ねえだろ」
「群れ方と場所が悪いんです」
男は黙った。
俺はそのまま言葉を継ぐ。
「偵察個体が先に出てきて、こっちの隊列と灯りの位置を見た。次に採取地点で一度気配が薄くなる。静かになったところで支柱が鳴って、同時に群れが動き出す」
「……」
「つまり、危険なのは鼠そのものじゃない。狭い退路と崩れかけた支柱、それに追い立ての動きが重なることです」
ベイルの後ろにいた仲間の一人が、小さく顔をしかめた。
「もしかして、この前引き返した連中も」
「たぶん帰り道で追われたんでしょう」
俺は答える。
「でも大怪我じゃないから、“強い敵がいた”とは言えない。何が危険だったのか、自分でも整理しきれなかったはずです」
受付嬢は俺の描いた地図を見下ろしたまま、ゆっくり言った。
「だから途中撤退の理由が、曖昧なままだった……」
「はい」
「だったら、これは残した方がいいですね」
その一言で、周囲のざわめきが少し変わった気がした。
強敵を倒した武勲ではない。
ただ、途中撤退の理由を言葉にしただけだ。
けれど、そういう報告を求めていた人間は、ここにはいたらしい。
受付嬢は顔を上げる。
「少しお待ちください。記録係に確認してもらいます」
「そんな大層なことか?」
ベイルが眉をひそめる。
「大層です」
思ったよりも、俺の声は硬かった。
「こういう場所は、放っておくと次も同じ崩れ方をする」
男は何も言わなかった。
その代わり、受付嬢は小さく頷いて奥へ下がっていった。
しばらくして現れたのは、年配の職員だった。探索者ではなく、ギルド内部で記録と依頼整理を担っている人間らしい。手に帳面を持ち、眼鏡の奥の目が鋭い。
「詳細報告を書いたのは君か」
「……はい」
「少し話を聞きたい。別室へ来てくれ」
俺は机の上の羊皮紙を見下ろした。
書いたのは、ただの報告だ。
だが、ただの報告だからこそ、残る。
「分かりました」
立ち上がると、ミラたちも当然のように一緒に動いた。




