第八話 光と影の芸術論争
犯人は見つかった。
だが、その事実は、アイリス・アークライトの心に、安堵よりも、むしろより深い絶望をもたらしていた。
クロマ。
自らの歪んだ美学のために、世界から色彩を奪おうとする、狂信的な芸術家。
その、あまりに純粋であまりに巨大な狂気を前に、自分たちがいかに無力であるかを、彼女は痛感させられていた。
アイリスは、シルフィの手を固く握りしめ、王城へと急いでいた。
一刻も早く、仲間たちと合流し、この恐るべき敵の情報を共有しなければならない。
そして、何よりも、『無限お茶会地獄』という、個人的な世界の終焉を、回避しなければ。
彼女が作戦会議室へと駆け込むと、そこにはすでにギルとテオが戻っていた。
「姉御! おかえりなさいであります! こちら目撃情報は皆無! 犯人はまるで幽霊のように痕跡を残しておりやせん!」
「ひひひ…! こっちも同じだぜ、隊長。裏社会の情報網にも、こんな、酔狂な魔法を使う奴の情報は一件もねえ。だが、代わりに、面白い噂をいくつか仕入れてきた。この騒動で、モノクローム関連の美術品の価値が高騰してるらしいぜ…」
二人の、全く役に立たない、しかしいつも通りの報告。
そこに、王都中を芸術の嵐で引っ掻き回していた最後の男が、嵐のように飛び込んできた。
光輝魔術師ジーロス。
彼の顔には、疲労と、そして、芸術家としての純粋な憤りが、美しいグラデーションを描いていた。
「アイリス! 聞いてくれたまえ! この王都は腐っている! 美的センスの欠片もない愚か者たちの巣窟だ! 僕が、せっかく、彼らのその退屈な日常に色彩という名の祝福を与えてあげたというのに! 誰も、その価値を理解しようとしないのだよ!」
アイリスは深いため息をついた。
捜査は、完全に振り出しに戻っていた。
彼女が、クロマと遭遇したことを仲間たちに伝えようと口を開いた、まさにその時だった。
会議室の空気が変わった。
窓から差し込んでいた午後の陽光が、ふっと、その暖かさを失う。
部屋の隅の影が、まるで意思を持った生き物のように、不自然に蠢き始めた。
「…な、なんだ…!?」
ギルが、身構える。
その、最も色の濃い、の中から、すうっと、一人の男が音もなく姿を現した。
純白のローブ。漆黒の髪。そして、全ての色を拒絶するかのような、灰色の瞳。
クロマだった。
「…おや。皆様、お揃いで。…捜査会議ですかな?」
彼は、まるで、予定されていた会合に少しだけ遅れてやってきた客人のように、穏やかに、しかし、どこか全てを見下すような、笑みを浮かべた。
「手間が省けました。私も、あなた方に用がありましたので」
その、あまりに不遜な登場。
その、あまりに堂々とした態度。
その全てに、最初に牙を剥いたのは、ジーロスだった。
「…貴様か」
彼の声が、地を這うように低く響いた。
「我が最高傑作を、あの醜悪な鉛の塊へと、貶めてくれたのは」
「おや。あれを、ご覧になりましたか」
クロマは、悪びれる様子もなく、頷いた。
「ええ。あれは私の作品です。あの悪趣味な光の公害から、本来あるべき、静謐な素材の美しさを、取り戻して差し上げただけですよ」
「……………ノン」
ジーロスの口から、か細い、しかし絶対的な、否定の声が漏れた。
「ノンッ! ノン! ノンッ! 断じて、ノンだあああああっ!!!」
芸術家の、魂からの絶叫が、会議室を震わせた。
「貴様のような、美的センスの欠片もない、朴念仁に! 芸術を語る資格などない! 色彩があるからこそ、この世界は、豊かで美しくそして混沌に満ちているのだ! その、生命の輝きを否定するなど、芸術家として、いや生き物として、最大の罪だ!」
ジーロスの、情熱的な芸術論。
それに、クロマは、心底哀れむような目を向けた。
「…まだ、分からないのですか。色彩などという、不確かな主観の産物に囚われているから、あなたの芸術は、いつまで経っても三流なのですよ」
「な、なんだと…!?」
「真実の美は、光と影だけで構成される。それこそが、唯一絶対の、客観的な真理。あなたの、そのけばけばしい光は、ただ、その真理を覆い隠す醜いノイズに過ぎないのです」
光と、影の、芸術論争。
二人の、全く相容れない、しかし、どちらも絶対の自信に満ちた美学が、激しく火花を散らす。
ギルは、「何を言っているのか、さっぱり分からんが、とりあえず、殴ればいいのでありますか!」と拳を握りしめ、テオは、「面白い! 世紀の、芸術対決だ! どっちが勝つか、賭けをしようぜ!」と不謹慎な提案をしていた。
やがて、言葉は、力を伴い始めた。
「…いいでしょう。言葉で分からないのなら、見せて差し上げるしかありませんね」
クロマの灰色の瞳が、冷たい光を放つ。
「この醜い世界を、私が、いかに美しく浄化してみせるか、を」
「面白い! 望むところだ、モノクロームの俗物め!」
ジーロスもまた、その挑戦を受けて立った。
「僕の、光輝魔術の前に、貴様のその陰鬱な白黒の世界がいかに無力であるかを、思い知らせてやろう!」
二人の魔力が、激突した。
ジーロスが両手を広げると、彼の体から、太陽そのもののような、まばゆい黄金色の光が迸った。
「見るがいい! これぞ、生命の輝き! 『サンライト・セレブレーション』!」
光の奔流が、クロマへと殺到する。
だが、クロマは動じなかった。
彼は、ただ静かに、片手を前に差し出した。
その手のひらに、まるで小さなブラックホールのような、全てを吸い込む絶対的な「闇」が生まれた。
ジーロスの黄金色の光は、その闇に触れた瞬間、何の抵抗もなく、すうっと吸い込まれて消えてしまった。
「なっ…!?」
ジーロスの顔から、血の気が引いた。
自らの最強の光魔法が、まるで、存在しなかったかのように無効化されたのだ。
クロマは、静かに告げた。
「言ったでしょう。光あるところに影は生まれる、と。あなたの光が強ければ強いほど、私の影もまた深く濃くなるのです。…無意味ですよ」
クロマの手のひらの闇が、今度は逆に、こちらへと侵食を始めた。
闇が通り過ぎた場所から、急速に色彩が失われていく。
豪華な絨毯も、壁のタペストリーも、仲間たちの服の色さえも。
全てが灰色の濃淡の世界へと塗り替えられていく。
「…ノン…」
ジーロスは、その、あまりに絶対的な力の差に、呆然と立ち尽くしていた。
自らの美学が、光が、いともたやすく否定され吸収されていく、その、悪夢のような光景。
怒り。
屈辱。
そして。
その、心の、奥底で。
彼は、一つの、禁断の感情が芽生えるのを、感じていた。
(…美しい…)
そうだ。
この、自らの全てを否定し飲み込んでいく、絶対的な虚無。
それは、彼の理解と美学の完全に外側にありながら、しかし、どこか、完璧な論理に裏打ちされている。
それは、彼がこれまで一度も見たことのない、恐怖と紙一重の、新しい「美」の形だった。
ジーロスは、震えていた。
怒りと、屈辱と、そして、生まれて初めて自分以外の芸術に心を揺さぶられた歓喜に。
彼は、見つけてしまったのだ。
自らの、人生を懸けて戦うに値する、最高の好敵手を。
アイリスは、その、あまりに危険な芸術家同士の魂の交感に、ただ息をのむことしかできなかった。
戦いは、まだ、始まったばかりだった。




