第七話 色彩の否定者、現る
「―――ですから、私の命令を聞いてください」
アイリスの、か細い、しかし必死のリーダー宣言は、不思議な効力を発揮した。
あれだけ好き勝手に暴論を繰り広げていたギルとジーロスは、互いに顔を見合わせると、不満げながらもひとまず口を閉ざした。
テオもまた、面白そうにニヤリと笑うと、「へいへい、隊長様のご命令とくりゃあ、聞くしかねえな」と、大げさに肩をすくめてみせた。
アイリスは、この一瞬の、奇跡のような統率が崩れないうちに、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「ギルは騎士団詰所へ! 今回の事件の目撃情報を片っ端から集めてください! ただし、尋問の際に壁を殴ったり相手を吊るし上げたりするのは、禁止です!」
「む…! 誠意を見せるための基本でありますが…! …しかし、姉御の命令とあらば!」
「ジーロスは、被害のあった現場を、再度回ってください! あなたの、その芸術家の目で、犯人が残した魔力の痕跡に何かパターンがないか、分析をお願いします! ただし、街の景観をこれ以上勝手に改変するのは禁止です!」
「ノン! 僕の芸術活動を制限するとは! …だが、アイリス。君がそこまで言うのなら、いいだろう。この僕の神の目に懸かれば、犯人の美的センスの欠片もない痕跡など、一瞬で見抜けるだろうからね!」
「テオは、あなたの情報網を駆使して、王都に、このような特異な魔法を使う術師がいないか、裏から探ってください! ただし、犯人の情報に懸賞金をかけるのは禁止です!」
「ちっ、一番効率的なやり方だってのに…。まあ、いいぜ。その代わり、この事件解決の独占取材権は俺様がいただくからな!」
三者三様の不満と欲望を滲ませながらも、仲間たちは、それぞれの持ち場へと散っていった。
アイリスは、その背中を見送りながら、深いため息をついた。
(…これで、よかったのでしょうか…)
神の助けはない。
自らの判断だけで、あの混沌の化身たちを動かしてしまった。
その、リーダーとしての重圧に、彼女の胃は再びキリリと痛んだ。
「アイリス、私たちは、どうするのですか?」
会議室に残ったシルフィが、こてん、と首を傾げた。
「私たちは、私たちで、捜査を続けます。行きましょう、シルフィ」
アイリスは、シルフィの手を固く握りしめた。
この、歩くシステムエラーだけは、絶対に野に放ってはならない。
二人は、再び、色彩を失い始めた王都の街へと、足を踏み出した。
王都は、静かなパニックに陥っていた。
英雄の彫像が鉛の塊となり、王立魔術学院が灰色の墓標と化した。
そして、その芸術テロは、さらにその範囲を広げていた。
大通りに面した花屋。
色とりどりの生命力に満ち溢れていたはずの花々は、全て、その色彩を失い、まるで美しい標本のように、様々な濃淡の灰色へと姿を変えていた。
「…ひどい…」
アイリスは、その光景に胸を痛めた。
犯人には、悪意はないのかもしれない。
だが、その独善的な美学は、確かに、この街から、活気と喜びを奪っていた。
「お花さんたちが、泣いています…」
シルフィが、悲しそうな声で呟いた。
「自分の、本当の色を忘れてしまった、と…」
その、あまりに純粋な、しかし的を射た言葉に、アイリスははっとした。
そうだ。
犯人の目的は破壊ではない。
「塗り替える」こと。
自らの、モノクロームの美学で、この色彩に満ちた世界を上書きすること。
それは、ジーロスと、表裏一体の、狂気。
アイリスが、何かの手がかりはないかと、その場に残された魔力の残滓に意識を集中させた、その時だった。
ふわり、と。
街の、空気が、変わった。
ざわめきが消え、風が止み、まるで世界から音という概念が消え去ってしまったかのような、絶対的な静寂。
そして、アイリスとシルフィの、目の前。
通りの建物の影が、まるで生き物のように、不自然に蠢いた。
その、最も色の濃い影の中から、すうっと、一人の男が音もなく姿を現した。
彼は、純白の、装飾の一切ないローブを、身にまとっていた。
その純白とは対照的に、髪は、闇そのものを固めたかのような艶のある黒。
そして、その瞳は、色という概念が存在しない、ただ光と影の濃淡だけで構成されたかのような、深い灰色をしていた。
その、あまりに無機質で、あまりにこの世の者とは思えない、完璧なまでのモノクロームの存在感。
アイリスは、本能的に悟った。
この男こそが全ての元凶である、と。
「…あなたが…!」
アイリスが、剣の柄に手をかける。
男は、その敵意を全く意に介することなく、静かに、そして、どこか物悲しい響きを帯びた声で、言った。
「…ようやく、お会いできましたね。聖女、アイリス・アークライト」
彼は、自らの胸にそっと手を当て、極めて丁寧な、しかし、どこか人間味のない、お辞儀をした。
「私の名は、クロマ。この、醜い色彩のノイズに満ちた世界を、真実の美へと導く者です」
その、あまりに穏やかで、あまりに狂気に満ちた、自己紹介。
アイリスは言葉を失った。
クロマは、まるで出来の悪い生徒に世界の真理を説く教師のような口調で、続けた。
「あなた方も、もうお気づきでしょう。この世界を覆う『色』というものが、いかに不確かで、いかに見る者の主観に依存した、曖昧なものであるか、ということに」
彼は、色彩を失った花々を、指さした。
「ある者にとって『赤』は情熱の色かもしれない。だが、別の者にとっては、それは、血の色、危険の色だ。あなた方が『美しい』と感じる色彩の組み合わせも、文化や、時代が違えば、それは、ただの醜悪なノイズとなる。…色彩とは、すなわち、嘘なのです。人々の心を惑わし、真実から目を逸らさせるための、最も巧妙な幻術なのです」
その、あまりに歪んだ、しかし、どこか筋の通った、哲学。
アイリスは、反論の言葉を見つけられなかった。
クロマは、静かに天を仰いだ。
「ですが、光と影だけは、違う。光あるところに、影は生まれ、影あるところに、光は存在する。それは、誰の主観にも左右されない、絶対的な宇宙の真理。…光と影だけで構成されたモノクロームの世界にこそ、真実の美は宿るのです」
彼は、そう言うと、再び、アイリスへと、その灰色の瞳を向けた。
「私は、この世界を救いたいのです。醜い嘘偽りの色彩から解放し、真実のモノクロームの世界へと導いてあげたい。…私の、この崇高な芸術を、あなたも理解してくださいますね? 聖女よ」
その問いかけは、もはや狂信者のそれだった。
アイリスは、ついに剣を抜いた。
「あなたの、その歪んだ美学のために、この街の人々がどれだけ悲しんでいるか、分からないのですか!」
その、アイリスの、真っ直ぐな怒り。
それに、クロマは、初めてその能面のような顔に、ほんの少しだけ悲しみの色を浮かべた。
「…残念です。…あなたも、まだ、色彩という呪縛に囚われているのですね」
彼の足元の影が、再び蠢く。
「…ですが、いずれお分かりになるでしょう。…この世界そのものが、私のキャンバスとなった時に」
その、不吉な予言。
クロマは、それだけ言うと、来た時と同じように、すうっと影の中へとその姿を溶かしていった。
後に残されたのは、絶対的な静寂と、あまりに尊大な敵のその狂気の思想に、ただ立ち尽くす、アイリスとシルフィだけだった。
「…アイリス」
シルフィが、か細い声でアイリスの服の裾を、引いた。
「…あの人、なんだかとっても寂しそうでした…」
その、あまりに的を射た一言。
アイリスは、ただ黙って頷くことしかできなかった。
事件は、新たな局面を迎えた。
犯人は、見つかった。
だが、その、あまりに尊大で、あまりに、純粋な狂気を前に、自分たちがいかに無力であるかを、彼女は痛感させられていた。
混沌の捜査は、今、本当の意味で、その困難な幕を開けたのだった。




