第六話 混沌の捜査会議
王城の東棟、アイリス分隊に与えられた作戦会議室。
いまだ壁には、かつてギルが訓練と称して開けた巨大な風穴が、申し訳程度にタペストリーで隠されている。
その中央に置かれた大きな円卓には、王都の地図が広げられていた。
アイリス・アークライトは、その地図を睨みつけながら、これから始まるであろう、人生で最も困難な会議のことですでにキリキリと痛み始めている胃を、そっと押さえた。
(私が、やらなければ…)
彼女は、自らを鼓舞するように、心の中で繰り返した。
『無限お茶会地獄』。
その、あまりに具体的で、あまりに恐ろしい神罰のビジョンが、彼女を冷たい恐怖で支配していた。
だが、その恐怖こそが、今の彼女を動かす唯一の原動力だった。
神の助けはない。
あるのは、理不尽な脅迫と、日の入りという絶望的なタイムリミットだけ。
ならば、やるしかない。
この、どうしようもなく手のかかる、しかし、唯一頼れる分隊員たちを、自らの手で率いるしかないのだ。
やがて、分隊員たちが、ぞろぞろと会議室に集まってきた。
「姉御! 緊急の召集とは、いったい何事でありますか! 犯人が見つかったのでありますか!?」
一番乗りはもちろんギルだった。彼は、すでに臨戦態勢で、その巨大な拳をポキポキと鳴らしている。
「フン、僕の芸術テロリストへの美しき復讐劇の邪魔をするとは、いい度胸だね、アイリス。よほど重要な話なのだろうね?」
次に現れたジーロスは、街で暴れ回っていたせいで、その豪奢な服にどこかの屋台のケチャップが付着していた。
彼は、不機嫌さを隠そうともしない。
「よぉ、隊長。俺はこれから新しいビジネスの商談があったんだがねえ。この歴史的な芸術テロに便乗した、『モノクローム保険』っていう画期的な金融商品のな」
テオは、あくびをしながら、椅子にどっかりと腰を下ろした。
「わあ! 皆さん、お揃いですね! 私、アイリス様の言いつけ通りまっすぐ歩いてきたら、いつの間にか、厨房の巨大なスープ鍋の中にいました!」
最後に、なぜか全身からコンソメスープの匂いを漂わせたシルフィが、にこやかに手を振った。
アイリスは天を仰いだ。
(…もう、帰りたい…)
だが、脳裏に、貴婦人たちの永遠に続く笑顔がちらつく。
彼女は、意を決して、円卓を拳で強く叩きつけた。
「―――静粛に! これより、緊急作戦会議を開始します!」
アイリスは、リーダーとしての威厳を、かろうじて保ちながら、現状を説明し始めた。
王都を騒がす連続芸術テロについて。
犯人は、彫像や絵画から『色』という概念だけを抜き取る、特異な魔法の使い手であること。
そして、この事件が、マナ配送網に深刻な影響を与え、王国の機能そのものを脅かしかねない重大な危機であること。
そして最後に、彼女は、自らの決意を仲間たちに告げた。
「皆さんの意見はよく分かりました。ですが、このままでは話がまとまりません」
アイリスは、一度言葉を切ると、一人一人と目を合わせた。
「犯人の目的は不明。街は混乱し、時間は限られています。今、私たちに必要なのは、個々の主張ではなく、分隊としての統一された行動です。…ですから、私が指揮を執ります。皆の力を貸してください」
その、初めて聞く、アイリス自身の魂からの言葉。
仲間たちは、一瞬だけ、真剣な表情で、彼女の言葉に耳を傾けていた。
だが、その真剣さが三秒と持続しないのが、この分隊の、この分隊たる所以だった。
「なるほど!」
最初に沈黙を破ったのは、やはりギルだった。
「つまり、姉御は、我らの真の力を試しておられるのでありますな! 分かりました! 話は簡単であります! その、不埒な芸術テロリストの居場所を突き止め、このギルが、その顔面が二度と元の色に戻らなくなるまで殴り続ければ、それで解決であります!」
あまりに単純明快な、脳筋の解決策。
そのあまりの野蛮さに、ジーロスが待ったをかけた。
「ノン! ギル! だから君は、美しくないのだよ!」
彼は、すっくと立ち上がると、芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「いいかい諸君。この事件は単なるテロではない。芸術家と芸術家の、魂を懸けた対話なのだ! 犯人は、我々に問いかけているのだよ。『美とは何か』と! ならば、我々がすべきことは、暴力ではない! 芸術による返答だ! 犯人を捕縛し、我が最高傑作である魔術学院の前に縛り付け、百日間、不眠不休で、その美しさを見せつけ続ける! それこそが、彼の歪んだ美学を矯正するための、唯一にして、最高の治療法なのだ!」
脳筋の物理的暴力に対し、ナルシストの芸術的暴力。
どちらも五十歩百歩だった。
その、非生産的な議論に、テオが、心底うんざりしたように割り込んできた。
「ひひひ…。お前ら二人とも頭がお花畑だな」
彼は、指先で金貨を弄びながら、悪魔的な提案を口にした。
「いいか? この事件で一番得をするのは誰か。…俺たちだよ。考えてもみろ。正体不明の芸術テロリストが、街をパニックに陥れている。…これほど、面白い見世物はないじゃねえか。この騒動、上手く便乗すれば、莫大な金が動くぜ? 例えば、『あなたの家をモノクロームから守る! ジーロス公認・七色の魔除け札』とか、『次に狙われるのはどこだ!? 芸術テロリストの犯行予測賭博』とか…」
彼はもはや、事件を解決する気などさらさらなかった。
この混沌を最大限に利用し、自らの懐を潤すことしか考えていない。
アイリスの胃痛が、ついに限界に達した。
喧嘩を始めるギルとジーロス。
その横で、新しい商品の企画書を書き始めるテオ。
彼女が、自らの意思で、リーダーとして初めて開催した作戦会議は、開始五分で完全な無政府状態へと陥っていた。
(…もう、だめだ…。終わった…。私には、この人たちを率いるなんて無理だったんだ…)
彼女がその場に崩れ落ちそうになった、その時だった。
「あのう…」
それまで、黙って、スープの匂いがする自分の指先をくんくんと嗅いでいたシルフィが、おずおずと手を挙げた。
「モノクロームの世界、ですか。…なんだか、夢の中みたいですね。…とっても静かで落ち着いていて…。私は、なんだか素敵だと思います」
その、あまりに純粋で、あまりに的外れな一言。
それが、最後の引き金だった。
アイリスのか細い理性の糸が、ぷつり、と音を立てて切れた。
「―――全員、黙りなさいッ!!!!!」
彼女の、魂からの絶叫が、会議室に響き渡った。
それは、聖女の威厳のある声ではなかった。
ただの、追い詰められた一人の少女の、悲痛な叫びだった。
ギルも、ジーロスも、テオも、そのあまりの気迫に、ぴたり、と動きを止める。
アイリスは、涙目になりながら、一人一人を睨みつけた。
「殴るとか! 芸術とか! 金儲けとか! 素敵とか! もう、どうでもいいです!」
彼女は、深呼吸を一つすると、震える声で、しかし確かな意志をもって、告げた。
「…ですが、私たちは分隊です。…私がリーダーです。ですから、私の命令を聞いてください」
彼女の、その、あまりにか細い、しかし必死の、リーダー宣言。
それは、不思議と、混沌としていた仲間たちの心にすうっと染み渡っていった。
アイリスは、涙をこらえ、震える指で、地図の上を指し示した。
それは、『神』の助けを借りない、彼女自身の、初めての作戦命令だった。
混沌の捜査会議は、こうして、最悪の形で始まり、そして、ほんの少しだけ希望の光が見える形で、新たな局面へと移ろうとしていた。




