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第五話 聖女の決断

『―――「無限お茶会地獄」だ』


 その、あまりに具体的で、あまりに悪趣味な神罰の宣告。

 アイリス・アークライトの脳内にその言葉が響き渡った瞬間、彼女の世界から全ての音が消えた。

 ジーロスが、街行く人々の服をショッキングピンクに変えながら、高らかに芸術論を叫ぶ声も。

 魔法をかけられた市民の、悲鳴とも歓声ともつかない、奇妙な叫び声も。

 混沌の渦の中心で、ただ一人、彼女だけが、絶対的な静寂と絶対的な恐怖の中に取り残されていた。


 彼女の脳裏に、その地獄の光景が、あまりにも鮮明に描き出される。

 王城の壮麗なテラス。

 どこまでも続く純白のテーブルクロス。

 その上には、永遠に補充され続ける、宝石のように美しいケーキと、湯気を立てる高級な茶葉。

 そして、その周りを、完璧な淑女の笑みを浮かべた王都中の貴婦人たちが、終わることなく取り囲んでいる。

「まあ、聖女アイリス様! 本日のお召し物も、まるで暁の女神のようで!」

「先日のお言葉、わたくし、感動で三日三晩、眠れませんでしたのよ!」

 中身のない賛辞。終わらない会話。決して席を立つことの許されない、永遠の社交。

 胃が、焼けるように痛い。

 逃げ出したい。

 だが、逃げられない。

 神が、許さないから。

「ひぃっ…!」

 アイリスは、その場に、へなへなと崩れ落ちそうになった。

 足が震えて、力が入らない。

 これまで、彼女は、数々の死線を乗り越えてきた。

 魔王軍幹部との死闘も、世界の理不尽な初期化(リセット)も、彼女は、仲間たちと、そして脳内の『神』と共に、乗り越えてきた。

 だが、この神罰だけは。

 これだけは、絶対に無理だ。

 死んだ方がマシだった。


 彼女が絶望に打ちひしがれていた、その時だった。

 目の前を、ジーロスに追いかけられた、全身が虹色に輝く衣装に変えられた衛兵が、涙目で走り抜けていった。

「やめてください、ジーロス様! 私は、ただ、パトロールをしていただけで…!」

「ノン! その、くすんだ銀色の鎧こそが、罪なのだよ! 美しき罪には、美しき罰を!」

 その、あまりにいつも通りの、混沌とした光景。

 それが、皮肉にも、アイリスの凍りついていた思考を現実に引き戻した。

(…そうだ。私は、今、絶望している場合ではない…)

 アイリスは、震える膝を叱咤し、ゆっくりと立ち上がった。

 そして、自らの騎士としての思考を、無理やり再起動させる。

 状況を整理するのだ。

 まず、問題は三つある。


 第一に、この芸術テロの犯人。全ての元凶だ。彼を止めない限り、この騒動は終わらない。そして、『神』の怒りも収まらない。

 第二に、その犯人を追って暴走しているジーロス。彼は、もはや、捜査官ではなく、第二の芸術テロリストと化している。彼を止めなければ、王都が、彼の悪趣味な色彩で塗りつぶされてしまう。

 そして、第三に。最も厄介な問題。

 自らの脳内にいる『神』。

 いつもであれば、この複雑に絡み合った状況を、一瞬で見抜き、最適解を示してくれるはずの、絶対的な司令塔。

 だが、今の彼は違う。

 彼は、ただ怒っている。

 ゲーム機が届かないというあまりに個人的な理由で、怒り狂い、冷静な判断能力を完全に失っている。

 彼が下す神託は、もはや神託ではない。

 ただの八つ当たり。

 ただの脅迫だ。

(…いつもの神様ではない…)

 アイリスは、そこで、はっと気づいた。

 そうだ。

 いつもの神様ではないのだ。

 いつもであれば、彼は、もっと効率的で、もっと賢明なはずだ。

 たとえその動機が不純であったとしても、彼の示す道筋は、常に最短で、そして、最も効果的だった。

 だが、今は違う。

 彼はアイリスに攻略法を示していない。

 ただ、「日の入りまでに解決しろ。さもなくば、罰を与える」と、脅しているだけ。

 それはまるで、難しいゲームの攻略に行き詰まり、コントローラーを床に叩きつけている子供のようだった。

(…神様は、今、頼りにならない…)

 その、あまりに不敬な、しかし、あまりに的確な結論。

 それが、アイリスの頭の中に、すとん、と落ちてきた瞬間。

 彼女の中で何かが変わった。

 恐怖が消えたわけではない。

 『無限お茶会地獄』は、想像しただけで、今も胃が縮み上がりそうだ。

 だが、その恐怖の質が、変わった。

 それは、もはや、抗うことのできない絶対的な神罰への恐怖ではなかった。

 それは、理不尽な上司から無茶苦茶な締め切りを突きつけられた部下の、悲壮な決意へと変わっていた。

(…待っていても助けは来ない。…神様のご機嫌が直るのを待っていたら、私は、日の入りと共にお茶会の地獄へと堕とされる…)

 彼女は、ごくり、と喉を鳴らした。

(…ならば…)


「―――私が、やるしかない」


 その、か細い、しかし、鋼の意志を込めた呟きは、誰に聞かれることもなく、王都の喧騒の中へと消えていった。

 だがそれは、確かに、彼女が初めて自らの意志で運命に抗うことを決意した、産声だった。


 彼女は、これまでの旅を思い返した。

 自分は、ただ神の声に従ってきただけだった。

 だが、その声がなくとも、自分には仲間がいる。

 ギル。ジーロス。テオ。シルフィ。

 どうしようもなく手のかかる、混沌の化身たち。

 だが、彼らの力は本物だ。

 バラバラだから、混沌なのだ。

 ならば、自分がその混沌を束ねるリーダーになればいい。

 神の代わりではない。

 ただ一人の分隊長として。

 彼女の脳内に、初めて、彼女自身の作戦が形作られていく。

 それは、『神』の奇策に比べれば、あまりに稚拙で、あまりに当たり前の作戦だったかもしれない。

 だが、それは、紛れもなく、彼女自身の意志だった。


 まず、この混沌を収拾する。

 ジーロスの暴走を止め、彼を分隊に引き戻す。

 次に、散り散りになった分隊員たちを集める。

 ギルと、テオを呼び戻し、おそらくまだ城のどこかで迷子になっているであろうシルフィを探し出す。

 そして、最後に。

 全員で情報を共有し、この芸術テロリストを追い詰める。

 当たり前の手順。

 だが、今のこの状況で、それを実行できるのは、自分しかいない。

 アイリスは、懐から騎士団の緊急連絡用の魔導通信機を取り出した。

 そして、震える指で、分隊の全員に一つの、簡潔な、しかし、有無を言わせぬ命令を送った。


『全員、直ちに王城東棟の作戦会議室へ集合されたし。これは命令です』


 その、力強い、命令の文言。

 それは、もはや、神の操り人形のものではなかった。

 一人の指揮官の言葉だった。

 アイリスは、通信機を強く握りしめた。

 その瞳には、もはや、迷いも恐怖もなかった。

 ただ、自らが下した決断に対する重い責任と、そして、それを必ずやり遂げるという静かな闘志だけが燃え盛っていた。

(神様。見ていてください)

 彼女は、心の内で呟いた。

(あなたの駒は、あなたの助けがなくとも、この理不尽なゲームをクリアしてみせます。…『無限お茶会地獄』だけは、絶対にごめんですから!)

 聖女の、不純な、しかし、切実な決意。

 彼女の本当の戦いは、今、ようやく、始まろうとしていた。

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