第四話 『神』、ブチ切れる
王都は、混沌のるつぼと化していた。
アイリスは、もはや遠い昔となった騎士学校での訓練を思い出していた。
そこでは、統率の取れていない部隊がいかに戦場で無力であるかを、嫌というほど教え込まれた。
そして今、彼女はその「統率の取れていない部隊」の、まさに指揮官だった。
いや、指揮官ですらない。
ただ、暴走する分隊員たちを、なす術なく見ているだけの、哀れな傍観者だ。
「ノン! なんて醜悪な配色だ! 君のその服は、この街の景観を著しく乱している!」
ジーロスは、もはや犯人捜しという当初の目的を忘れ、王都の民衆に対する一方的なファッションチェックという名の芸術テロを開始していた。
彼の指先から放たれる光の魔法によって、質素な服を着た市民が、次々とけばけばしい原色の道化師のような姿に変えられていく。
街のあちこちで上がる、悲鳴と、ほんの少しの笑い声。
騎士団は、救国の英雄であるジーロスを前に、強く出ることができない。
ただ、彼が通り過ぎた後に残された、あまりにカラフルな惨状を、呆然と片付けるだけだった。
(…もう、だめだ…)
アイリスは、こめかみを強く押さえた。
胃が、燃えるように熱い。
ギルは、自分の美学を汚されたことに激怒するジーロスの暴走を、「姉御を悲しませる犯人への、正義の鉄槌でありますな!」と完璧に誤解し、なぜか応援している。
テオは、ジーロスが引き起こした騒動を、「これは新しいファッションの流行になるかもしれん」と、次なるビジネスチャンスとして分析していた。
シルフィは、そもそも、この場にいない。
おそらく、また城のどこかで迷子になっているのだろう。
そして、何よりもアイリスの心を絶望させていたのは、『神』の沈黙だった。
この、どうしようもない状況を打開するための、的確な指示も、理不尽な叱責も、何一つ聞こえてはこない。
(神様は、私を見捨てられたのでしょうか…)
彼女は、孤独だった。
リーダーとしての、重圧。
分隊員たちの、混沌。
そして、『神』の、不在。
その全てが、彼女の精神を限界まで追い詰めていた。
その頃、王城の最も高い塔。
ノクト・ソラリアは、決してアイリスを見捨てていたわけではなかった。
彼は、ただ、それどころではなかったのだ。
彼は、自室の椅子の上で、これまでにないほどの集中力で、目の前の遠見の水盤を睨みつけていた。
水盤には、王国全土のマナ通信網が青白い光の網となって描き出されている。
そして、その網の一点、王都の中央から王城へと至る主要な中継ポイントが、黒く淀んだ魔力によって汚染されていた。
「…チッ。まだ解消されんのか」
ノクトは、忌々しげに舌打ちした。
彼の、完璧な引きこもりライフを脅かす、元凶。
彼の、神聖なる『マナ・スフィアX』の配達を妨害している、唯一の原因。
彼は、この数時間、その魔力の「質」と「発生源」を、神の領域にある情報処理能力を駆使して徹底的に解析していたのだ。
そして、ついに彼は、二つの異なる情報を結びつけることに成功した。
一つは、この、マナ配送網を汚染している、独善的な魂の叫びのような魔力の波長。
そして、もう一つは。
アイリスが、数時間前から、パニック状態で断続的に送り続けてきている、王都の「芸術テロ」に関する現場報告。
水盤に、王立魔術学院の、無残な姿が映し出される。
鉛色の塊と化したジーロスの最高傑作。
そして、その惨状を前に、怒りに我を忘れ街で暴れ回るジーロスの姿。
ノクトは、その映像と、自らが解析した魔力の波長を、頭の中で重ね合わせた。
そして、ついに、全ての線が繋がった。
「…なるほどな」
彼の、乾いた唇から、純粋な理解の声が漏れた。
「この、芸術テロの犯人が放つ魔力と、俺の配送網を妨害している魔力の波長が、完全に一致する、というわけか」
彼は、そこで一度、思考を止めた。
そして、ゆっくりと、その恐るべき結論を反芻する。
(…つまりだ。…俺の『マナ・スフィアX』がいまだに届かないのは…)
彼の、完璧な論理回路が、最終的な答えを弾き出す。
(…この、下らない、三流の、芸術テロのせいだというのか…?)
静寂。
塔の、完璧な静寂が、まるで、嵐の前の静けさのように、彼の精神を支配した。
ゴトリ、と。
彼が手にしていた完璧な温度のコーラのグラスが、机の上に乱暴に置かれた。
彼の顔が、ゆっくりと、しかし確実に、怒りの色に染まっていく。
「…ふざけるな…」
低い、唸り声。
それはやがて、地獄の底から響くような、絶対零度の怒号へと変わった。
「ふざけるなあああああああああっ!!!」
塔全体が、彼の怒りに呼応するように、ビリビリと震える。
机の上のポテチの袋が、ひとりでに破裂した。
「俺の! 俺の、神聖なる、ゲーム機の発売日を! 俺の、完璧な、引きこもりライフの、新たな一ページを! こんな! こんな、どうでもいい、芸術家の、自己満足のせいで! これ以上、待てと、いうのか!」
彼の怒りは、ついに頂点に達した。
もはや、冷静な分析などどうでもいい。
ただ、自らの聖域を汚した、その見えざる芸術家を、完膚なきまでに叩き潰す。
その一点に、彼の全ての思考は収束した。
彼は、脳内の通信回路を、強制的に最大出力で開いた。
その、怒りの矛先が向けられたのは、もちろん、彼の唯一にして最も近くにいる八つ当たりの対象。
聖女、アイリス・アークライトだった。
その頃、アイリスは、ジーロスの暴走をどうにか止めようと、必死に説得を試みていた。
その彼女の脳内に、突如として、これまでにないほど激しく、そして、冷酷な、『神』の絶叫が、叩きつけられた。
『―――おい、新人ッ!!!』
(ひゃっ!? か、神様!? い、生きておられましたか!)
『貴様は、今まで何をしていた!』
その声には、慈悲も、配慮も、何一つなかった。
ただ、純粋な、そして、理不尽な、怒りだけがあった。
『たかが、芸術テロリスト一人、いまだに捕らえられんとは! この無能が! 貴様のその気の抜けた捜査のせいで、我が神聖なる儀式がどれほど遅延していると思っている!』
(し、神聖なる、儀式…!?)
アイリスは、何が起こったのか全く理解できなかった。
だが、その声に込められた、純度百パーセントの私怨の波動だけは、痛いほど伝わってきた。
『いいか、よく聞け、新人! もし、日の入りまでにこの事件を解決できなければ、貴様には神罰を下す!』
(し、神罰…!?)
『そうだ! 貴様が最も恐れるあの地獄を、貴様に与えてやる!』
ノクトは、そこで一度、言葉を切った。
そして、最も効果的で、最も悪趣味な、脅迫の言葉を紡ぎ出した。
『―――『無限お茶会地獄』だ。王城の全ての貴婦人を集め、日の出から日の入りまで、永遠に終わることのない中身のないお茶会を、貴様に続けさせてやる…!』
「ひぃっ…!」
アイリスは、本気で悲鳴を上げた。
それだけは。
それだけは、ご勘弁を。
彼女の脳裏に、宝石のように美しいケーキと、中身のない賛辞の嵐が無限に繰り返される、地獄の光景が浮かび上がった。
彼女の顔から血の気が引いていく。
『分かったな! さっさとやれ! 俺を待たせるな!』
通信は、一方的に切れた。
後に残されたのは、絶対的な恐怖に顔を青ざめさせガタガタと震える、一人の聖女だけだった。
神の助けは、ない。
あるのは、理不尽な脅迫だけ。
彼女は、ついに悟った。
この、絶望的な状況を打開できるのは、もはや、自分自身しかいないのだ、と。
こうして、王国の危機は、聖女にとって、何よりも恐ろしい『神罰』を回避するための絶望的なタイムアタックへと、その姿を変えたのだった。




