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第三話 芸術家の憤怒

 王立魔術学院が鉛色の塊と化した――その一報は、アイリス・アークライトにとって、宣戦布告の鐘の音にも等しかった。

 彼女は、何よりもまず、一人の男の顔を思い浮かべ、血の気が引くのを感じていた。

 光輝魔術師ジーロス。

 魔王を討った英雄の一人であり、アイリス分隊の分隊員であり、そして、自らの美学のためならば国家予算の三パーセントを平然と要求する、王国で最も厄介な芸術家。

 アイリスは馬を駆り、現場へと急いだ。

 祈るような気持ちで。

 どうか、彼が、まだ、この惨状に気づいていませんように、と。

 もちろん、そのささやかな祈りが、天に届くはずもなかった。


 王立魔術学院の正門前は、異様な静寂に包まれていた。

 早朝の講義へ向かうはずの学生や教授たちが、まるで時を止められたかのように立ち尽くし、目の前の、信じがたい光景を、ただ呆然と見上げている。

 アイリスもまた、馬から降り、その光景に言葉を失った。

 そこにあったはずの、プラチナとダイヤモンドで築かれた、悪趣味なまでに煌びやかな学び舎は、跡形もなかった。

 代わりにそびえ立っているのは、まるで巨大な鉛の塊を、無造作に削り出して作ったかのような、無機質で醜悪な灰色の建造物。

 光を吸収し、希望を吸い取り、見る者の魂を重く沈ませるかのような絶対的な「無彩」。

 それは、単に色が失われたのではなかった。

 ジーロスが、その魂の全てを注ぎ込んで創造した「輝き」という概念そのものが、無慈悲に、そして完璧に、殺されていた。

「…ひどい…」

 アイリスのか細い声が、静寂に吸い込まれていく。

 彼女は、恐る恐るその灰色の壁に手を触れた。

 ひんやりとした、金属の感触。

 だが、その奥から、ジーロスの魔力の悲痛な叫びが聞こえるようだった。


「ジーロスは、どこに…?」

 アイリスが、近くにいた老教授に尋ねる。

 老教授は、震える指で中庭の中心を指さした。

 そこに、ジーロスはいた。

 彼は、自らが創り上げた最高傑作の無残な亡骸の前に、ただ一人、背筋を伸ばして静かに立っていた。

 いつも手にしている華やかな扇子もなく、その表情は、まるで能面のように一切の感情が抜け落ちている。

 その、あまりに静かな佇まいが、嵐の前の静けさのように、アイリスの肌をピリピリと刺した。

「ジーロス…」

 彼女が、おずおずと、声をかける。

 ジーロスは、ゆっくりと振り返った。

 その瞳は、虚ろだった。

 彼は、震える指先で、鉛色の壁にそっと触れた。

「…美しい…」

 彼の唇から、誰もが予想しなかった、か細い、うわ言のような言葉が漏れた。

「…完璧だ…。完璧なまでに美しい…。光も、色彩も、情熱も、生命の輝きも、何一つない…。ただ、そこに存在するだけの絶対的な虚無…。これもまた、一つの美の形、なのかもしれない…」

 その言葉に、アイリスはぞっとした。

 彼は、怒っているのではなかった。

 あまりに巨大で、あまりに完璧な「醜」を前に、芸術家としての魂が、その存在意義そのものを見失いかけているのだ。

 ぷつり、と。

 アイリスの頭の中で、何かが切れる音がした。

 それは、聖女としてでも、騎士としてでもない。

 ただ、一人の仲間としての、純粋な叫びだった。

「―――美しくなど、ありません!」

 彼女の声が、静寂を切り裂く。

 ジーロスが、はっ、と顔を上げた。

「これは、ただの暴力です! あなたの魂を踏みにじるための、悪意に満ちたテロです! これを、美しいなどと、認めてはいけません!」

 その、あまりに真っ直ぐなアイリスの言葉。

 それが、引き金だった。

 ジーロスの、虚ろだった瞳にほんの少しだけ光が戻った。

 そして、その光は、次の瞬間、地獄の業火となって燃え上がった。


「―――ノン」


 低い、唸り声。

 それは、やがて、天を衝くほどの絶叫へと変わった。

「ノンッ! ノン! ノンッ! 断じてノンだあああああああっ!!!」

 彼の体から、凄まじい魔力の嵐が迸る。

 中庭の地面が、彼の怒りに呼応するように、ビリビリと震えた。

「そうだ…! そうだった! 僕としたことが、どうかしていた! この、醜悪な塊を、一瞬でも美しいなどと! 芸術家として、最大の屈辱!」

 彼は、自らの頬を、力強く張り飛ばした。

 そして、天を仰ぎ、高らかに宣言した。

「我が美に対する、許しがたい冒涜だ! この僕の魂の結晶を、ただの鉛の塊へと貶めた、美的センスの欠片もない、愚かなるテロリストめ! この僕が、直々に、芸術の何たるかをその魂に刻み込んでやる!」

 光輝魔術師ジーロスは、完全に復活した。

 いや、以前よりも、さらに厄介な、復讐の化身となって。

「アイリス! 君のその真っ直ぐな瞳、気に入ったよ! 君は、僕の芸術の唯一の理解者だ!」

 彼は、アイリスの手を、芝居がかった仕草で固く握りしめた。

「だが、この事件の捜査を、騎士団のような美的センスのない連中に任せることはできない! 芸術に対する犯罪は、芸術家が裁く! それが、宇宙の真理なのだよ!」

 ジーロスは、そう言うと、アイリスが止める間もなく、王都の市街へと駆け出していった。

「待ちなさい、ジーロス!」

「待たない! 僕のパッションはもう誰にも止められないのだよ!」

 彼は、街行く人々を、一人、また一人と捕まえては、独自の「捜査」を開始した。

「そこの君! その、茶色と深緑を合わせたあまりに地味な服装! 君のような、色彩感覚の乏しい人間こそが、今回の事件の犯人に違いない!」

「ひぃ! わ、私はただの農夫で…」

「問答無用! 君に、美の洗礼を授けてあげよう!」

 ジーロスが指を鳴らすと、農夫の質素な服が、一瞬で、目が眩むようなショッキングピンクのフリル付きのドレスへと姿を変えた。

「次! そこの君! その左右非対称な髪型! 不愉快だ!」

 王都のあちこちで悲鳴が上がる。

 ジーロスの、芸術という名の私的制裁が、王都に、新たな、そして、よりカラフルな混沌をもたらし始めていた。

 アイリスは、そのあまりに迷惑な光景に、もはや追いかける気力さえ失っていた。

 彼女は、ただ、天を仰ぎ、このどうしようもない仲間と、そして、未だに沈黙を続ける脳内の『神』の両方に対して、心の底から深いため息をつくことしかできなかった。

 聖女の胃痛は、すでに限界を超えていた。

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