第二十九話 芸術論争の決着
白紙の世界は、消えた。
クロマという一人の芸術家の、孤独な魂が最後に見た、あまりに美しく、あまりに生命力に満ち溢れた五色の光。
その光が、彼の作り出した絶対的な「無」を、内側から優しく塗り替えていった。
最初に色が戻った。
次に光が射した。
そして、最後に影が生まれた。
アイリスたちが立っていたのは、もはや白紙の虚無ではない。
元の『原色の神殿』だった。
だが、その姿は、以前とはまるで違っていた。
虹色に輝いていたはずの水晶の壁は、その輝きを失い、所々にひび割れている。
中央に浮かんでいた『原色の石盤』もまた、その表面の色彩の渦が、まるで嵐の後のように、穏やかに、そして、どこか寂しげに揺らめいているだけだった。
激しい戦いの痕跡。
そして、その中央に、一人の男が静かに倒れていた。
純白のローブを纏った芸術家クロマ。
彼は気を失っているだけだった。
その顔には、もはや苦悩も、狂気もない。
ただ、自らが追い求めた芸術の究極の答えを見つけた求道者のような、穏やかで、そしてどこか満ち足りた表情だけが浮かんでいた。
「…終わった…ので、すか…?」
アイリスのか細い声が、静寂に響いた。
彼女の頬には、まだ、涙の跡が残っている。
「姉御! やりましたな!」
ギルが雄叫びを上げた。
「ひひひ…! ま、俺様の読み通り、ってやつだな!」
テオが、彼の手柄でもない勝利を、自らのものとして宣言する。
「わあ! キラキラが戻ってきました!」
シルフィが、楽しそうに手を叩いた。
仲間たちの、いつも通りの、しかしどこか誇らしげな声。
アイリスは、その声に包まれながら、自らの内に響くもう一つの声に耳を澄ませていた。
『…フン。まあ上出来だ、新人。俺がいなくとも、あの程度の敵はクリアできるようになったか』
(神様…!)
『礼はいらん。それより、さっさと、この茶番を終わらせろ。俺のゲーム機が待っている』
その、あまりにいつも通りの、不遜で、怠惰な声に、アイリスは、心の底から安堵のため息をついた。
そして彼女は、仲間たちの中心に立つ一人の男へと、視線を向けた。
光輝魔術師ジーロス。
彼はまだ、自らが放った『光の協奏曲』の、その残滓の中で、呆然と立ち尽くしていた。
その芸術家の瞳は、倒れているクロマでも、勝利に沸く仲間たちでもなく、ただ自らの手のひらを見つめていた。
「…ノン…」
彼の口から、恍惚としたため息が漏れる。
「…美しい…。ああ、なんて美しいんだ…。完璧な調和ではない。完璧な混沌。…これこそが、僕が生涯をかけて追い求めていた、芸術の最終形態…!」
彼は、自らが、仲間たちの力を借りて偶然にも生み出してしまった、その奇跡の輝きに、完全に心を奪われていた。
そして彼は、ゆっくりと、倒れているクロマの元へと歩み寄った。
数分後。
クロマは静かに目を覚ました。
彼が、最初に目にしたのは、自らの顔を心配そうに、しかし、どこか芸術品でも鑑定するかのように覗き込んでいる、ジーロスの顔だった。
「…僕は…負けたのか…」
「ノン。君は負けたのではない」
ジーロスは、扇子を広げ、優雅に、しかしどこか諭すように、言った。
「君は、新たな芸術の扉を開いたのだよ。僕と共にね」
その、あまりに尊大で、あまりにジーロスらしい言葉。
クロマは、ゆっくりと上半身を起こした。
そして、目の前の、このけばけばしい男と、その仲間たちが放つ、混沌とした、しかし、どこまでも温かい魂の輝きを、改めて見つめた。
彼は静かに頭を下げた。
「…参りました。…私の完敗です」
彼は、ジーロスの前にひざまずいた。
「ジーロス殿。…いや、師よ。どうか、この未熟なる私を、あなたの一番弟子にしていただけないだろうか。あなたの、あの、混沌の美の神髄を、この私に教えていただきたい!」
その、あまりに真摯な、そして、あまりに極端な申し出。
ジーロスは、満更でもないという顔で、扇子をぱちりと鳴らした。
「フン! よかろう! この僕の芸術の素晴らしさに、ようやく気づいたようだね! 君のその目はまだ腐ってはいなかったようだ! この僕が、直々に、君を真の芸術家へと育て上げてあげよう!」
あまりに安易な、師弟関係の成立。
アイリスは、その光景に、新たな、そして、より面倒くさい、混沌の予感を感じていた。
その予感は、すぐに的中する。
「師よ! まず何から始めればよろしいでしょうか! この私のモノクロームの美学は、今すぐ捨てるべきでしょうか!?」
「ノン! 捨てる必要はない! 君の、そのストイックなまでのモノクロームへの執着も、また一つの個性だ! それを、いかにして、我々のこの混沌の色彩と融合させるか! それこそが、我々の新たな芸術的テーマなのだよ!」
二人の、あまりに面倒くさい芸術論議が、早くも始まってしまった。
アイリスは、こめかみを強く押さえた。
「…ところで、姉御」
ギルが、部屋の中央で静かにその輝きを失いつつある『原色の石盤』を指さした。
「この、でかい石は、どうするのでありますか? このまま放置しておくのも危険な気がしますが…」
その、あまりに真っ当な問い。
テオが、すかさず口を挟んだ。
「ひひひ…! 決まってるだろうが! こいつは俺様がいただく! これだけの古代の遺物だ! 国宝級の価値があるぜ!」
「ノン! 待て、テオ!」
その、下品な提案を、ジーロスが一喝した。
「この神聖なる芸術の源泉を、金で汚すなど、許さん! …それに、僕に素晴らしいアイデアがある!」
ジーロスは、その石盤を、うっとりと眺めた。
「この石盤は、確かに危険な力を持っている。だが、その力は、使い方次第で最高の芸術にもなり得る。…そうだ!」
彼は、手を、ぽん、と打った。
「この石盤を王都の中央広場に移設するのだ!」
「はあ!?」
「そして、僕の光魔法と、クロマ君の影の魔法を組み合わせ、この石盤の力を制御する! 王都全体を、一つの巨大なキャンバスとして! 季節や、時間によって、その色彩を自由自在に変化させる、壮大な光のイルミネーションを創り出すのだ! それこそが、この戦いのフィナーレを飾るにふさわしい、最高の平和のモニュメントとなるだろう!」
その、あまりに壮大で、あまりにジーロスらしい、提案。
そして、その隣で、彼の新しい一番弟子が、目を輝かせて激しく頷いている。
「素晴らしい! 素晴らしいご提案です、師よ! その、光と影の協奏曲! それこそが、我々が目指すべき、新たな芸術の地平線!」
アイリスは、もはや、何も言う気がしなかった。
彼女の脳裏に、夜な夜な、悪趣味な七色の光でライトアップされ、安眠を妨害される、王都の未来の姿が、鮮明に浮かび上がっていた。
だが、そのあまりに馬鹿馬鹿しい提案に、意外なところから賛同の声が上がった。
「…面白い。…面白いじゃねえか、その話」
テオだった。
「…ひひひ…。王都全体がライトアップ、ねえ。…なるほどな。新しい観光名所。…観光客が増える。…宿泊施設が儲かる。…土産物が売れる。…そして、その利益の一部が俺様の懐に…!」
彼は、その、芸術という名の巨大な公共事業の裏に、莫大なビジネスチャンスを見出していた。
「…俺は賛成だぜ、ジーロス!」
「姉御! 俺も賛成であります! なんだかよく分かりませんが、とても情熱的な計画であります!」
「わあ! 王都がキラキラに! 素敵です!」
ギルも、シルフィも、その、お祭り騒ぎのような計画に、手放しで賛同していた。
アイリスは、孤立無援だった。
(神様…!)
彼女が、最後の助けを求めた、その時。
脳内に響いたのは、心底どうでもよさそうな、しかし、どこか楽しげな声だった。
『…フン。好きにさせろ。…あと、そのライトアップのネーミングライツは、ソルトリッジ社に高値で売りつけてやれ。…面白い限定ポテチが、開発されるかもしれんからな』
『神』までもが、この混沌の計画に乗ってしまった。
アイリスは、深いため息をついた。
そして、目の前で、目を輝かせながら新たな芸術論議を始めている師弟と、その周りでそれぞれの欲望を剥き出しにしている仲間たちを、見渡した。
(…まあ、これも、悪くはないかもしれませんね)
彼女の、心からの諦めの言葉と共に、この、長くて、面倒くさくて、そして、どこか奇妙で楽しかった、芸術を巡る戦いは、その本当の終わりを告げようとしていた。
王都に、新たな、そして最も迷惑な観光名所が誕生した、その瞬間だった。




