第二十八話 魂の色
『―――お前たち自身が、この世界に、新たな情報を描き込め』
その、あまりに不遜で、あまりに絶対的な、しかし、どこまでも信頼できる『神』の声。
アイリスの脳内に響き渡ったその『神託』は、絶望という名の白紙に閉ざされていた彼女の心に、一滴の、しかし、どこまでも鮮やかなインクを落とした。
(情報を…描き込め…?)
彼女は、その言葉の意味を反芻した。
クロマは、この世界から、全ての情報を消し去った。
色も、形も、光も、影も。
だから、何も見えない。
何も、届かない。
ならば、自分たちが、この世界に新たな「情報」を与えればいい。
攻撃ではない。
破壊ではない。
ただ、自分たちがここに「在る」という、その事実を、この白紙の世界に刻み込めばいい。
アイリスは、ついに、その『神託』の真の意味を理解した。
それは、もはや、戦術ではなかった。
存在そのものをぶつけ合う魂の対話。
彼女は、ゆっくりと、立ち上がった。
その瞳には、もはや、絶望の色はない。
ただ、絶対的な司令塔への信頼と、そして、かけがえのない仲間たちとの確かな絆だけが、燃え盛っていた。
彼女は、何も見えない白紙の世界に向かって叫んだ。
それは、『神』の言葉を代行する聖女の声ではなかった。
仲間を信じ、最後の戦いへと導く、一人のリーダーの、魂の叫びだった。
「―――みんな! 聞こえますか! 私たちの本当の『芸術』を見せる時が来ました!」
その力強い声に、白紙の世界のあちこちで膝をついていた仲間たちが、はっ、と顔を上げた。
「姉御…!」
「アイリス…!」
「隊長…!」
「アイリス様…!」
声は聞こえる。
だが、姿は見えない。
その、不安と恐怖に満ちた仲間たちの気配を、アイリスは肌で感じていた。
彼女は、最後の、そして、最も奇妙な命令を下した。
「攻撃ではありません! 魔法を放つのでもありません!」
彼女は、一度、息を吸った。
「みんなの魂の色を、ただ、燃え上がらせてください! みんながみんなであるという、その証を! この真っ白なキャンバスに叩きつけるのです!」
魂の、色。
その、あまりに詩的で、あまりに抽象的な、命令。
だが、その言葉は、不思議と、混沌とした仲間たちの心にすうっと染み渡っていった。
彼らは、理解したのだ。
リーダーが、何を求めているのかを。
「…うおおおおおおおっ!」
最初に応えたのは、激情のギルだった。
「見ていてください、姉御! これが俺の魂の色でありますぞ!」
彼は、もはや、敵を殴ろうとはしなかった。
ただ、自らの心の中心にある、一点の、純粋な感情だけを見つめていた。
姉御を守りたい。
ただ、それだけ。
その、あまりに単純で、あまりに、真っ直ぐな「情熱」が、彼の全身から迸った。
それは、もはや、闘気のオーラではなかった。
全てを焼き尽くす地獄の業火。
彼の、存在そのものを証明する、絶対的な「赤」だった。
「ノン! 僕の出番のようだね!」
次に立ち上がったのは、ジーロスだった。
「見るがいい、クロマ! そして、我が愛すべき混沌の仲間たちよ! これこそが、光と影の、そして、秩序と混沌の、全てを超越した僕の芸術だ!」
彼はもはや、魔法を放とうとはしなかった。
ただ、自らが最も美しいと信じる、その「美学」そのものを体現しようとした。
完璧なポーズ。
完璧な表情。
そして、その、完璧なナルシシズムから放たれる、絶対的な自信の輝き。
それはもはや、光の魔法ではなかった。
彼自身の存在が光そのものとなった、究極の「金」だった。
「ひひひ…! 面白い! 面白いじゃねえか。その博打、乗ったぜ!」
テオが立ち上がった。
彼の、詐欺師としての魂が、この、人生最大の大博打に震えていた。
「見てやがれ、クロマ! 俺様の魂の価値を、てめえに教えてやる! この世の全ての富は俺様のものだ!」
彼はもはや、金貨を投げようとはしなかった。
ただ、自らの心の奥底で燃え盛る、底なしの「欲望」だけを解放した。
それは、聖も俗も全てを飲み込み自らの価値へと変えてしまう悪魔的な輝き。
何者にも屈することのない「欲望」の「黄」だった。
「…はい! 私もやります!」
シルフィが立ち上がった。
彼女は、難しいことは何も考えなかった。
ただ、願った。
お花が、また色とりどりに咲きますように。
蝶々が、また楽しげに舞いますように。
この寂しい世界が、また元の賑やかな温かい世界に戻りますように、と。
彼女の純粋な「本能」が祈りとなった。
その小さな体から溢れ出したのは、春の木漏れ日のような、どこまでも優しく、どこまでも生命力に満ちた光。
全ての生命の始まりの色。
「天然」の「緑」だった。
そして最後にアイリス。
彼女は、剣を構え直した。
脳内には、『神』の声が響いている。
背後には、仲間たちがいる。
ギルの、情熱。
ジーロスの、美学。
テオの、欲望。
シルフィの、純粋さ。
その、全ての混沌を信じる。
それこそが、リーダーである自分の役割。
彼女の心に、一つの、確かな光が灯る。
それは、どんな絶望の闇をも打ち破る、どこまでも真っ直ぐで、青い光。
聖女の、そして、一人の騎士の、「希望」の「青」。
赤、金、黄、緑、そして、青。
五つの魂の色が、白紙の世界に灯った。
それは、クロマが消し去ることのできない、彼ら自身の「存在証明」だった。
それは、絵の具ではなかった。
ただそこに「在る」という、絶対的な事実。
五つの色は、混じり合おうとはしなかった。
ただ、それぞれの魂の形を主張するように、激しく、そして美しく、輝いている。
赤は、より熱く。
金は、より気高く。
黄は、より深く。
緑は、より優しく。
そして青は、その全ての混沌を包み込むように、どこまでも澄み渡っていた。
その、あまりに生命力に満ち溢れた色彩の奔流を前に。
クロマは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
彼の、完璧なはずの白紙の世界が、今、彼が最も醜いと否定し続けてきたはずの「色」によって侵食されていく。
だが、その光景は、彼が想像していたような、醜悪なものではなかった。
それは、彼が生涯をかけて追い求めてきたどんな芸術よりも、力強く、そして、美しかった。
完璧な調和ではない。
完璧な混沌。
それこそが、生命の本当の姿。
「…ああ…」
彼の、灰色の瞳から、一筋の透明な雫がこぼれ落ちた。
それは、彼が、生まれて初めて流す涙だった。
「…美しい…」
彼の、か細い、震える声が響き渡る。
「…私の求めていた、真実の美は…。ここにあったのか…」
その、最後の言葉と共に、彼の体からふっと力が抜けた。
彼を覆っていた、全てのものを拒絶するかのような冷たいモノクロームのオーラが、まるで陽光に溶ける朝霧のように静かに消え失せていく。
支えを失った彼の体は、ゆっくりとその場に崩れ落ちた。
だが、その顔には、もはや苦悩も狂気もなかった。
ただ、自らが追い求めた芸術の究極の答えを見つけた求道者のような、穏やかで、そしてどこか満ち足りた表情だけが浮かんでいた。
彼の孤独な魂は、最後に救われたのかもしれない。
自らが否定し続けた、美しい混沌の光の中で。
究極の芸術対決は決着した。
後に残されたのは、五色の魂の輝きと、そして、その中心で静かに涙を流す一人の聖女と、気を失って倒れる一人の芸術家の姿だけだった。




