第十五話 芸術家の鑑定眼
「―――あの、僅かな墨の『かすれ』。それこそが、この完璧な絵画における、唯一の不協和音。…そして、この無限再生の魔法陣の核だ!」
ジーロスの、芸術家としての、神がかりの鑑定眼が、そう断言した。
だが、その、あまりに専門的で、あまりにマニアックな指摘の意味を、戦闘の真っ只中にいる仲間たちが、即座に理解できるはずもなかった。
「かすれ、でありますか!? ジーロス殿! それが、一体、何だというのでありますか!」
ギルが、墨の虎の猛攻を、その巨大な体で受け止めながら叫ぶ。
虎の爪が、彼の鋼鉄の鎧をガリガリと削り、火花を散らしていた。
「ひひひ…! おい、ナルシスト! もったいぶってねえで、さっさと攻略法を言いやがれ!」
テオもまた、墨の兵士たちが投擲してくる墨の槍を身をかがめてかわしながら、悪態をついた。
天井では、巨大な龍が次のブレスを溜め込んでいる。
状況は一刻を争っていた。
その、仲間たちの焦燥を、ジーロスは扇子で優雅に一扇ぎした。
「ノン! 落ち着きたまえ、諸君! 芸術とは、焦って鑑賞するものではないのだよ!」
彼は、もはや、戦場にいるという自覚さえ失っているようだった。
ただ、好敵手クロマが残した、この、美しくも厄介なパズルを解き明かすことだけに、その魂を燃やしていた。
「いいかい? この部屋の全ての魔物は、あの壁の絵画から、魔力を供給されて再生している。それは、君たちでも分かるだろう。だが、ただ闇雲に壁を攻撃しても、意味はない。それでは、ただの器物損壊だ。芸術に対する冒涜だよ」
「では、どうしろと!」
アイリスが、龍のブレスを剣で弾きながら、叫んだ。
ジーロスは、うっとりと目を細めた。
「…『修正』するのさ」
「…修正?」
「そうだ。この完璧な水墨画に、ただ一つだけ残された作者の『失敗』。あの、墨のかすれ。あれこそが、この巨大な魔法陣の歪みの中心だ。我々がすべきことは、破壊ではない。あの歪みを正し、この絵画を、作者の意図を超えた、真に『完璧な』芸術作品へと昇華させてやることなのだよ!」
その、あまりに芸術家らしい、そして、あまりに戦場には不向きな発想。
アイリスは眩暈を覚えた。
だが、彼女は決めたのだ。
この、混沌とした仲間たちを、信じると。
「…分かりました! 具体的にどうすればいいのですか!」
「フン。話が早いじゃないか、我がプロデューサーよ!」
ジーロスは、満足げに頷くと、自らの壮大な、そして、面倒くさい作戦計画を語り始めた。
それは、もはや、戦闘ではなかった。
一つの、共同作業による、芸術作品の創造だった。
「まず、僕が、あの歪みの中心に、正確な『修正点』をマーキングする! だが、それには寸分の狂いも許されない、極限の集中力が必要だ! その間、君たちには、僕をあの醜悪な墨の染みどもから、守ってもらわなければならない!」
「つまり、私たちがあなたの盾になれ、と!」
「ノン! 盾、などという無粋な言葉を使うな! 君たちは、僕というメインアーティストが、最高のパフォーマンスを披露するための、舞台装置なのだよ!」
その、どこまでも上から目線の物言いに、ギルとテオの額に青筋が浮かぶ。
だが、アイリスは構わなかった。
「分かりました! 全員、ジーロスの護衛に! 彼が詠唱を終えるまで、何人たりとも近づけるな!」
彼女の、リーダーとしての力強い号令が、響き渡る。
ギルが、雄叫びを上げ、虎と兵士たちの前に、立ちはだかった。
テオも、舌打ちしながら、龍の注意を引くため、挑発的な支援魔法(という名の、ただの悪口)を放ち始める。
「ひひひ…! おい、そこの墨トカゲ! お前さんの、そのだらしない飛び方は、なんだ! もっとこう、シャキッとしやがれ!」
その下品な挑発に、龍は完全に怒り狂った。
混沌の防衛線が、展開される。
その中央で、ジーロスは、目を閉じ、精神を集中させていた。
「…見るがいい。これこそが、僕の芸術家としての真骨頂…」
彼の指先に、一本の、針のように細く、そしてどこまでも純粋な、光の線が生まれた。
それは、これまでの彼の、派手で、けばけばしい魔法とは、全く違う。
ただ、ひたすらに精密で繊細な光の一点だった。
「…見えたぞ。クロマ、君の魂の迷いが…!」
ジーロスは、その光の線を、まるで一本の絵筆のように操る。
そして、龍が描かれていた、壁の一点。
彼が指摘した、あの、僅かな墨のかすれの上に、寸分の狂いもなく、その光の筆で一つの小さな円を描いた。
まるで、修正の赤ペンを入れるかのように。
「―――よし! マーキングは完了した! アイリス! シルフィ! 次は、君たちの出番だ!」
ジーロスが、叫ぶ。
「シルフィ! 君の矢を一本貸したまえ!」
「は、はい!」
シルフィが、おずおずと、一本の矢をジーロスに手渡す。
「そして、アイリス! 君のその、聖女としての清らかなる魔力を、この矢に注ぎ込むのだ! 僕の、この、けばけばしい、情熱の光では、この、静謐な水墨画の、世界とは、調和しない! 必要なのは、もっと、純粋で、無垢な、光だ!」
(私の…魔力…?)
アイリスは、一瞬、戸惑った。
自分は、騎士だ。
ジーロスのような、専門的な魔術の訓練を受けたことは、一度もない。
だが、彼女は知っていた。
いつからか――『神』の声を聞き、聖女として人々の前に立つようになってから――自らの内に、確かに、温かい力の源流が生まれていることを。
それは、祈りに応えるように、仲間を守りたいと強く願う時にだけ姿を現す、不思議な力。
騎士の技でも、魔術師の魔法でもない。
人々が彼女を『聖女』と信じる、その祈りが形になったかのような、聖なる力。
アイリスは、頷いた。
彼女は、ジーロスが持つ矢の、その矢尻に、そっと手を触れる。
そして、自らの聖なる力を、静かに流し込んでいく。
矢は、淡い、しかし、温かい、純白の光を帯び始めた。
「素晴らしい! これだ! これこそが、この絵画に最後の仕上げを施すための、完璧な絵の具だ!」
ジーロスは、その光り輝く矢を、シルフィに返した。
「シルフィ! この矢で、僕が印をつけたあの一点を射抜きなさい! いいかい? 破壊するのではない。ただ、そっと、光を届けるように、だ!」
「…はい! やってみます!」
シルフィは、深く息を吸った。
彼女は弓を構える。
そのエメラルド色の瞳が、遥か壁の一点を正確に捉えた。
ギルとテオが、最後の力を振り絞り、敵の猛攻を食い止めている。
その一瞬の静寂。
シルフィは、矢を放った。
―――ヒュッ。
風を切り裂く音。
光の矢は、一本の白い軌跡を描いて、墨の魔物たちの間をすり抜けていく。
そして。
―――トス。
と、小さな可愛らしい音を立てて、ジーロスが印をつけた壁の一点に、深々と突き刺さった。
その瞬間。
時が、止まった。
虎も、龍も、兵士たちも、ぴたり、と動きを止める。
そして、矢が突き刺さったその一点から、まるで水面に波紋が広がるかのように、純白の光が壁全体へと広がっていった。
光が刺さった場所から、描かれていたはずの水墨画が、すうっとその輪郭を失っていく。
それは、破壊ではなかった。
ただ、墨が紙に溶けていくように、絵画そのものが、壁の中へと還っていく。
数秒後。
そこには、もはや、何の絵も描かれていない、ただの、灰色の壁だけが、残されていた。
第二の試練は、こうして攻略された。
脳筋の剛腕でも、詐欺師の悪知恵でもなく、ただ一人のナルシストの、常人には理解不能な美学によって。
アイリスは、自らが率いるこの混沌の部隊の、底知れない可能性に、改めて身を震わせた。




