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第十一話 光と影の道標

 アイリスが自らの意志で下した、初めての作戦命令。

 それは、『神』の神がかりの奇策に比べれば、あまりに地味で、あまりに非効率な、人間臭い作戦だった。

 だが、その不器用な連携は、確かに機能していた。


「ノン! あちらの壁の影の落ち方が不自然だ! 他の壁よりも、〇・三パーセント、光の吸収率が高い!」

 ジーロスが、扇子で遠くの壁を指し示す。彼の目は、もはや芸術家のものではなく、僅かな色の違いも見逃さない、熟練の鑑定士のそれだった。

「おお! ジーロス殿! 確認するであります!」

 ギルが、その壁を、拳でコンコンと優しく叩く。彼の、城壁すら砕く剛腕は、今や、壁の内部構造を探るための繊細な聴診器と化していた。

「姉御! この壁、他よりも少しだけ軽い音がしやすぜ!」

「よし! テオ、記録を! 私たちは、今、三番目の分岐を右に曲がった…」

 アイリスの指示を受け、テオが羊皮紙に無骨な地図を描き込んでいく。

 その横で、シルフィは、じっと耳を澄ませていた。

「…アイリス。…こっちの道から、なんだか少しだけ悲しい風が吹いてきます…」


 一歩、また一歩と、一行は、その無限に見えた灰色の迷宮を、確実に、しかし、亀の歩みのように進んでいった。

 一時間が経過した。

 彼らは、まだ、迷宮の入り口から数百メートルしか進んでいない。

 アイリスの額に焦りの汗が滲む。

(…だめだ…。このペースでは、日の入りまでに到底間に合わない…!)

 脳裏に再び、貴婦人たちの永遠に続く笑顔が、ちらつく。

 胃がキリリと痛んだ。

 仲間たちの間にも、少しずつ、疲労と、苛立ちの色が見え始めていた。

「ちくしょう! まだ着かねえのかよ! 俺の足が棒になっちまうぜ!」

「ノン! この、単調な灰色の連続! 僕の美的センスが悲鳴を上げている!」

 テオが悪態をつき、ジーロスが嘆く。

 その一行の前に、ついに、最大の難関がその姿を現した。

 巨大な円形の広間。

 そして、その壁には、寸分違わぬ、全く同じに見える八つの扉が並んでいた。

「…嘘、でしょう…」

 アイリスのか細い声が、静寂に響いた。

 これまでの一本道とは違う。

 八分の一の選択。

 一つでも間違えれば、また振り出しに戻るか、あるいは、もっと厄介な罠が待っているかもしれない。

 これまでの、地道な調査方法では、時間がいくらあっても足りなかった。

 誰もが絶望に顔を曇らせた、その時だった。


「…フム。…なるほどね」


 ジーロスの口から、静かな、しかし、確かな歓喜に満ちた声が漏れた。

 彼は、扇子で口元を隠しながら、その八つの扉を、まるで、美術館に飾られた八枚の絵画を鑑賞するかのように、うっとりと眺めていた。

「…面白い。面白いじゃないか、クロマとやら。…君は、ただの、モノクロームかぶれの俗物ではなかったようだね」

「ジーロス? あなた、何を…」

「アイリス! 君たちは、根本的に、この試練を間違えている!」

 ジーロスは、振り返ると、芝居がかった仕草で一行を指さした。

「これは、ただの迷路ではない! これは、一つの、完成された芸術作品なのだよ!」

 その、あまりに場違いな芸術論。

 テオが、「また、始まったぜ」と、呆れたように首を振る。

 だが、ジーロスの目は、いつになく真剣だった。

「君たちは、この迷宮を、ただの壁と道としてしか見ていない! だから迷うのだ! これは壁ではない! これはキャンバスだ! そして、クロマという芸術家は、この巨大なキャンバスに、『光』と『影』という二色の絵の具だけで、一つの壮大な物語を描いているのだよ!」

 彼は、自らの芸術論に酔いしれていた。

「いいかい? 真の芸術作品というものは、必ず、見る者の視線を、一つのクライマックスへと導くように、計算され尽くされている。この八つの扉も、一見同じに見えて、その僅かな影の濃淡、扉の表面の光の反射率、その全てが、一つの正しい『道』を指し示しているはずなのだ!」

 ジーロスは、そう言うと、懐から小さな水晶のプリズムを取り出した。

「さあ、始めようか。芸術家と、芸術家の、魂の対話を」

 彼は、そのプリズムを宙に浮かべると、自らの光魔法をその一点に集束させた。

 プリズムから放たれた、一本の純白の光の筋が、まるでサーチライトのように、広間の中をゆっくりと照らし始める。

 ジーロスは、目を細め、その光がそれぞれの扉に当たった時の影の変化を、食い入るように見つめていた。

「…ノン。この扉の影は硬すぎる。光を拒絶している。…こちらの扉は影が薄っぺらい。何の物語性も感じられない…」

 彼は、まるで、ワインの味を吟味するソムリエのように、一つ一つの影の「味」を批評していく。

 仲間たちは、その、あまりに理解不能な光景を、ただ呆然と見守るだけだった。

 やがて、ジーロスの光の筋が、八つの扉のうち一つを照らし出した、その瞬間。

 彼の目が、カッと、見開かれた。

「…これだ…!」

 彼は、震える指で、その扉を指さした。

 その扉に落ちる影は、他のどの影とも違っていた。

 それは、ただの黒い染みではなかった。

 そこには、深い哀しみと、そして、その奥に、ほんの少しの希望の光が同居しているかのような、複雑で、物語性に満ちた、深淵の如き影が落ちていた。

「素晴らしい! なんという絶妙なコントラストだ! この影こそが、クロマが、我々を導こうとしている、唯一の道標! 光と影のアンサンブル! これこそが、この芸術作品の主題なのだよ!」

 ジーロスは、もはや、恍惚の表情を浮かべていた。

 彼は、この、醜悪なはずのモノクロームの迷宮の中に、自分と同じ芸術家の、魂の輝きを見出してしまったのだ。


「…アイリス」

 ジーロスは、振り返った。

 その顔には、絶対的な自信が満ち溢れている。

「僕を、信じたまえ。あの扉の先に、道はある」

 アイリスは、迷った。

 だが、彼女は決めたのだ。

 この、混沌とした仲間たちを信じると。

「…分かりました。ジーロス。あなたを信じます」

 彼女は頷いた。

 一行は、ジーロスが指し示したその扉へと、ゆっくりと歩みを進める。

 ギルが、重々しい扉を押し開ける。

 その先にあったのは、もはや迷宮ではなかった。

 どこまでも続くかのような、一本の真っ直ぐな道。

 そして、その道の遥か彼方。

 次の、試練の舞台であろう、新たな扉が、ぼんやりと光って見えた。


「…やった…! やりましたね、ジーロス!」

 アイリスが、歓喜の声を上げる。

「フン。当然だよ。美は、常に真実へと通じているのだからね」

 ジーロスは、誇らしげに胸を張った。

 アイリスは、その、あまりに頼もしい(そして、相変わらず、傲慢な)仲間の背中を見つめていた。

 彼女は、初めて、光輝魔術師ジーロスの、その奇抜な言動の奥にある本物の『才能』を目の当たりにした。

 それは、神の完璧な指示とは違う、不確かで、しかし人間らしい、確かな光だった。

 聖女の、リーダーとしての新たな一歩は、この光と影の道標によって、確かに照らし出されようとしていた。

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