第二話③
「え……がん、ばる……?」
「うん! お兄ちゃんね、お仕事だけじゃなくって、魔法の訓練いっぱいしてるんだ! 女王様をやっつけて、グラウ兄ちゃんの中の悪魔を追い出すんだって!」
頭がガンガンと鳴る。無邪気な声が胃を圧迫して吐き気を催す。
目の前の子どもが別のものに見える。これはなんだ。なんなんだ。
この村に、自分の味方は一人もいないのか?
「お姉ちゃん?」
それが手を伸ばす。
「――いやっ!」
嫌悪感が体を動かした。
手の平に衝撃が走る。小さな体が尻もちをつく。
あ、と思った時には遅かった。
呆然と自分を見上げる目。それがゆっくりと涙で覆われる。
やめろ。そんな目でこちらを見るな。
「ふっ、ぅ……わぁぁああああ~~ん!」
「ケイン!?」
泣き声に気付いたチャーリーたちが、急いでこちらに駆け寄ってきた。
その中には当然、彼もいる。
「ケイン、リリィちゃん、どうしたんだい? なにがあった?」
「え、えっと……」
「ケイン、立てる? どっか怪我した?」
「うええぇぇぇ~~!」
チャーリーがリリィとケインを見比べ、泣き止まないケインをバラットがなだめる。
「ひとまず、二手に分かれよう」
グラウがそう言った。
「リリィ、こっちに……」
手が伸ばされる。
嫌悪感が肌の内側を走った。
殺される。宝石にされる。死にたくない、死にたくない!
指先がこちらに届く前に、降り積もった苛立ちが恐怖となって爆発した。
「来ないで、化け物っ!」
抜けるような青空に、鋭い声が響いた。
耳が痛くなるほどの沈黙が下りる。
チャーリーも、バラットも、泣いていたはずのケインも、大きく目を見開いてリリィを見る。
そしてグラウも、なにか言おうと口を開いて、きゅっと唇を噛み締める。
なぜそんな顔をするのか。なぜ、傷ついたような顔をするのか。
傷ついているのはこちらなのに!
「…………そうか」
ゆっくりとグラウが目を閉じる。
口角が吊り上がる。目尻が柔らかく下がる。
「お前、もう帰れ」
これ以上ないほどわざとらしい笑顔で、グラウは言った。
リリィは抵抗しなかった。口すらも利かなかった。
「……グラウ」
肩で風を切って南下していく後ろ姿を見送って、チャーリーはグラウを見やる。
「よかったのかい?」
「んー」
膝を抱えたグラウが曖昧に答えた。
「あのままだと、俺も頭に血が上って、たぶん収拾がつかなかった」
膝の中に頭をうずめるような格好でグラウは続ける。バラットたちが心配そうに両脇に座っていても、気にかけてやれない。
「あいつが俺のことをどう思っているのか、わかっていたつもりだったんだけどさ……」
真正面から化け物と呼ばれたのは、思っていた以上にダメージが大きかった。それでもリリィを突き放せたのは、理性が感情を辛うじて上回ったからである。
「他人の心なんて、誰にもわかりやしないさ」
チャーリーの大きな手が、そっとグラウの頭に乗せられる。グラウの肩がぴくりと跳ねた。
「だからこそ、俺たちは言葉で伝えあわないとな。怒りに任せずに行動できて、偉かったな」
「……うん」
グラウは緩慢な動作で立ち上がると、放牧場の端を指さした。
「ちょっと、向こうで頭冷やしてくる」
「わかった。昼になったら呼ぶよ」
「兄ちゃん……」
ケインがグラウの服の裾を引っ張った。
「俺、お姉ちゃんに変なこと言っちゃった? だからお姉ちゃん、怒っちゃった?」
「ケインのせいじゃねえよ」
グラウは彼の目線に合わせて言った。
「あいつは……いや、俺もリリィも、お互いのことを知らなさすぎるんだ。だから勝手な想像で怖くなった。ちゃんと話せば分かり合えるよ」
もっとも、話の通じない相手と言うのも一定数いるが。今はそれを教える必要はない。
「本当?」
「本当だ。今はまだ頭に血が昇っちゃているから、離れて冷静になる時間がいるんだ。落ち着いたら、ちゃんと話し合う」
「……うん」
ケインは涙が渇いた顔を乱暴に拭って頷いた。
「俺も、お姉ちゃんと話したい」
「なら、あとで一緒に行こう」
「うん!」
笑って頷いたのを見て、グラウはようやく離れた。
広い放牧場の端に行くと、チャーリー一家の家もおもちゃのように小さくなる。たまに放牧中の動物たちが来るものの、喧噪からは遠く離れられる。
グラウはその一角に腰を下ろして目を閉じた。
腹の底で渦巻く、形容しがたい感情を見つめる。自分の呼吸と感情に集中すると、荒れ狂っていた衝動も次第に凪いでいく。
パスカルから教わったこの瞑想で、グラウは感情と魔力のコントロールが身につけてきた。女王への復讐を決意してからは、荒れる心を何度この方法で鎮めてきたことか。
冷静さが戻ってくると、状況が俯瞰的に見えてくる。
グラウもリリィも、互いのことを知らない。彼がネヒターでどんな扱いを受けていたのか、リリィは知らない。彼女がグラウを犠牲にしてでも取り戻したい平和も、彼は知らない。
(あのクソ女王、本当になにしてくれてんだか……)
元凶たるエデルガルトの行動に、怒りを通り越して呆れるしかない。
(師匠がちょっとでもネヒターの情報を持って帰れたら、万々歳だな)
パスカルはグラウを救った恩人であり、魔法の師だ。マナと魔力の区別もついていなかった彼につきっきりで魔法のなんたるかを叩き込み、様々な魔法を伝授した。
最初の一年間は本当にスパルタだった。十分な栄養を与えられ始めた体と脳を酷使して、夜は夢も見ないほど泥のように眠った。そのおかげで知識はたっぷり蓄えられたし、詠唱のハンデがあっても竜人と張り合える威力の魔法を身に付けた。
ある時、彼に思い切って訊ねたことがあった。
「なんで俺のこと、手伝ってくれるの?」
女王を殺すのはグラウの悲願だ。もし協力を仰げなくても、自力で達成しようと思うくらいにはエデルガルトのことを恨んでいる。
だがパスカルたちには手伝う動機がない。ディートリヒやマーガレットはお礼参りなんて言っているが、グラウがいなければ接点もなにもない相手である。道徳や倫理が許さない。
パスカルは少し悩んだ後、困ったような笑顔でこう答えた。
「んー……。自責の念、かな?」
当時はその意味がわからなかった。
でも今ならわかる。
彼は――
「クスクス……」
「っ!」
耳をざらりと撫でる笑い声に、思考の海から急浮上する。
ばちりと音がしそうな勢いで開けた視界に、霧で包まれた森が映った。
「遊ビマショウ」
「げーむヲシマショウ」
霧の中から妖精たちの楽しそうな声が聞こえる。
「……なにをする気だ?」
グラウは立ち上がり、魔力を練り上げる。同時に臍を噛んだ。
退屈を紛らわせるため、妖精たちはたまに村の人間を森に連れ去る。昼夜を問わず霧に包まれたら、完全に彼らの箱庭の中だ。
それでも、前回との間隔は短くても一ヶ月くらいである。つい一週間前に痛い目を見たのに、こんなに早く“遊び”に誘ってくるとは思わなかった!
妖精たちが笑う。
「怖イ、怖イ」
「探セルカシラ? 守レルカシラ?」
「オ姫様ヲ助ケマショウ」
「は?」
一瞬、意味が分からなかった。
「綺麗ナ髪ノ女ノ子」
「空色ノ目ノ女ノ子」
「一緒ニ出ラレタラ貴方ノ勝チ」
「モシモ死ンダラ貴方ノ負ケ」
「「「サア、ドウスル?」」」
クスクス、ケタケタ、キャラキャラ。
興奮を抑えるような忍び笑い。そこに一切の邪悪さはない。
だからこそ、容易に命を弄べる。グラウは舌打ちした。
(もうちょっと平和に特訓させてくれよな)
ディートリヒたちと共に魔力コントロールの精度を磨く訓練は、グラウのルーティーンの一つだ。ただ集中力を高めればいいだけの話ではない。実際に魔法を操らなければ、マナと魔力の結びつきを明確に知覚できない。
実戦が大事なのもわかるが、こんな殺し合いじみた実戦なんて望んでいない。
グラウは祈るように両手を組む。彼らのテリトリーに囚われた時点で、選択肢などなかった。
「――瞬きよ集え。月を焦がせ。道しるべよ、空を彩れ」
素早く二回、手の中に息を吹き込む。それから勢いよく両手を空へ振り上げた。
手の中から放たれたそれは、霧を抜け、森を飛び出す。
上空で爆発が二度起こった。
緊急事態を知らせる狼煙であり、“ゲーム”開始の合図だった。
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