第七話①
「え? え? 生きてるの?」
マーガレットがたじろぐ。屍竜山脈からわざわざ持ってきた高濃度のマナだ。並の人間ならまず窒息死する。
「マジで悪魔を取り込んでるわけ……?」
ディートリヒがリリィの肩をぐっと引き寄せる。
好き勝手言っていた宝石人間たちも、異常事態に気付いて沈黙した。
「グラウ、立てる?」
「無理」
首を振ったグラウに、パスカルが素早く肩を貸す。
誰からともなく、じりじりとすり足で距離を取る。
あれはまずい、と本能が警鐘を鳴らしていた。コップに並々と注がれた水が、あと一滴で溢れる。そんなエデルガルトに近付きたい者などいない。物音ひとつで決壊する。鼓動をも黙らせたいほどの静寂の中。
エデルガルトのフープドレスが、内側から爆発した。
いや、実際はそう錯覚しただけ。スカートの内側が急激に膨らみ、歪に盛り上がった。その上に乗るエデルガルトの体が、芯のない人形のように激しく揺れる。
パスカルの結界が音を立てて壊れた。
「うわっ!」
圧力から解放されたかのように、霧が一気に周囲へ広がる。息苦しさに包まれたが、それも一瞬だった。グラウの魔法で減ったマナを補うかのように、霧がどんどん薄くなり、やがて視えなくなる。
何事だったのか、と顔を上げた先で。
ぐったりと項垂れる女王の背中から、音を立ててなにかが飛び出した。
まとわりつく血を鬱陶しそうに払ったのは、猛禽類を思わせる灰色の翼。その大きさは広げただけで五メートルはくだらなかった。
さらに、スカートの下でボコボコと内側から膨らんでいたものが、四つの足で地面に立つ。場違いなほど艶やかな黒い毛で覆われた、牛の体だった。
「……ハーゲンティ」
釘付けになったパスカルがぽつりと呟く。
「なにそれ」
同じく一部始終から目が離せなかったグラウが問う。
「悪魔の名前」
「師匠、あいつが取り込んだ悪魔を知ってるの?」
「一応、悪魔の特徴は頭に入っているから……。にしても、なんで知識欲と錬金術の権化がよりによってこんな馬鹿に取り込まれたわけ!?」
「馬鹿の思考を知りたかったから?」
「むしろ自分から取り込まれに行ったとか」
「ありえそうだからやめてくれ!」
死んだ目をするマーガレットとディートリヒの推測に、パスカルが本気で頭を抱える。
伏せられていたエデルガルトの顔がゆっくりと上がった。
金の瞳孔が十字に開く。皿よりも丸い目が一同を射抜く。
「あ、やべ」
誰がそう言ったのかはわからない。
ただ、目をつけられたと誰もが思った。
「キィィェェエエエエエエエエエアアアアアアアアア!!」
もはや人の言葉ですらない、金属音に似た悲鳴を上げてエデルガルトが突進する。
「散開!!」
グラウを抱えたパスカルがいち早く空へと逃げる。
「あっ、ひどい!」
マーガレットがさらに三重の火の柵を設けて、城に向かって飛ぶ。
「わりぃ、あと自己責任!」
ディートリヒもリリィを連れてさっさと城下町の小道へ走った。
「あっ……」
宝石人間たちは、心臓を撫でられたような奇声で初動が遅れた者と、慌てて隠れられる場所を探す者に分かれた。
前者は、燃え盛る火の柵が音を立てて弾き飛ばされるのを見た。
後者のうち、エデルガルトの挙動に注意しようと振り返ったものは見た。
牛の体と合体したエデルガルトが、大きく身を乗り出して人々を捕まえるのを。
それを頭からバリバリと音を立てて食らうのを。
「ば、化け物だ!!」
理性が稼働する前に恐怖が叫んだ。それは情報を的確に表すと同時に本心でもあった。
恐怖が伝播する。悲鳴と怒号が溢れる。他人を押しのけてできるだけ遠くへ逃げようと走った。誰の家だったかも忘れた建物の中に隠れて息を殺す。逃げ遅れた宝石人間たちも散り散りになる中、エデルガルトは手当たり次第に彼らを捕まえては食らった。
建物の中だろうが外だろうが関係ない。外なら走って捕まえる。室内なら背中の翼で突風を起こして窓もドアも吹き飛ばす。入れないほど小さな穴なら、突進して壊すまで。
「あーあーもう」
それを屋根の上から覗き込んだディートリヒは顔をしかめた。悲鳴と破壊音だけが町に響き渡る。隣にいるリリィはその惨劇を呆然と見ていた。
《ありゃあ完全に理性失くしてるな。どうするよ?》
《どうするって言われても……》
《正直、手詰まり》
念話で親子三人がため息をつく。
《あわよくば、グラウが施した反転の魔法で悪魔も分離できないかなーと思ってたんだけどさ》
《そこは時の運よ。あるいは女王の悪運》
《って、そのグラウは? 大丈夫か?》
《大丈夫じゃない。さっきの魔法で魔力をぜんぶ使っちゃったらしい》
「ディー、リリィちゃん」
ふわりと風が後ろから撫でる。ディートリヒたちが振り向くと、グラウを抱えたパスカルが下りてくるところだった。
屋根に下ろされたグラウが、かくんと膝から崩れ落ちる。
「グラウ!」
急いでディートリヒが支えに走った。
「親父から聞いたぞ、魔力をぜんぶ使ったって」
「ああ……。体にうまく力が入んない」
あれで殺したと思ったのに、とグラウは歯噛みする。
中途半端な力では押し負ける。だからありったけの魔力を反転の魔法に注ぎ込んだ。パスカルが二つ目のマナの結晶を使ってくれたおかげで、勝ちを確信したと思ったのに。
いくら悪魔を取り込んでいたとはいえ、窒息するあの土壇場で悪魔の能力を掌握するとは思っていなかった。もはや執念の領域である。
「どうすんの?」
遅れてマーガレットも駆けつけた。五人は屋根の上から、宝石の街を破壊する怪物を見やる。
「あれじゃあ私たちに気付くのも時間の問題よ」
エデルガルトの背中に生えた翼が飾りでなければ、飛んでくる可能性だってゼロではない。酷な話だが、住人たちが囮になっている間に打開策を考えなければ。
「……うん?」
エデルガルトをじっと見ていたリリィが、ふと首をかしげた。
「ねえ、女王様、なんでまだ黄金にならないの?」
「え?」
四人が屋根から身を乗り出す。
宝石人間を食い荒らすエデルガルトは、グラウが黄金を剥がした後のままだった。悪魔の力を掌握したなら、新たに黄金化の呪いを発動してもいいはず。
「血も出てる」
パスカルが女王の過ぎた道を指さした。大量の血だまりから、足跡ではない血痕が点々と彼女に向けて伸びている。
「強靭なあごを手に入れたわけではないようだね」
だとすれば、胃に溜まった宝石をすぐには消化できない。ディートリヒが首をかしげる。
「でもあいつらを食べてるってことは、体内にある魔力を取り込んでるってことか?」
「あるいは、対価としての宝石をストックしようとしているとか」
「……だとしたら、そのうち建物や城まで食べ始めたりしないか?」
グラウが神妙な面持ちで呟く。ありえない、と誰も笑い飛ばせなかった。
マーガレットが指先を顎に当てる。
「うまく行けば、このまま自滅も待てるけど……」
「たぶんそううまく行かねえだろうなあ」
ディートリヒが頭を掻いた。パスカルも頷く。
「急場しのぎで悪魔の力を借りるだろうね。それが一番厄介だ」
最大の敵は、相手の手の内が読めないことだ。本能のまま動く以上、こちらの予想を裏切る行動もしてくる。その上悪魔の力をほぼ無制限に使えるのだとすればじり貧だ。
ヒトの上半身を右へ左へ揺らしながら歩いていたエデルガルトが、不意に止まる。
なんだ、と五人が注視する中。
ぐるん。
エデルガルトが、ヒトの背と牛の背がくっつきそうなほど大きく仰け反った。口から顎にかけて真っ赤に染まっている。どこに焦点を当てているかわからない瞳が、確かに五人を映した。
うぎゃあ。
甲高い悲鳴と野太い悲鳴が響き渡った。
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