第六話③
《おい、親父! マリー! なにがあった!?》
ディートリヒの念話にパスカルたちが飛び上がる。我に返って慌てて応えた。
《女王が住人を殺した。ディー、可能な限りこれ以上人を近付けさせるな!》
《んな無茶な! さっきまでド派手に暴れてたんだぞ!?》
《無理や無茶を言っているのは百も承知だ!》
住人を保護したところで、状況が好転するとは限らない。だがこれ以上の犠牲者は見過ごせなかった。
「グラウ、行けるか?」
パスカルがグラウに呼びかける。その顔は、夜の中でもはっきりとわかるほど青ざめていた。
「…………う、ん」
ぎこちなく頷く。
手の中の水晶を確認する。ずっと握りしめていたのに、それはまだ氷のように冷たかった。
「一応、霧が広がらないように、結界を張っといてもらえる?」
「わかった」
グラウの手がパスカルから離れる。改めて防音性の高い風の結界が張られ、足音が吸収された。
宝石を飾り付けたエデルガルトが、再び金の槌を持った。
「フフ、フン、フ~ン」
上機嫌に鼻歌まで歌い、槌を引きずって城下町へ歩き出す。
グラウは深呼吸を繰り返す。体が自分のものではないかと思うくらいぎこちない。心臓が飛び出そうなほど鼓動を打ち鳴らす。口の中が渇く。
逃げたい。立ちすくむ自分を叱咤するように、すぅ、と息を吸い込んだ。肺に空気がたっぷりと送られる。
「飛んで泳いで走って跳ねて。鳥の翼を貸してくれ。ウサギの足を貸してくれ!」
グラウの詠唱が追い風を呼ぶ。走り出すと同時に水晶を奥歯で噛む。金の背中が迫る。
エデルガルトの背中に、小柄な体がタックルした。
不意の衝撃にエデルガルトが倒れる。金の槌が転がる。
だが痛みを感じないのか、振り返りざまに右の肘がグラウの顔面を打ち据えた。
「――っ!」
その衝撃で、口内の水晶が破裂する。一瞬にして周囲が光る霧に飲まれた。
すかさずパスカルが新たに結界を張る。広がりかけた霧がドームの形で留まる。霧の中に二人の姿が消えた。
「グラウ!」
マーガレットが悲鳴を上げる。いくら作戦の内だとわかっていても、あの霧の中に隠れてしまっては助けようがない。
思わず駆け出そうとした彼女の手を、パスカルが掴んで止めた。
「ちょっと父さん、手を離して!」
マーガレットが振り返る。娘の手をがっちり掴んで離さない彼は、口を真一文字に引き締めたまま動かなかった。
「このままだとグラウが……!」
「駄目だ」
彼女の言葉を遮る。出てきた声は、吐息のように小さくか細かった。
「あの子が選んだんだ。止められるわけがないだろう!?」
握りしめた拳から生暖かいものが滴り落ちる。爪が皮膚を食い破ったと気付いても、パスカルはそちらを気にかけられなかった。
それだけの激情を抑え込んでいるのだと、娘も理解させられる。
幸い、霧の中はわずかだが透けて見える。それを頼りに、救出のタイミングを計るほかなかった。
(やっべ、見失った)
一方で、グラウは霧に包まれた視界内で臍を噛んだ。
息ができないのは承知の上。自慢ではないが、グラウは息苦しさには慣れていた。幼少期に散々、あらゆる手段で殺されていたからだ。息苦しさや、酸欠の症状も身を以て理解している。それに村へ亡命した後も、グラウはしょっちゅう妖精たちの標的にされた。なんでも悪魔の魔力が彼らを刺激するらしい。曰く、臭いとのこと。
そのせいでよく追い回され、時には掴まって死にそうになった。そのおかげ、というのも癪だが、グラウは息がままならない状態によく陥っていた。ものすごく好意的な解釈をするなら、妖精たちにも鍛えてもらっていたのだ。
だから、無酸素状態はむしろ慣れている。すぐにエデルガルトを捕まえて魔法を発動させようと思ったのに、肝心の相手を見失っては話にならない。
「ああ、ああ、あああああああああ……!」
「っが!?」
だがグラウが気付くより早く、霧の向こうから金色の両手が首を絞めてきた。冷たいそれが体温で嫌な温さになる。
そのまま押し倒され、宝石の石畳に後頭部を打ち付けた。痛みで息が吐き出される。貴重な酸素が減ってしまった。
すぐに詠唱しようと口を開く。それを見計らっていたかのように、エデルガルトに触れられた首からぞわりと、嫌な熱が全身を這いまわった。血管が燃えるように熱い。だが同時に、凍ったかのように冷たい。相反する感覚が首を起点に全身に伸びてきた。
「呪い、呪いが、かえってきた」
鼓膜を直に触られたような、吐き気を催す声が入り込む。
ひゅ、と息を吸い込もうとしてできず、吐き出す。虹の霧の中で浮かび上がるのは、歯を剥き出しにして笑う女の顔だった。
「ああやっと帰ってきた。初めからこうすればよかったのだ。お前なぞ産まなければよかった。お前がいたから、わたくしは不幸になったのだ。お前がいなくなれば、お前さえいなければ、わたくしはもっと美しくなれる――!」
言葉が零れ落ちるたびに、首がぎりぎりと絞められていく。責任転嫁も甚だしい文句の嵐。グラウを産ませた張本人で、その恩恵を一番受けていたのはエデルガルトだ。何度も彼を殺し、思考を奪って国に縛り付けた。彼がいなくなっただけで国が崩壊するようなシステムを構築した。瓦解する現実から目を背けて、すべての責任をたった一人の少年に負わせようとしている。
(ふざけんなよ)
あまりにも幼稚な思考にグラウは毒づく。だがそれを吐き出せるだけの酸素の余裕はない。
金色の手がグラウの肌に沈む。気持ち悪い。肺の酸素がなくなる。血が止まりそうだった。
――はじめまして、エデルガルト王女。
不意に知らない声が聞こえた。知らない少年の顔が脳裏をよぎる。
――エデルガルトは宝石が好きなの?
その顔は、あどけないものから少しずつ精悍な男のものになっていく。
――誕生日おめでとう、エル。その……気に入ってくれるか、わからないけれど。君に似合うと思って。
照れくさそうに差し出された箱の中には、大粒の真珠のネックレスが納められていた。
――泣かないで、エル。
場面が一気に飛ぶ。その人物は、ベッドの上に横たわっていた。青白い顔に、痩せた頬。一目で命の火が消えかけているとわかった。
――笑って。いつものように、君の笑顔を見せて。
そう言って少しして、彼も優しく微笑む。
――やっぱり、君には笑顔が似合うね。
誰かが彼の手を握る。冷たいその手は、もう握り返す力も残っていない。
――エデルガルト。
男は声を振り絞った。まぶたがゆっくりと下りていく。
――どうか、いつまでも、美しく――……。
「――っ! か、ぁ……!」
息苦しさで現実に引き戻された。
時間にしてどれくらいなのか。あの光景はなんなのか。
ゆっくり考えている暇はない。わかるのは、彼女がこうなったすべてのきっかけ。
(とんでもねえ呪いを遺しやがって)
奥歯を噛む。
あんな願いのために産み落とされたのか。幾人もの命を犠牲にしてきたのか。
醜く笑い、道化のように歪む黄金に吐き気を催した。
首を絞める金の手を掴む。
「……水鏡の森、常闇を照らせ」
持てる酸素をすべて使って詠唱する。全身を流れる魔力を最大限練り上げる。
「真なる主は我にあり、反転せよ!」
精霊との契約が完了する。膨大な量のマナと魔力が結びつく。
――魔法とは、特定の呪文によって精霊と一時的に契約して起こす奇跡の総称。術者の得手不得手はあれど、その奇跡に値するだけのマナと魔力があれば、理論上は誰でも起こせる。
では、魔法の威力を左右するのはなにか。
これも理論上は単純な話。マナと魔力の結びつきだ。結びついたそれが多ければ多いほど、魔法の威力は上昇する。
ただし、マナは特殊な環境でもない限り一定以上の濃度にはならない。人間が持つ魔力も、どれだけ練り上げようと限りがある。
では、人間が窒息するほど高濃度なマナと、竜に匹敵するほどの魔力量があれば?
――奇跡を上回る、呪いと呼べるほどの威力にまで達する。
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