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第一話①

 川に素足をつけると、雪解け水の冷たさが骨に響いた。

 黄昏色の髪の少年――グラウは、その冷たさに慣れようと足踏みをする。足の動きに合わせて、障害物に当たった水がゆるく流れを変えて川をくだった。青く透明な川は、家が二、三軒建ってもまだ余裕があるほど広い。大きな石もなく穏やかにたゆたう水の中で、魚が一匹ぱしゃりと跳ねた。

 しばらくすれば、痛いほどの冷たさは感じなくなる。グラウは持ってきた籠の中からシャツを取り出し、川の中に突っ込んで洗い始めた。

「おはよー、グラウ!」

 後ろから声をかけられる。振り返れば、同じように洗濯籠を持った人々がやってくるところだった。

 シャツの水気を絞りながらグラウも返す。

「おはよー」

「今日も早いねー」

「兄ちゃん、今日はなにして遊ぶ?」

「こら、その前に洗濯だよ!」

 静かだった川辺が一気に騒がしくなる。世間話に興じる者、遊び始める子どもを叱る者。水の音とおしゃべりの声が川辺で弾けた。

「あれ、ディーは?」

 その中の一人が、この場にいない人物の名を挙げる。グラウがそれに答えた。

「ああ、なんかマーガレットに呼ばれたんだって。たぶん亡命者」

 村人たちが、おっ、と声を弾ませた。

「亡命者か。久しぶりだな」

「何年振り?」

「グラウが最後だったから……三年?」

「わー、どんな子かしら?」

 男の子か、女の子か。好きなものや食べ物、得意なことはなんだろうか。洗濯を続けながら、村人たちの口も止まらない。

 村の新たな住人――亡命者の来訪は、娯楽が少ないこの村で一番のビッグイベントだ。はやく会いたくてフライングする者もいる。

「俺聞いてくる!」

「こら、だからそうやって都合よく逃げようとすんな!」

 駆け出そうとした少年の首根っこを、母親らしい女性が掴んで止めた。

「なにかあったら二人の方から言ってくるでしょうから、あんたは自分の分を洗いな!」

「ちぇー」

 ぽいぽいと洗濯籠から取り出した服を押し付けられる。唇を尖らせる子どもを横目に、グラウのそばには別の村人が集まった。

「グラウ、ディーから預かったやつってこれか?」

「そう。手伝ってくれると助かる」

「おう、任せろ!」

 自分の分を洗う傍ら、不在の人の分も洗濯する。石鹸の貸し借りや、子どもの世話で手が離せない人の代わりを請け負うのも日常茶飯事だ。

 そのうち、一部の子どもたちが飽きて本格的に遊び始める。

「グラウ兄ちゃん、遊ぼうぜー!」

「魚取りしよー!」

 幼い兄弟が、飛沫を上げてグラウのもとに来た。その手には、さっそく捕まえただろう小魚がびちびちと元気よく暴れている。

 グラウは洗い終えたばかりのシャツを籠に放り込んで答えた。

「悪いな、このあとセドリックさんの所で畑仕事を手伝うんだ」

「えー、ちょっとくらいいいじゃーん!」

「ダメだ。ほら、あっちで母ちゃんたちを手伝ってこい」

「ちぇー、兄ちゃんのケチー!」

「ケーチ!」

 兄弟がぷいっとそっぽを向く。大人たちはそれを笑っていなす。手伝いに飽きた子どもが遊ぶのはいつものことなので、グラウも強く言わない。最後の肌着を洗い終え、水気をしっかり絞る。

「じゃ、セドリックさん、あとで行きますね」

「おう」

 一緒に洗濯していた男にそう告げて、グラウは自分の籠を持った。

「……うわっ!?」

 どぼん、と。このあたりの深さに似つかない水音に、引き上げようとしたグラウは振り返る。

「え?」

「あれ?」

 大人たちの動きも一瞬止まった。

 子どもが一人消えた。少年が真っ青な顔で川に手を突っ込んでいる。

「ケイン? ケイン!?」

「おいどうした!?」

「ケインが溺れた!」

 グラウが洗濯物を放って駆け寄れば、弟の方が水底に沈んでいた。

 なぜ自分が沈んだのか、なぜ浮き上がれないのか。混乱の中助けを呼ぼうともがいて、口と鼻から空気がどんどん出て行く。

「ケイン、しっかりしろ!」

 グラウがケインの手を掴む。そこから引き上げようとして、強い抵抗を感じた。

 重い。重すぎる。普段なら倒れてもすぐに引き上げられるのに、まるで少年の形をした石のようにびくともしなかった。

「グラウ、どうした? なにがあった!?」

「来るな!」

 セドリックが近付いてくる水音を聞いて、グラウは叫ぶ。

 通常ならあり得ない現象。しかしグラウには心当たりがあった。

 腹の底に力を入れて、村人たちに向けて声を上げる。

「妖精が来た!! みんな逃げろ!!」

 村人たちから悲鳴が上がった。

「バラット、来い!」

「誰かディーとマリーを呼んで来い!!」

「こっちよ!」

「あ、まって、服が!」

「ほっとけ、あとで回収する!」

 セドリックがバラットと呼んだ少年の手を掴む。誰かが集落の方へ走る。親が子どもの手を掴んで急いで岸に上がる。

 ケインはいまだ川の中でもがいている。そこを流れる水が、不意に人の顔を成す。笑い声が聞こえた気がした。

「あの性悪妖精ども……!」

 思わず舌打ちする。

 対岸の森には妖精が住んでいる。基本的にそこから出てこない彼ら(と呼んでいいかはわからない。妖精には性別がないからだ)は、たまに外に出てくると人間に悪戯を仕掛けてくる。たとえば川底に人を沈めたり。たとえば森に誘い込んで死ぬまで彷徨わせたり。あるいは幻覚を見せて殺し合わせるなど、一言で表すなら趣味が悪い。

 そして今、あからさまに挑発された。グラウは彼の手を掴んだまま、己の中の魔力を循環させる。

「……命めぐる水よ、我に従え。時運ぶ風よ、我に従え」

 低い声で紡がれるのは、自然の支配者たる精霊への助力要請。妖精よりも高位な存在だが、しかるべき手順を踏めば一時的にその力を借りられる。

 砂漠に雨を降らせ、時化を凪に変え、火打石がなくとも焚火を起こし、一晩で森を生み出す。

 人々はその奇跡を、総じて魔法と呼んだ。

「彼のものを縛る鎖を断ち切れ。彼のものに自由の息吹を与えたまえ!」

 詠唱の完了と同時にケインを引っ張り上げる。先ほどまでびくともしなかったのが嘘のように、小さな体が宙を舞った。舞い上がった水飛沫が日差しを浴びてキラキラと輝く。

 引き上げた勢いを利用し、そのままケインを川岸に向かって投げる。

「羽根は軽いか、雲は軽いか?」

 すかさず次の魔法を詠唱し、ケインの周囲に風を集める。勢いよく投げ出された小さな体は、空中でその勢いを殺して仰向けに寝かされた。

「ゲホッゲホッ!」

「ケイン!」

「ケイン、大丈夫!?」

 川岸に降ろされたケインが激しくせき込む。そこにバラットをはじめとした村人が殺到した。ケインの背中を叩いて飲んでしまった水を吐き出させ、まだ洗っていない乾いた布で彼の体を拭いてやる。

 その光景を背に、グラウは魔力を手に集めてさらに練り上げた。

「出て来い、妖精ども。まとめて相手してやる」

 虚空に向かってそう呼べば、川が不自然に流れを変える。

「クスクス……クスクス……」

「残念、残念ネ……」

「悪魔ノ子ヨ、悪魔ノ子」

「誰が悪魔の子だ。森に帰れ、妖精ども」

 グラウが吐き捨てるように告げるが、水中の妖精たちは楽しそうに笑う。

「イヤヨ、イヤイヤ」

「遊ビマショ?」

「イツマデ息ガ持ツカシラ?」

 川の水が流れに逆らって動き出し、グラウを中心に渦を巻く。

「グラウ兄ちゃん!」

 気付いたバラットが悲鳴のような声を上げた。

 妖精は詠唱を必要としない。精霊の助力を必要としないくらい、彼らは限りなく自然に近いのだ。その有利さを彼らも理解している。

 いつでも殺せると示すように、渦巻く水がどんどん嵩を増していく。まるで水の壁がせり上がっていくようだ。うねる水の壁に、波の凹凸が笑みの形で浮かんでは消える。妖精が中に潜んでいる証拠だった。

 この壁がもし閉ざされたら。

「駄目だ、バラット!」

 駆け出そうとした彼を、村人の一人が取り押さえた。

「でも、兄ちゃんが!」

「グラウなら大丈夫だ! ディーやマリーも呼んだし。それにあいつが強いの、お前も知っているだろ!?」

 もがくバラットをさらに内陸へ引きずっていく。

 妖精たちが水の中でクスクスと笑う。

「ドウ? ドウ?」

「ドウスルノ?」

 グラウはせり上がる水の壁をぐるりと見て、再び詠唱した。

「時を凍らせる冬の女王、凍てつく秒針よ刃となれ」

 水の壁に無造作に触れる。そこを起点に、水が白く凍り付いた。

「キャッ!?」

 驚いた妖精が中から飛び出す。木の皮や葉を編んで作ったらしい服が翻る。蝶のそれに似た透明な羽を羽ばたかせて、妖精たちは距離を取った。

 水の壁がその形のまま凍っていく。周囲の気温がどんどん下がり、グラウの吐く息も白く濁る。少しの間の後、壁が音を立てて崩れ落ちた。氷が落ちたそばからさらに川が凍っていく。飛沫さえも凍り付き、透明な破片が音を立てて落ちた。それでも氷の浸食は留まるところを知らず、川の下流も上流も時間を止めたように白くなる。

 妖精たちがブーイングを飛ばした。

「寒イッ!」

「ヤダ、モウ遊ベナクナッタ!」

「遊びで殺されたらたまんねえんだよ。とっとと森に帰れ。竜人たちを呼ぶぞ」

 グラウがそう言うと、妖精たちは一様に歯ぎしりする。

「ムゥー」

「イーッダ!」

 グラウの脅しに、妖精たちは負け惜しみで舌を出したり中指を立てたりしながら森へと飛んでいった。その姿が消えていくのを確認して、グラウはようやく息をつく。

「ふぅー……帰ってくれた」

「いや、これはさすがに帰るって」

「うおっ!?」

 後ろから別の声に呼びかけられ、グラウは飛び上がった。

 慌てて振り向くと、腰に手を当ててこちらを見下ろす男がいた。黒に近い茶色の髪は短く切り揃えられ、こめかみのあたりからは黒っぽい角が空に向けて伸びる。角は、竜の血を引く竜人の証だった。

「……ディートリヒ」

 グラウが気まずそうに彼の名を呼ぶ。

 救助要請に向かっていたらしい村人が、息を切らして戻ってくる。ディーことディートリヒは仕方なさそうに笑っているが、肌で感じるオーラはむしろ怒りだった。

「ケインを助けたのは偉かったよ。でもさ、川全体を凍らせる必要はなかったんじゃないかな?」

「……えーと」

 気まずい表情のまま、グラウはそっと視線を逸らす。凍った川が日差しを白く反射し、冷気を立ち昇らせる。上流も下流も終わりが見えないくらい凍っていて、さすがにやりすぎたと、今更ながら後悔した。

「…………。今日の晩飯の提供ってことで」

「手は打たないよ。ほら、はやく解凍して」

「はーい……」

 ぴしゃりと切り捨てられ、グラウは氷を解かすための詠唱を始めた。

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