夢幻の向こう側
時間制限が迫る。
この世界での決戦が幕を開けるまで、30分を切っていた。
烙禮のフェアレディは、自分が人間如きに敗けるとは思っておらず、俺のようにクリスが来るとは思っていなかった。
きっと、俺が『勝負は明日で』と言えば、フェアレディは喜んでその提案を呑んで、また家族ごっこが再開されるだろう。
そうすれば、おしまいだ。
俺も精神が図太い方だが、さすがに耐えられず、クリスとの甘ったるい世界に堕ちていくことになる。
と言うか、あの美人と一ヶ月も恋人同士で居て、よく我慢したもんだと、自分で自分を褒めてあげたい。
フェアレディは、人間心理をよく理解している。
正確に言えば、人間の脆弱さをくすぐることに長けている。
この一ヶ月間、フェアレディは、俺たちを見守り続けていた。
たまに、ちょっかいをかけてくることはあっても、悲劇に終わるロミオとジュリエットの関係性に水を差してくることはなかった。
思えば、それは、フェアレディが巡らせた策の糸、権謀術数のうちのひとつ。
あの魔人にとっては、俺とクリスが手を組むことを妨げることが出来ればそれで良く……家族ごっこでも恋人ごっこでも、その関係性が指定される必要はなかった。
実際、あの魔人の思惑通り、クリスは俺との恋人関係に固執している。
いや、依存と言い換えても良いかもしれない。
幼い頃から他者に頼ることも縋ることもなく、たったひとりで生きてきた彼女にとって、信頼に足る相手から与えられる愛はあまりにも甘美だったに違いない。
この一ヶ月間。
俺は俺なりに、クリスを愛してきたつもりだが、時を経れば経るほどに彼女から返される愛は倍々に増えていって。
彼女は、ずぶずぶに、この関係性にハマっていった。
ミュール・ルートでのミュールもそうだが、アイズベルト家の人間は、一度、一線を越えた相手には甘えたがる性質があるらしい。
俺とふたりきりになった時のクリスは『お前、正気に戻った時に首吊ることになるぞ……?』と言いたくなるような甘えぶりで、如何に愛情に飢えていたのかが見て取れた。
一日、また一日。
時間が経てば経つ程に、彼女からの罵詈雑言は減っていって、愛及屋烏へと傾いていった。
特に、ボディタッチやスキンシップが効いたのかもしれない。
合体技のための魔力共有化も、日時が経てばその鍛錬に費やす訓練の時間は減っていく筈だったが、逆にクリスはその時間を増やすように仕向けていった。
最終的には、そこらのバカップルと同じようなことをしていたと思うが……クリスの名誉のためにも、とっとと、記憶を消した方が良いだろう。
コレに関しては、俺の見通しが甘かった。
俺を嫌っているクリスであれば、最後まで自制が効くと思い込んでいたが、他者からの愛情やスキンシップに耐性のない彼女にとって、それはあまりにも甘すぎる毒へと至って脳にまで回ってしまった。
例え、それが、忌み嫌う男であっても……ふたりきりで、手を握り合ったり、見つめ合ったり、諸々していたりしたら……好きになるなと言う方が難しい。
他の目がないこの世界は、あまりにも、プライドが高い彼女にとって都合が良かった。
永遠に続くふたりだけの時間……口から砂糖を吐きそうだったが、クリスは、その時間を楽しんでいたようだった。
この状況下では、クリスと恋人ごっこを続ける以外の対応策をとれなかった。
元々、それが、フェアレディの仕掛けた罠であったとしたら……いや、十中八九、そうなのだろうが……さすがは、魔人、烙禮のフェアレディと言ったところだろうか。
ココまでくれば、もう、俺に出来ることはない。
後は、クリス・エッセ・アイズベルトを信じるだけだ。
「…………」
フェアレディ・ハウスの中で、壁掛け時計に目をやる。
現在時刻は、18:48……最期になるかもしれないので、クリスと話をしておこうかと、俺は立ち上がって二階へと上がっていく。
俺は、部屋の扉をノックして――
「……裏切り者は、入ってくるな」
早々と拒絶された。
苦笑して、俺は、扉に背を預けて座り込む。
「なら、そのまま聞いてくれよ」
ギシリと、扉が鳴って、向こう側で同じようにクリスが腰を下ろした。
一枚の扉を隔てて、背中合わせ。
ぬくもりなんて伝わる筈もないが、なぜか、俺はクリスの背中のあたたかさを感じていた。
「俺は、これから、フェアレディをぶちのめしに行く。俺のワガママに付き合わせるわけにもいかないし、お前が来たくないなら来なくて良い。
よくよく考えてみれば、あの程度の魔人、俺ひとりでもどうにか出来るしな」
「…………」
「昨日、『お前には、私よりも大事なものがあったんだろ』って言ったよな? まさにそのとおりで、俺には、自分の命よりも大事なものがある」
「…………」
「ブレたら終わりなんだよ、俺は。一度、口にした誓いを蔑ろにしたら、俺はもう立てなくなるんだ。この一ヶ月、自分を貫けたのも、その芯が俺の脳天からつま先まで串刺しにしてくれてたからだ」
自分の両手を見下ろして、俺は、ささやき続ける。
「俺には、命を懸けてでも護りたいものがあって……クリス、その中には、お前の妹も入ってる……一度、目にした眩しいくらいのハッピーエンドを……俺は、ただ、手に入れようとしてるだけだ」
「……自分が、傷ついたとしてもか?」
「まぁな」
「敗けるかもしれないのに?」
「あぁ」
「そんなの……」
くぐもった声で、彼女は応える。
「こわいだろ……私は、こわい……ようやく、手に入れたのに……なんで、手放さないといけないんだ……私は……私は、ただ……お前と一緒にいたいだけだ……あの暗闇には、戻りたくない……」
俺は、ゆっくりと、天井を見上げる。
こちらを見下ろす木の目と目が合って、ただ、そこを見つめ続ける。
「あ、アイズベルト家で……私がなにか誤ったことをすれば……ま、満点を取れなかったり……魔法の発動を間違えたり……誰かに敗けたりすれば……う、薄暗い地下室に閉じ込められるんだ……そこは真っ暗で……な、なにも視えない……暗いんだよ……私は、生まれつき目が悪いから……い、いつも、怖くて……い、いつか、こんな風になにも視えなくなるんじゃないかって……誰もいない暗がりに取り残されるんじゃないかって……き、気が狂いそうになる……で、でも、泣いても喚いても、出してくれなくて……」
嗚咽を上げながら、クリスは内心を吐露する。
彼女の精神の内奥、その奥の奥、誰にも打ち明けられなかったその裏側を。
「そ、そんな時に、いつも灯りが灯るんだ……」
クリス・エッセ・アイズベルトはささやく。
「小さな灯りが……暗闇が……晴れて……また、視えるようになって……い、妹の……ミュールの笑顔が視える……あの子は、いつも、私が泣いている時にたすけてくれた……あたたかい灯りを……灯してくれた……」
泣き声の中で、彼女の熱が灯る。
「で、でも、私は……私は、あの子が閉じ込められた時……な、なにも……なにもしなかった……なにも……なにもぉ……! なにも、出来なかった……わ、私も、閉じ込められるから……だから……あの子をたすけられなかった……『出来損ない』呼ばわりして……あの子が差し出した玩具も壊した……本当は……ほ、ほんとは……い、いっしょにあそびたかった……!!」
俺は、振り向いて、泣き続けるクリスの背中に――扉越しに、手を当てる。
「クリス」
そして、俺は言った。
「俺は、お前を信じる」
「信じるな……こんな私を信じるなよ……わ、私は、お前なんかよりも弱いんだ……お前に心で敗けた……わかるだろ……私の敗因は、心の弱さだ……お前は強い……だから……こんな私を信じるな……」
「別に弱くても良いだろ」
笑いながら、俺は、立ち上がる。
「自分の弱さを認めて、それでも、進み続けるのは強さだ。お前は、自分の命を懸けて、あの教会にミュールを助けに来た。格好良いじゃねーか。あの子の暗闇を晴らしたのは、紛うことなき、クリス・エッセ・アイズベルトだ。
だから、俺は、お前を信じるよ」
俺は、一歩、踏み出して。
「お、おい、どこに行く!?」
「決まってんだろ」
笑いながら、俺は、言葉を返した。
「お前を泣かしたヤツをぶちのめしに行くんだよ」
「や、やめろッ!! フェアレディには勝てない!! わかるだろ!? この一ヶ月で、アイツのことを理解してわかった!! アレには勝てない!! 人間の精神性では、魔人を超えられない!! だからっ!!」
「だから」
ポケットに手を突っ込んで、俺は、決戦の地へと向かっていく。
「超えに行くんだよ」
階段を下りて――景色が、切り替わった。
19時の鐘が鳴る。
不気味な音色を奏でながら、夜の帳が下りて、最後の舞台の幕が勢いよく上がっていった。
冷たい夜気が、全身を切り裂いていく。
暗黒に包まれた無人の遊園地――掻き鳴らされる愉快な音楽――佇立する巨大な観覧車。
その巨大な円環遊具は、人間を地上に置き去りにしたまま回転を続けており、その頂点にひとつの人影を示していた。
両手を広げて、片足立ちで。
右のつま先で己を支え、もう片方のつま先は舞台裏へ。
一筋の糸のように、起立する魔人は、歓迎するかのように頭を傾げる。
張り巡らされた、運命の糸。
運命の三女神を独りで気取り、十指に括り付けた鋼線を蠢かしながら――主役は微笑った。
「あぁ、あぁ、夜空が、悲劇の産声を上げている! おいでませ、今宵の惨劇に招待されし哀れ子よ! 狂おしいまでの感情が、脳髄を貫いている! 愛した女性に捨てられて、孤独に地獄をさまよい歩く迷い子よ!
貴方は、たった独りで、なにを求めて歩くのか!」
苦笑して、俺は応える。
「テメェの無様な死に様だよ」
「ふふっ……哀れな……かわいそぉかわいそぉ……クリス・エッセ・アイズベルトと言う名の勝利の女神に見捨てられ、孤独に死路を歩く亡者よ……慈母の腕に抱かれて、あの世に誘われる覚悟はしてきましたか……?」
「お前こそ、覚悟は出来てるんだろうな?」
俺は、自分の胸の中心を親指で指して嘲笑う。
「返しに貰いに来たぜ、預けておいた俺の刃を。
今日この日まで、胸が痛んだだろ……ほら、想像してみろ……テメェの醜い心臓を貫く冷たい痛みを……思い出せよ……たかが人間に、一撃、喰らってたことを……」
フェアレディは、ゆっくりと目を見開き――ズッ――彼女の胸の中心から、九鬼正宗が生え出る。
「ぐっ……うっ……!!」
まるで、意思を伴ったかのように。
彼女の胸から、抜け落ちた九鬼正宗が落下し――俺は、ソレを受け取った。
「サンキュー。
無料で預かってくれるなんて、駅前のコインロッカーよりも良心的だな」
「い、いひっ……あ、哀れな人間よ……確かに、貴方の精神力は、人間とは思えないくらいに凄まじい……この一ヶ月、貴方の決意が揺らぐことはなかった……それでも、運命は変わらない……あぁ、哀れ子よ……貴方は、死ぬとわかっていて、なぜ、ココに来てしまったのか……理想の世界で、愛する女性と過ごすことを選ばなかったのか……?」
「愚問だろ」
俺は、応える。
「理想の未来には、なにもないからだ」
「おぉ、なんと愚かな!! 裏切られるとわかっているのに!! 貴方は、これから、なにも為さずに死ぬと言うのに!!」
「教えてやるよ、魔人……愚か者って言うのはなぁ……!」
俺は、叫ぶ。
「ココで、命を懸けられずに!! アイツのことを信じられずに!! なにも護れないヤツのことを言うんだよッ!! 泣いてるヤツのことも救えずに、百合を護れるかよッ!! だから、俺は、ココで!! ココで、テメェをぶちのめして!! 夢幻の向こう側に進むッ!!
だから、魔人!! テメェは、黙って!!」
叫びながら、俺は、九鬼正宗を構える。
「自分で、自分の幻に殺されろッ!!」
「愚者がッ!!」
視線が交錯し――人間と魔人は――動いた。