鏡に映るは己
方形縦板組の井戸があった。
その井戸の前に佇む少女。
紅薄様の衵姿。
腰まで流れる射干玉の長髪は、肩元で絵元結で結ばれ、大垂髪で束ねられている。
瓶に汲んだ水が切れて喉の乾きを覚えた女は、近場の長屋から這い出て、寝ぼけ眼を擦りながらその様子を眺めた。
はて。斯様な夜更けに童がなにをしているのか。
目を凝らしてみるものの、両の眼にはなにも映らず――うっすらと、雲の切れ間から差した月明かりがその姿を照らした。
少女は、ぶつぶつと、その手に持った『ナニカ』へと語りかけるように何事かつぶやいている。
その手。
その手にしっかりと、少女はナニカを抱き抱えていた。
それは、まんまるとしていて――まるで。
ふっと。
少女は顔を上げて、女は心臓が凍りついたような思いで隠れる。
ドッ、ドッ、ドッ。
心臓の跳ねる音が頭の中で響き渡り……闇を透かすようにこちらを睨めつける少女の眼がふいっと逸れる。
足音と共に、その姿が消えた。
四つん這いになった女は、一度は逃げ帰ろうとしたものの、結局は好奇心に負けてその井戸へと近づいて――視た。
「なんじゃあ……?」
木枠の井戸は、『封』と描かれた夥しい数の符で覆われていた。
しかし、何かを封じるにしてはソレは過剰だった。あたかも、そこにあるものを見えないように蓋をするかのように、秘している物を封するように閉じられていた。
しかし、どう思い返しても。
あの少女が抱えていたのは――人間の首であった。
清涼殿、裏鬼門に位置する鬼の間。
そこに座するは一柱の魔人、この平安では藻女と呼ばれ、後に鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』にて玉藻前として描かれる女。
万鏡の七椿……五衣唐衣裳で全身を覆った彼女は、蝙蝠扇で笑んだ口元を隠している。
女と相対するもまた女。
現世で最も強大であると謳われる藤原道長が一子、陽姫は眼の前に並べられた出貝と地貝を前に魔人と対峙していた。
緊張の糸が、つーっとそよいだ。
「「…………」」
両者は身じろぎひとつせず、睨み合っている。
「……して」
じっと、正座したまま陽はささやいた。
「何用でしょうか、七椿様」
「ほほっ、よもや、そちに『七椿様』などと妙ちきりんな尊称で呼ばれるとはのぉ~? もっと、ほれ、ちこうよれ。妾は子供が大好きじゃからのぉ~! 手足を千切って遊んだりはしないんじゃぁ~! えらいのぉ~! 妾、えらいのぉ~!」
「…………」
「妾を殺したいか」
ニヤニヤと咲いながら、七椿は自身を扇いだ。
「知っておるぞ~。知っておるぞ、妾は、な~んでも知っておる。妾ってば、とんでもなく賢いからのぉ~。頭ん中、知性と教養でパンパンじゃぁ~。虫螻如きが、なんのために右往左往しているのかはよく存じとる」
パシンと、閉じられた蝙蝠扇の先端が陽を指す。
「『道具』として使われんと、価値を見いだせんか小粒」
「……正確に言えば」
陽は、出貝と地貝を手に取る。
「『道具』としての生き方しか知りませぬ」
「ほぉ、ほぉ、ほぉ~ん?」
ぽんぽんと、蝙蝠扇で陽が手に取った出貝と地貝を指した七椿は咲う。
「食い違っとりゃあせんか?」
「……失礼を。斯様な遊びは知りませぬので」
出貝と地貝を下に戻そうとし――ぽんっ、ぽんっと、七椿は陽の胸を指し、額に扇の先端を突きつける。
「食い違っとる」
突かれた陽は――じっと――七椿を睨めつける。
「そちは、頭では『自分は道具』と考え、胸では『自分は人間』と考えておるのぉ~? ちんけじゃのぉ~、あわれじゃのぉ~、わびしいのぉ~? どこの阿呆になにを吹き込まれたかは知らんが、ついぞ、願ったことのない『欲』に火を灯してしまったのぉ~? いやは~、ほほっ、あはれあはれ」
「戯れならば、この場から辞――」
「勝てんよ」
表情を消した七椿は、消えかけている火に吐息を吐きかけるようにして――言った。
「勝てんよ、そちには。もう、妾には勝てん。もし、妾を滅することの出来る存在がいるとすれば、無欲恬淡の人外、人の理から外れた紛い物、虫螻の群れから離れ邪道を正道とする不純。
即ち――」
魔人はつぶやく。
「『全』と『壱』を兼ね揃える者」
「…………」
「まぁ、そんなものこの世におらんがな。所詮、仮定の話に過ぎ――うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! ローテンションモードが長過ぎて心臓が止まるところじゃったぁあああああああああああああああああああああ!!」
びゅぅんっと音を立てて、出貝を外にぶん投げた七椿は、ガシリと陽の頭を掴んでその耳に唇で触れた。
「死んでやろうか」
そよそよと。
夜半の闇に包まれた柳がそよぐような、つめたく、ささやかな吐息が耳朶に吐きかけられる。
「刻限が近いのじゃろう……何時まで、道長は待ってくれるかのう……妾の首を持ってくるまで、道長は決して諦めることはないぞよ……さすれば、そちは妾の首を所望する……首くらいならば、幾らでもくれてやろう……この京にも飽きたしのぉ……」
一瞬の間――陽は転がるように眼前へ跳んでいた。
焦げ付く板張りの間、ころころと七椿の首が転がって、油断なく手印を結んでいる陽の足先へとぶつかった。
「妾の鏡像から首を焼き取った。それを道長のところへもっていくがよい。あの屍とかいう阿呆どもが祓ったと知らせれば、ヤツらの寿命も多少は延びるじゃろう」
七つの尾を広げた七椿は、壁に飾られた和鏡へと足を踏み入れて――ずぶずぶと沈んでいく。
「なぜ。なぜ、陽を助けるのですか」
「ほほっ、助けるぅ~? 助ける、のぉ~? 妾はのぉ、賑やかな催しが好きなんじゃ。凝集した虫螻が、もぞもぞと蠢きながら、闇の中で模索し画策し方策し、真っ赤な椿を咲かせる光景を愛しておる。楽しいことになるぞよ~、実に楽しいこととなる。楽しみにしておれ、楽しみにしておれよ、哀れな道具よ。そちは、最初から最後まで道具じゃったと思い知る。線と線が繋がり弾け飛ぶ時、その眼にはなにが浮かぶのかのぉ~。ほほっ、ほほっ、妾が思うに。妾が思うに」
七椿は、真っ赤な口腔を広げる。
「その眼は、『全』も『壱』も捉えずに終わる……なにひとつ護れず、なにひとつ得られず、なにひとつ救われず……妾は、ただ、用意された舞台の行灯に火を灯しただけ……あやつが整えた舞台上を掻き回し、ド派手な灯火を打ち上げてみせようぞ……」
魔人の姿は消えていき、鏡の中から声音がささやいた。
「どのような帰結を迎えようとも、その力を振るい存分に救うとよい……初めて、そちが見出した『壱』を護ってみせるとよい……閂は抜かれた、すべてが動き始める……」
声が、ゆっくりと消える。
「壱つ動けば」
掠れて、混じる。
「全て動じる」
「しかし」
ふぁあと、俺はあくびをして天井を眺める。
「陽は、今頃、なにをしてんのかねぇ……」
「君に心配される謂れはないし、君が心配している場合でもないがね」
ふよふよと、宙空を漂うアルスハリヤは俺の真上で苦笑する。
「藤原道長の秘蔵っ子だ。何かと多忙であるのは間違いないし、年頃の女体を持て余す身だ。君についてこられたら困る事情もあるだろうさ。そそくさと風呂殿にまで付き合って、舐め回すように裸体を甚振らないと我慢ならない性質か?」
「空気みたいなお前と違って、俺には空気を読み取って動く能力があるんでね。なにもかも、わんわん、わんわん、尻尾を振って同行したりするつもりはない」
俺は、目を細める。
「……陽を信じるしかないか」
「なにもかも視て取りたいなら神にでもなれ。そんなことよりも、さっさと、あの寝坊助の妹を叩き起こす手段を考えろよ。払暁叙事の自然開眼が叶わなければ超特急であの世逝きだぞ」
眼の前で立ち尽くしているレイを横目で確認し、俺は、ごろりと寝返りを打つ。
「起こす必要なんてねぇよ」
「……あ?」
呆けるアルスハリヤへと、俺は、視線を向ける。
「出来過ぎてるんだよ。必要な断片が揃いすぎてる。今、この場で、払暁叙事の自然開眼に必要な鍵をレイを握ってる……もし、この場にレイがいなければ、俺たちは確実に詰んでいた」
「黒幕様が、ご丁寧に用意してくれていたとでも?」
「テーブルクロス敷いて、素敵なディナーまで並べてくれてんだ。ナイフとフォークを用意するのを忘れたなんてポカミスしないだろ」
くるんくるんと前回転しながら、アルスハリヤはコーヒーを啜る。
「なるほどなるほど。その仮定が正しければ、君の大切な眠り姫は王子様のキス要らずで目を覚ます手筈になっているのか」
「……払暁叙事の固有魔法だ」
俺は、つぶやく。
「自然開眼した払暁叙事の固有魔法とライゼリュートの平行時空仮構論の合せ技しか有り得ない……強制開眼した俺とレイの払暁叙事が『同時に、この時代を視る』並行世界に並行移動させた……三界三世の魔眼、この過去を視るには払暁叙事の強制開眼は必須……霧雨がレイを強制開眼させたのは『この場にレイを持ってくるため』か……」
「おいおい、その推測が正しければ、徳大寺霧雨は前提条件を整えるためだけに――」
「イカれたフリをして、自分の頭を吹き飛ばした」
刹那の沈黙の後。
にやぁっと――愉しそうにアルスハリヤは嗤った。
「くっくっくっ、あのくだらない泣き真似は絶品の演技か……物語によくある『悲しい過去』を匂わせ偽装し欺いた……なにもかも唐突に起こったあの事態は、なにもかも丹念に折り重ねられた規定の事態……自分の命すらも捨て鉢にして合理的判断に身を委ねる……人間性を捨てた合理性の怪物、か……」
「…………」
――なぜ、いつも、貴女は、大切な人のために正義の味方を諦めてしまうの
少なくとも、あの場でカオウに嘘をつく理由はひとつも見当たらない。
なにもかもは嘘じゃない。
徳大寺霧雨には、合理性の怪物と化しても叶えたい祈りがある。
「黒幕は、三条家の人間だ」
「言い間違えるなよ、ただの三条家の人間ではないだろう?」
俺は、顔を上げる。
「払暁叙事の自然開眼を成し遂げた三条家の人間だ」
「……徳大寺霧雨か?」
俺は、緋色のカラーコンタクトを外した霧雨の姿を思い浮かべ――首を振る。
「わからない。霧雨がココまで手段を選ばず頭のキレる人間であるなら、存在しない黒幕を偽装して自身から注意を逸らすくらいはやってのける」
「黒幕の目的は? なぜ、僕らの手助けをする? どうして、こんな平安時代のワンシーンを鑑賞させる必要が?」
「…………」
俺が口を開こうとした瞬間――
「あ~! 陽様、おかえんなさ~い!!」
星の明るい声音が聞こえてきて、帰ってきた陽が微笑を浮かべる。
「ただいま、帰りました」
「お~! お土産は? お土産よこ――あれ? その腰のなに?」
皮袋で隠された『球体』を指したセイへと、陽は首を振って応える。
「お土産ではありませぬ。犬の首ですよ。なにか、犬神にでも使おうかと」
「うっわ、つっまんねー!! カバネみたいできもちわりー!!」
「陽様」
薪拾いに出ていた屍も帰ってきて、陽へと声をかける。
「櫻の件ですが」
「如何でしたか?」
ふっと、カバネは微笑む。
「幾週か跨げば、咲き頃ではないかと」
「櫻ァ……? なんだ、それはァ……?」
屋根上で暇を持て余していた夭が下りてきて、同調したセイと一緒になってカバネと陽を囲む。
「平安京の外れにある櫻の樹になりまする。滅多に咲かないとのことでしたが、こう、三本の櫻が身を寄せ合うようにして一体となっておりまして、なんか、こう、すごーい感じでありまして。こう」
一生懸命、陽はちょこんちょこんと背伸びを繰り返してそのスケールを説明する。
その様子を見守っていたヨウとセイは、ニヤニヤと笑った。
「櫻ァ? 花といえば梅だろォ?」
「ヨウに賛成。陽様、センスがないよセンスが」
「まぁ、そう言うな。幾年か前、陽様が見かけた折に、綺麗に咲いていたらしい。市井で聞いてみれば、あの櫻が満開になった姿を見た者は誰もおらず、もし、共に八分咲きを捉えることが出来れば永遠の縁で結ばれる縁結びの櫻とのことだ。ほぼほぼ枯れ落ちているような櫻で、誰も見向きもしないような代物であったが、人が集まらんからゆっくりと花見が出来る」
雄弁に語るカバネへと、ヨウとセイは白けた目を向ける。
「「…………」」
「なんだ? その喧しい目は?」
「まぁ、良いではないですか。慶事に向いておりまする。櫻に言祝ぎを手向けるのもまた一興かと」
陽の言葉に、ぴくりとセイは反応する。
「慶事? なにか祝うようなことあったっけ?」
「……えぇ、これから」
くるりと。
振り向いた陽は、とことこと俺の前にやって来る。
「こう! こう、大きくて! こうっ!!」
「う、うん、櫻のスケール感は十二分に伝わったかな……人の胸から腹まで、手刀で割断しながら表現しなくても……うん……」
頬を引くつかせながら。
にっこりと笑んだ陽は、俺へとささやく。
「式神さんも、一緒にお花を見ましょうね。皆、一緒に」
「……あぁ」
また、くるりと反転して、陽はとっとこカバネたちの元へと向かう。
ワイワイガヤガヤと語り始めて、楽しそうな陽の姿を眺めて俺は思わず微笑む。
「おいおい、後方パパ面で浸っている場合かよ」
「俺は、まだヨウ✕セイが胸を刺激するのを諦めていないからな。
まぁ、いいじゃねぇか。俺たちにはどうしようもないことなんだから。レイがいなけりゃあ、なにも進まないし、ドキッ! 女の子だらけの花見大会をウォッチングしようぜ」
「やれやれ、なんで、僕がこんなアホの命のために気を揉んでやらなけりゃあいけないのか」
呆れ果てるアルスハリヤの前で、俺はニヤニヤと笑う。
「いやー、お花見かー、楽しみだなぁ。こういうイベント事で、一気に関係が深まるんだよぉ。カバネの排除方法は後で考えるとして、俺の推しカップリングとし――」
「パパ」
声。
俺は、振り向く。
その視線の先で、光を取り戻した両目を俺に向けている藤原黎は――困惑気味の表情でささやいた。
「……お兄様?」




