約束のための約束
平安宮――清涼殿。
平安宮とは、平安京における天皇所在の禁裏(天皇の私的区域)を指す。国家儀式や行事を執り行う殿舎、天皇が居住する『清涼殿』といった御所が存在し、ぐるりと周囲を外の重(大垣)に取り囲まれている。
その大きさ、およそ東西1.2km、南北1.4km、面積1.7平方キロメートル。東京ドームで言えば約36個分程の大きさになる。
本来であれば、一介の陰陽師では足を踏み入れることすら赦されない禁域。
天皇の御所と諸官衙(役所)が郡立する禁中で、カバネ、セイ、ヨウの三者は立派な装束を纏って歩を進めていた。
カバネは衣冠と呼ばれる貴族の勤務服を纏っており、その従者であるセイとヨウもまた男用の装束を着て彼の後に続く。
宮内で太刀を佩びることを赦されているのは、高官の中でも許諾を受けた一握り、それでも飾剣を平緒で括り付ける程度のものだ。
当然、カバネは太刀を佩びることが出来ていな――いわけもない。
彼は、闕腋袍と呼ばれる武官用の上衣の懐に、しっかりと愛用の鉈を忍ばせている。
それは、当然のことであった。
三条屍が、懐に忍ばせているのは刀刃と使命。
彼は、ココに――魔人を殺しに来たのだから。
「……の」
「…………」
「式神殿」
ふっと、意識が浮上する。
衵姿の陽が心配そうに顔を覗き込んでおり、清涼殿の塀に沿って流れる御溝水の飛沫音で覚醒する。
「具合が悪いのですか? 死にましたか?」
「い、いや、死んでない……急に死亡判定するな」
陽は、ほうと息を吐いて胸を撫で下ろす。
「あいすみませぬ。陽が余計なことを口にしたのが悪う御座いました。魔神のことを話してから、どこか夢現のご様子ですが……」
「…………」
気にするな、とは言えない。
――魔神には、この世界の過去、現在、未来のすべてが視えている
原作ゲームには存在していない魔神の設定……あのエスティルパメントですら忌避する魔神の復活、その引き金となる魔人の討伐、くっきりと胸に刻みつけられた絶望感。
魔神、魔に堕ちた神。
まさに神の御業とも言える全知全能、その神雷を落とす指先に悪意が籠められているとすれば、誰がその暴威に抗えると言うのだろうか。
原作ゲームの主人公である月檻桜ですら、時の神を前にすれば、その圧倒的な『理不尽』に対処出来るとは思えない。
破綻している。
勝てないラスボスを設定すれば、それは最早、ゲームとして成立しない。
もう、この世界はゲームの世界としての輪郭すら失った。
そして、その喪失を招いたのは原作との相違点、『俺』の出現としか考えられない。
俺は、ただの高校生の筈だ。
ただの百合好きの高校生――いーくん――頭を振るって、俺は、脳裏に響いた声を掻き消した。
どうすれば。
どうすれば、魔神を殺せる。
神殺しを成し遂げなければ、この世界を救うことが出来ない。
月檻も、レイも、ラピスも、ミュールも。
今までに、出逢ったすべての人たちも。
俺が護ると誓ったすべてが。
喪われる。
見つめた視線の先。
握り込まれた拳を開いて、俺は掌に掴んだ大切を見つめる。
「……させるかよ」
俺は、誓う。
「テメェが、神様で、全知全能で、この世の理不尽を掻き集めたものであろうとも」
あの時のように。
「俺が、百合を護る」
叶えられなかった言葉を吐いた。
口中で噛み潰したその言葉は、俺の胸の内側だけで響き渡り、たったひとり聞き取ったアルスハリヤは苦笑する。
「式神殿」
袖を引かれる。
目線の下で、憂慮を浮かべた陽が桜色の唇を割り開く。
「やはり、待っていた方が良かったのではないですか……? ぼんやりとしか見えませぬが、顔色が三日置いた羽虫の死骸のようになっておりまする……」
「さっきから、独特な暴言を吐いてくるな幼女……」
陽は、ぱちくりと瞬きを繰り返す。
「あいすみませぬ。陽は、人との交流を不得手としておりますので……なにせ、友誼を結んだ知己がおりませぬ」
不器用に。
彼女は、笑みらしき頬の痙攣を見せる。
「陽には、人の気持ちがわかりませぬ……物覚えが付いた頃から、傍に居てくれたのはライゼリュートのみ……でも、魔人は愛を解さず……陽はライゼリュートを家族だと思っておりますが、彼女はわたくしを『道具』としてしかみなしていないでしょう……」
目を伏せた彼女の視線の先。
そこには、死んだ蟻が一匹いた。
行き場を失くし、役割を失くし、ただの物体と化した死骸。
その様子を眺めた陽は微笑む。
「もし……もし、陽が払暁叙事を成し遂げて、その役割を終えた後……どうなるのでしょうか……なにが……なにが待っているのでしょう……帰る場所などどこにもないというのに……どこに……行けばいいのでしょう……」
誤魔化すように。
顔を上げた陽は、先程よりはマシな笑みを浮かべて俺の背後を指した。
「その御方」
俺の背中に姿を隠して、ふらふらと揺れているレイを指し、陽はどことなく優しげな声を発した。
「御家族ですか?」
「……あぁ、妹だ」
答えると、彼女は頬を歪める。
「くっきりとは見えませぬが、とても綺麗な御方ということはわかりまする……そして、式神殿を愛していらっしゃる……家族の絆……あたたかくて、うつくしくて、とうとくて……とても……うらやましい……」
憧憬。
絶対に、己が辿り着かない領域へと向けた羨望。
十と幾つかしか、齢を重ねてしかいない女の子が浮かべてはならない眼差し。
「なぁ」
屈んだ俺は、微笑んで目線を合わせる。
「式神殿は他人行儀だろ。自分の式神として扱うことで、俺と君のコミュニケーションが不自然に映らないようにしたのはとても賢い。が、俺が名前を伝えられないにしても、『式神殿』はあまりにもくすぐったいな」
「……では、式神さん?」
「まぁ、さっきよりはマシか」
笑いながら、俺は、自分の小指を差し出す。
「約束しよう」
「なにを……?」
「俺が、君が帰る場所を作るよ」
呆然と。
彼女は、俺の笑顔を見つめる。
「どうやって……?」
「実のところ、ソイツはめちゃくちゃ簡単なことだ。人と人は、容易に繋がり合える。その魔法を君に伝える」
俺は、彼女の前で満面の笑みを浮かべる。
「笑うんだ」
「笑う……?」
「あぁ、笑う。声をかける。一緒に遊ぶ。好意を伝える。ゆっくりと、同じ時間を過ごして約束をする。ただ、それだけで良い」
「でも、陽は……陽は道具で……他の方とは違う存在で……化け物です……そんなこと……したらいけない……」
「違う」
俺は、否定する。
「君は、ただひとりの人間だ」
ゆっくりと、彼女は眼を見開く。
「俺の妹も……レイも同じだった……自分が三条家の道具で、異質な存在で、怪物のフリをするしかなかった……でも、俺はあの子と家族になった……もう、ひとりぼっちじゃない……傍で支えてくれるスノウが居る……月檻やラピスとも友達になった……寮長だって師匠だって、他の皆だって……待っているんだ……だから、もう、ひとりじゃない……ひとりじゃないんだよ……」
「でも、陽は……」
「君に誓う」
肩に手を置いて。
俺は、笑みを浮かべたまま誓った。
「絶対に、君が帰る場所が在る世界で待っている。君が幸せになって、作った家族を……帰る場所を……その世界を……俺が護ってみせる。魔神だろうとなんだろうと、誰にも邪魔はさせない。皆が仲良く笑って、家族として幸福になる世界を作ってみせる」
「…………」
「だから」
ぽたぽたと、音が響いて。
後ろに隠れていたレイは、無表情のまま、大粒の涙を流して地面を濡らした。
「約束しよう」
両眼に光を取り戻した陽は、真っ直ぐに俺を見つめる。
「俺は、ずっと、君の傍には居られない。でも、この刻に居られる間に、君にとっての『家族』が作れるように全力を尽くす。もう二度と、そんな顔をさせないために己を懸ける」
踏み出せず、固まった彼女に俺は微笑みかける。
「信じて」
ゆっくりと。
見様見真似で、陽は小指を突き出した。
優しく、俺は、己の小指をその小さな指と繋げる。
「指切りげんまん」
俺は、ニヤリと笑う。
「俺が、嘘を吐くことはない」
指を切って、きょとんとしている彼女の頭をぽんぽんと叩く。
「呪術……でしょうか?」
「まぁ、そんなもんだ。今生、俺がこの誓いを違えることはない。御安心召されよ、姫君。グヘヘ、お嬢ちゃん、百合の悪魔こと俺と契っちまったなぁ。ウエヘヘヘ、可愛い女の子とくっつけてやるぜ」
「…………」
陽は、緩慢な動きで、曲げたり伸ばしたりした小指を見つめる。
「やくそく……はじめて、しました……」
「この一回で終わると思うなよ。約束ってのは未来への誓いだ。燈色くん式幸福百合ロードを歩み始めたお前は、最早、百合イベントを念頭に置いた約束雁字搦め人生を義務付けられたんだからな」
「はぁ、大変ですね」
「う、うん、君がね……俺、会話下手かな……?」
「はい」
「…………」
「…………」
「はい」
きっちり、トドメを刺すな。
気を取り直して、俺は、清涼殿を振り仰ぐ。
「で。俺たちは、道長様だかなんだかのご依頼で、この立派なお屋敷に何しに来たんだっけ?」
「はい、陽たちは――」
陽は、すっと、両眼から光を消した。
「ココに、藻女を殺しに来ました」
暗がり。
青ざめている童女は、小刻みに震えながら涙を浮かべる。
「どうしたんじゃあ? んぅ~ん? そなたの番じゃぞぉ~?」
闇の中で、七つの尾が揺れる。
乱れた呼気が当たって灯明が揺れて、涙が溜まった両眼を見開いた童女は人差し指で『玉』を弾いた。
ころころと。
その玉は転がっていき、文机から零れ落ち、ぴちょんと水音を立てて着地する。
赤色の水溜まり。
高灯台に点った火の穂がゆらめき、焦げた臭いと共に焼き裂けた人体が、部位ごとに並べられている姿が浮かぶ。
「ほほほ、残念、ハズレじゃのぉ~! 次に期待しましょうと、優しい言葉をかけてぇ!? 次は、お待ちかねの妾がゆくぞぉ~! 妾がァ!! 妾が、一発でブチ当てるところを見ておれぇ~!! うひょぉ~!!」
七つの尾を持った女が、親指に薬指の先端を引っ掛けてデコピンの姿勢を取る。
彼女は、勿体付けた動作で指を構え玉を狙う。
「さぁ、ゆくぞぉ~!! 見ておれ見ておれ見ておれぇ~!! 目ん玉コリコリに凝らして、見ておれぇえええええええええええええええええええ!!」
よく目を凝らせば、それがただの玉ではないことに気づく。
「うっひょぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
それは、人間の目玉。
白沢王が鬼を切る場面が描かれた障屏画に磔にされ、床へと臓物を撒き散らしている男の腸に焼きつけられた貝殻、そこに書かれた『点数』を狙って七尾の狐は絶叫し――動作を止める。
「……なにか」
この姿態、この時代、この場所では、藻女と呼ばれていた女――
「なにか、面白いのが来たのぉ」
魔人、万鏡の七椿は咲った。




