藤原の姫
諸国から徴発された衛士、舎人ら課役民の棲家――諸司厨町。
諸司厨町には、庇の付いた掘立柱建物が並んでおり、朱雀門周辺から洛陽となる東側(左京)に集まっている寝殿造りの貴族邸宅と比べれば粗末としか言いようがない。
土間と床座の二室のみが存在する『二室住居』。
囲炉裏や物干し竿や洗い桶といった最低限の調度品と二人が座れば、人数オーバーとなる床座には血塗れの幼女とカバネが座る。
既にネズミは「案内は済んだ。これにて」と場を辞しており、ヨウとセイのふたりの少女は土間で水壺に座っている。
「…………」
血に塗れた幼女は、じっと、ヨウとセイの間で立ち竦む俺を見つめていた。
「おれは、屍と申します」
正座をして、深々と頭を下げたカバネは手でヨウとセイを示す。
「こちらは、夭。そちらは、星。ご存知だとは思いますが、我ら、陰陽道に通じております」
「…………」
ぼんやりとしている幼女は、俺からカバネへと目線を移す。
「……名を教えて頂いても?」
「…………」
「…………」
ゆっくりと、血で色づいた唇が割り開く。
「……陽と申します」
彼女は、小さな指で、床に『陽』と描いてみせる。
カバネは、ちらりとセイに目を向ける。セイは、静かに首肯した。
「真名ですか」
「……はい」
辛うじて聞き取れる小さい声で彼女はささやく。
話についていけていない俺は、こっそりとアルスハリヤに耳打ちする。
「……真名ってなんだ?」
「この時代で言うところの漢字のことだ。この時代の識字率は、貴族の集う平安京であろうとも1割もないだろう。まして、漢字混じりの草仮名を読める者なんて源氏物語を嗜む一部貴族くらいのものだ。普通、この薄汚いガキが読めるものじゃない」
アルスハリヤの解説に「へ~」と適当な返事を返し、俺の前で進んでいく会話へと耳を傾ける。
「……貴方様も、真名を読めるのですか?」
カバネは、返答の代わりに『屍』と描いた。
「陽様もご承知だとは思いますが、藤原に基づいた陰陽師は一字の真名を持っております。おれは、婢女の死骸の腹から蛆と共に生まれたので『屍』と付けられました。『夭』は、夭折の呪詛の最中に家族が皆殺しにされたこと、『星』は星が満ちている天の下に口減らしで捨てられたことが謂れとなっています」
無表情のヨウは足をぶらぶらと揺らし、頭の後ろで両手を組んでいるセイは鼻を鳴らした。
そんな様子を眺めたカバネは苦笑する。
「『夭』も『星』も、俺が付けた名です。陰陽における呪術において、その謂れと真名はおぞましければおぞましい程に有利に働く。故にそのような名を付けましたが、実のところを言えば、おれは、貴女の真名のように『夭』には『華』か『扇』を、『星』には『霧』か『雨』を付けてやりたかった」
何時になく。
優しげな表情を浮かべた彼はつぶやく。
「いずれ、世が落ち着けばそうしてやるつもりです」
「…………」
「失敬。今は、斯様な四方山話に花を咲かせる謂れはありませんね」
カバネは、すっと表情を消した。
「今日より、貴女様の守護を仕ります。どうぞ、よしなに」
「…………」
陽は、ちらりと俺へと目を向ける。
「……貴方様の式神ですか?」
「は?」
くるりと、振り向いたカバネはあらぬ方向へと目を向ける。
訝しみを顔に浮かべた彼は、ヨウとセイと目線を合わせるが、彼女らはゆっくりと首を振って答えた。
「我らの中に式を扱える者はいませんが……アレは、安倍にしか遣い手はおらんと聞き及びましたが……」
「…………」
陽は目を閉じて。
開いた時には、淀んだ瞳の中にカバネだけを残していた。
「……陽に守護は要りませぬ」
「承知しております」
正座したままカバネは、深々と頭を下げる。
「が、それでは我らが収まりませぬ。この京に留まらなければ、いずれは我ら三人、野に打ち捨てられ犬に腸を喰われるが必定。どうか」
「陽様さ~」
脳天気な声を上げて、セイはふぁあとあくびをする。
「なんで、藤原が誇る最強の陰陽師なのに護衛なんぞ必要なのよ? そっから、わかんなくない? あたしからしても、そこがしっくり来てないんだよね~。ね~、ヨウ?」
「……まぁ、なァ」
ぼそりとつぶやいて、ヨウはニヤニヤと笑う。
「なにやら、貴様に裏はありそうだなァん……くくっ……何やら、話せん事情があるのかなァ……?」
「ヨウ、お前はあまりしゃべるな。幾度繰り返したか知らんが、お前は、対人に向いていない」
ニヤつきながらヨウは口を閉ざして、水壺からすくった水を嚥下する。
「……光吉殿はなにも?」
「ミツ・ヨシ? 誰それ~?」
「藤原光吉殿だ。鼠と名乗っていただろ」
「あ~、ねずみのおっちゃん殿ね。なら、ねずみのおっちゃん殿って言わないとわかんなくない?」
わかんないわかんないを繰り返すセイの前で、カバネは眉間を押さえて苦悶の息を吐いた。
「成程、しっくりときました」
さらりと、陽は無表情で言った。
「陽は、藤原道長の娘です」
「「「…………」」」
時が止まって――
「はぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!? つまり、陽様は藤原のお姫様ってことぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!? はぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!? なにがどうなって、こんな糞溜まりで息してんのぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!? はぁあああああああああああああああああああああああああああ!?」
「ヨウ、黙らせろッ!!」
セイの鳩尾にヨウの拳が入って、ぐるんと白目を剥いたセイは失神する。
既に起立していたカバネは表口を見に行ってから、周囲に人の気配がないことを確認し、用心深く周辺の痕跡を確かめてから戸を閉めた。
「陽様……いえ、陽姫……それが真であるならば……なぜ……なぜに、貴女は斯様な御所で供も連れず、たったお独りで暮らしておられるのですか……?」
陽姫は、面を上げて――
「陽は、魔神から産み落とされました」
濁ったその目の中で、俺は、愕然と立ち尽くした。