平安観光山歩き
羽虫が多い。
空に太陽が出ている筈なのに薄暗く、視界の殆どが葉と枝と葦に覆われている。
ろくに舗装されていない獣道を、カバネたちは平然と進んでいった。
腰に差している鉈を振るのは必要最低限、黙々と進行を続ける三人の少年少女は、己の体力と脚力を熟知しており、かかとの部分が存在していない『尻切れ』と呼ばれる草履を履き潰しながら進路を定める。
もし、俺の実体がこの場に存在していれば、とっくの昔に置いてけぼりにされていたことだろう。
虫も枝も窪も。
この場に肉体を持たない俺には、なんの関係もなく、観測者として存在している俺は歩を進め続ける。
俺は、ちらりと、背後のレイに眼を向ける。
「…………」
無言で。
虚ろな目を虚空に向けているレイは、ふらふらとしながら、刷り込みを受けた鴨の雛のように俺に付いてくる。
急に目を覚ましたかと思えば、声を掛けても反応がない。
そんな状態のレイが気にかかるものの、触れることすら叶わず、ただ付いてきてくれることを祈ることしか出来ない。
「アルスハリヤ」
「ん~?」
この『払暁叙事の記憶』の中に飛ばされてから、上機嫌な魔人は、物見遊山に訪れた貴族のようにルンルン気分で応える。
「この記憶の中ですべきことについて、大部分はお前の意見に同意する。このままカバネの背中を追いかけることにも賛成だ。ただ、気にかかることが多すぎる」
「聞こうじゃないか。どうせ、着くのに3日はかかる」
3日……徒歩で3日の移動……蚊と虻と蚋で満たされた山中を3日も歩く……カバネたちのしっとりとした肌と浮き出た汗を見れば、高温高湿の天然のサウナ染みた悪質な環境が窺える。
視るだけでも、げんなりした俺は、意味がないと知りながらも手癖で葉を掻き分ける。
「もし、ココがお前の言う通り、払暁叙事に蓄えられた記憶の中だとすれば……どうやって、俺たちはこの世界でライゼリュートに干渉する?」
「おいおい、はじめてのお使いに出たキッズか、君は? 座り方からフォークの持ち方まで、手取り足取り丁寧に教えられて、立派なお子様ランチが出てくるまで強請り続けるつもりか?」
肩を竦めたアルスハリヤは、人差し指と中指を足に見立てて、トコトコと俺の肩の上を歩かせる。
「その答えは、これから向かう先にある。払暁叙事は、藤原が根源の魔眼だ。君と混浴した妹が『正統後継者しか開けない金庫に仕舞われていた』と謳った秘蔵の奥義書も、そこらの床に放り捨てられているような時代だよ。この記憶旅行における『穴』も、そこに存在している筈だ」
「ノーアイディアを、ココまでまだるっこしく言えるのはお前くらいだな」
魔人は、ニヤリと嗤う。
「君は、こういった事態も想定していたんじゃないのか?」
「なんで、そう思う?」
「敗北感に打ちひしがれていないからだ。敗けたと思ってないだろ、君? もしかしたら、こうなるんじゃないかと想定しながらも朧車に乗り込んだんじゃないのか?」
「……恐らく、最善だったのは」
俺は、つぶやく。
「七椿の鏡面上の万面鏡像で、九歳に戻った時の俺が、キリウを殺しておくことだった」
「ほぉ……」
「ただ、それは合理性に則った最善だ。なにがあろうとも、俺は選んだりしない。もし、キリウが俺と同じ立場であれば、迷わずその道を選んでいただろうが……ヤツは、俺にその選択肢がないことも把握しているし、もう過ぎ去った機会にとやかく言っても仕方ない」
「ククッ、そこまで君がヤツのことを評価するとは意外だな。僕の眼には、茶番劇の末に黒幕に操られて、全滅を選んだバカな女としか映らなかったがね」
「…………」
俺も、今の今までは、アルスハリヤと同じ考えだった。キリウの裏に隠れた黒幕こそを警戒すべきだと思っていた。
だが、あの場面、どう考えても『目的』が噛み合っていない。
黒幕の目的、そして、キリウの目的。
誰が巫蠱継承の儀という舞台を用意して、誰がその舞台を捻じ曲げたのか。
もし、すべて、俺の推測が当たっていれば――俺は、眼の前で弾け飛んだキリウの頭を思い浮かべる。
「…………」
あの瞬間――徳大寺霧雨は、人間性を捨てた合理性の怪物として完成した。
「この記憶旅行こそが、黒幕の目的であるのなら」
自身が汗をかいているような妄想に襲われ、俺は、触れられない自身の額を袖で拭う。
「その意味を見出すしかない……恐らく、その先に俺が望む答えがある」
「そう気負うなよ」
ふぁあと、アルスハリヤはあくびをする。
「平安時代なんて、そうそう来れるものじゃないんだ。じっくり観光しろ。君の大好きな女も、たらふくいるぞ」
「人様のことを女好きに仕立て上げてんじゃね――」
ぴたりと、カバネが止まる。
と同時に、彼らは音もなく樹木の陰に身を隠し呼吸を止め、抜いた鉈を前腕に隠す形で構えた。
ひっそりと。
静まり返った森の中から、ぬぅっと一匹の蜘蛛が顔を出した。
それは、俺の知る蜘蛛ではなかった。
身の丈、七尺(2.1m)。
鬼の顔と虎の胴、八本の蜘蛛足をもつ大蜘蛛。
びっしりと繊毛が生えた虎の胴体は、波立つような黄と黒の縞模様をもっている。360度回転している鬼の顔に付いた眼と口はカッと見開かれ、シャカシャカと音を立てながら、黒毛が伸びた蜘蛛脚が頭上を徘徊する。
くるっ、くるっと。
鬼の形相を帯びた顔面が回転する度、瞼がピクピクと痙攣し、ふっくらと芋虫状に膨らんだ胴体に空いた気門から空気が抜ける音がする。
「きっもッ!!」
「土蜘蛛だな。そこらにウヨウヨいるゴミ虫の一種だが、このガキどもを糸楊枝代わりに使うくらいは容易い」
「……ココ、ダンジョンじゃないよな?」
「この時代のこんな山奥に、検非違使を置くとでも思うか? どうせ、こんなところで死ぬのは『餓鬼草紙』に描かれるような輩ばかりだ」
この時代、現界と異界が繋がっている裂け目は放置されているらしく、ダンジョンの出入り口も万客万来のオープン状態だったらしい。
よくよく見てみれば。
鬼の顔の口の中、牙と牙の隙間には人間の足らしきものが引っ掛かっていた。
「食後だ。こちらの臭いは嗅ぎつけているだろうが、そこまで執着せずに巣穴に戻るぞ」
アルスハリヤの言った通り、しきりに樹に上ったり下ったりを繰り返していた土蜘蛛は、尻からぴゅるぴゅると糸を吐き出した後、シャカシャカと音を立てながら木々の間の暗がりへと消えていった。
「キモすぎる……平安時代って、もっと、華やかな時代じゃないの?」
「華やかだぞ」
ニンマリと、アルスハリヤは嗤う。
「綺麗な赤色で、そこら中染まってるからな」
「…………」
何事もなかったかのように。
カバネたちは行進を再開し、千切った野草を口の中に押し込み、口内を真緑に染めてから滑るように走り始める。
「賢いな。臭い消しだ。土蜘蛛は鼻が良い。巣を張ったということは数分すれば戻ってくるし、人間の口臭を辿って後を追われる可能性があるからな」
走る。
走る、走る、走る。
「…………」
無言で付いてくるレイも、また駆け足になり、俺はカバネたちの脚力に驚きながら後を追いかける。
月が下りて、日が上り。
幾度か、日を跨いで。
ようやく、俺たちはカバネが目指した目的地へと辿り着いた。
早朝、払暁に染まる山肌で。
俺たちの眼前で霧が晴れ渡り、山下に備わっていた『京』を見下ろす。
東西約4.5km、南北約5.2km。
条坊制に則り、唐の長安を真似て、碁盤目状に区画された都市。
市街の中央に配置された朱雀大路、その北には政治の中心となる大内裏があり、大路によって分けられた左京と右京が在る。
東西南北にびっしりと引かれた街路、その理路整然さは歪な執着さすらも感じさせた。
聳える丹塗りの羅城門、寝殿造りの屋敷が碁盤目に並び立ち、帝が着座する高御座が据えられている大極殿が豆粒のような大きさで、うっすらと視界を掠めている。
どこまでも。
どこまでも、広がってゆく、敷き詰められた建造物の数々。
「……コレが、平安京」
その緻密な広大さに息を呑み――羅城門が吹き飛んだ。
なにやら、火の手が上がる。
もうもうと煙が吹き上がり、ゆったりと死臭が漂い始めて、顔を見合わせたカバネたちよりも早く――俺は、駆け下りていった。