限界ヒイロくんはおうちにかえりたい
シャツが、風にはためく。
「…………」
蒸気魔導機関車の天板の上、取り外した座席と座席の間に立てかけた九鬼正宗の鞘。
その鞘にシャツをかけて乾かしている俺は、ぼーっと揺れ動く様を眺める。
巫蠱継承の儀が始まってから――一週間が経った。
殺し合いは起きていない。
それどころか、レイもキリウもカオウも、この世界から存在を消してしまったかのように接触してくることはなかった。
無線基地局もしくはその代替とされる敷設型特殊魔導触媒器が存在しない異界は『圏外』扱いで、電波や回線を通す小型の次元扉が近辺になければ現界へ連絡を取ることは出来ない。
平安異京は、まさに『圏外』に位置する場所だった。
魔導触媒器だろうがスマートフォンだろうが衛星電話だろうが、外部に連絡を取ることは出来ず、朧車を下りれば失格と見做されるので、この機関車に乗っている間は助けを呼ぶことは不可能だ。
俺たちは、機関車の上で遭難している。
どこまでも、どこまでも、どこまでも。
走る機関車の上からは、枯れ果てた三条櫻の姿を確認することが出来た。
あたかも、それは、俺たちの未来の姿のようで。
車輪の下の水場には生き物は棲み着いておらず、魔法で生成した簡易的な釣り竿では、魚一匹釣り上げることすら叶わなかった。
備蓄されていた保存食も底をついており、こだわりの強い寮長がコンソメ派からのり塩派に乗り換えるくらいのひもじさが俺たちを襲っていた。
そろそろ、もう、限界だ。
極限状態を迎えた俺の両眼は落ち窪んでおり、頬はこけていて、百合の幻覚が見えるようになり、あまりのストレスに貧乏ゆすりがやめられない。
このまま、この状況が続けば俺は死ぬことになる。
これ以上、月檻やラピスや寮長と寝室を共にすれば――何らかの間違いを起こして――頭蓋骨の中で脳が爆発四散する。
「に、二巡してる……二巡してるんだぞ……きょ、今日は誰だ……誰と一緒に寝ることになる……つ、月檻は嫌だ……ひ、人の気も知らないでやりたい放題しやがって……ら、ラピスも……ラピスも終わる……そろそろ、エンディングを迎える……りょ、寮長も嫌だぁ……こ、婚約者ってなんだよ……婚約者だからって、なんでもしていいわけじゃないだろぉ……しょ、正気なのは俺だけか……俺だけなのかぁ……?」
頭を抱えてウヒウヒ笑いながら、ガジガジと爪を噛んだ俺は必死で正気を保つ。
無言で。
上がってきた月檻は、半裸の俺の頭の上に肘を置く。
「ね」
スッと。
まともなフリをした俺は、弱みを見せないために真顔になる。
「なんすか」
「コレ、もしかして」
なにが楽しいのか、月檻は微笑む。
「私たち、敗けてない?」
「……やっぱ、そう思う?」
俺はため息を吐き、洗濯物をもってきた彼女は、無用の長物となった各々の魔導触媒器に上着と下着を干していく。
何時もの作業を終えた後、ごろんと寝転がった月檻は俺の膝の上に頭を載せる。
「ふたりっきり……だね」
「下に、腹を空かせた子供がふたりもいますよね?」
だらけきっている月檻を転がして退ける。
乾いた洗濯物を取り込んだ俺は、手早くシャツを身に着け九鬼正宗を腰に差し、緩慢に走り続ける機関車の上を歩き始める。
追いついてきた月檻は、だらんと俺に全体重をのせてきて、文句を言える気力もない俺は彼女を背負ったまま進む。
「この上が弐号車だろ? で、もうひとつ先が壱号車。煙突があそこにあるからボイラーがここ、そこの凸部分が蒸気ドーム。魔力を燃やしてる火室があって、機関室、燃料となる導体が溜め込んである導体庫と水タンクはその下」
「…………」
「月檻さん、人の肩を顎で掘らないで。なにが楽しいのソレ。やめて。あと、脇腹を揉まないで」
「で?」
肩越しに、月檻は俺の顔を覗き込む。
「なにか、考え、あるんでしょ? ヒイロくんだし」
「この一週間で、大体、絡繰はわかった」
俺は、笑いながら断言する。
「レイもキリウもカオウも、この蒸気魔導機関車の中にいる」
「肆号車と寝台車しかないのに?」
「いや、この下がある」
俺は、本来、参号車が備わっている筈の客車の上部を歩き回り――
「……ココだな」
目星をつける。
九鬼正宗の握り手を握って――後ろ手を組んで、じーっと、こちらを眺める月檻を見て手を離す。
「……近いね」
「そ?」
月檻は、肆号車の上にまで下がる。
「……いや、まだ近い」
後ろ手を組んだ月檻は、後ろ歩きで端にまで下がり――
「ダメだわ。お前、一回、肆号車の中にまで戻って。飛び散った破片とか流れていって当たったら困る。ありとあらゆる女を恋の奈落へと突き落とす、その化け物みたいな顔面が損傷する可能性があることに耐えられない。月檻桜には、顔面力だけで天下をとって欲しいし、その美顔で化粧水とかのCMに出演して欲し――」
「ヒイロくん、たまにすこぶる気持ち悪いよね」
月檻の完璧な笑顔で傷ついた俺は、涙目になりながら接ぎ人を発動させる。
十字に刻まれた天板が下に落ち、俺より先に月檻がひらりと階下へと飛び降りる。
「……参号車」
『参』と描かれたプレートを確認した月檻は、周囲を見回し、人影がないことを確認してから騎士の右奪手から手を離す。
「前に窓から入った時は、参号車じゃなくて寝台車だったのに……なんで……」
「不思議の国に行けるのはアリスだけだ」
俺は、口端を曲げる。
「白ウサギの見つけ方にはコツがあるんだよ」
ポケットに手を突っ込んだ俺は、参号車から弐号車へと続いている筈の扉を開き――眼前に現れた寝台車の様相を眺める。
「また、寝台車?」
俺は、鋭い目つきを床に向ける。
「いや、微妙に違う……よく見てみろ、月檻……俺と寮長が散らかしたデジ○ンカードとお菓子の空袋がない……」
「アレ、さっき、ラピスが片付けてたよ」
「そっか……」
窓の外を眺めるフリをして、ハードボイルドに羞恥心を誤魔化している俺を無視し、脇を通り抜けた月檻は寝室の扉を開ける。
「本当だ……ココは、別の寝台車か……」
ほんの少しだけ乱れているベッドシーツを確認し、彼女は頷く。
「私とヒイロくんのベッドだったらもっと乱れてる……」
明らかに、俺の動揺を誘っている月檻の態度。
直ぐには返答を出さず冷静さを保った俺は、主人公様の仕掛けた罠にかかることはなく、苦笑してからゆっくりと口を開いた。
「お、おま、お前が、ねが、寝返り打つからじゃん!? な、なんもないよね!? な、なんも!? なん、なんも、なかったよね!? ね!?」
微笑んだ月檻は、しゅるりと胸元のリボンを解く。
「確かめてみる?」
「うわぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! もういやだぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! ぼく、もう、おうちかえるぅううううううううううううううううううううううううううううううううう!!」
「じょ、冗談だって」
ぐすぐす泣いている俺は、月檻に手を引かれて寝室から出る。
数十分後。
泣き止んだ俺は、月檻と共に肆号車へと戻り――
「では、今から、この機関車を徹底的に破壊します」
全員の前でそう宣言した。




