全員、参戦
水。
水が満ちている。
満ちた水面は水鏡と化して、俺の足先から青空まで映し取る。
水の中に沈む線路。
遥か彼方に聳える大樹から伸びる生命線、線路に絡みつく木の根は生に縋り付く執念を感じさせた。
「櫻……」
枯れ落ちた櫻の大樹。
100メートルから200メートルはあろうかという巨躯をもつ櫻の樹……日本最古最大級とも呼ばわれる山高神代櫻でも、その樹高は10.3メートル、本来の櫻という種はココまで巨大に育つわけもない。
そうであれば、櫻ではないのではないかという疑問も抱くが、渋みのある赤紫と光沢、横長の筋が目立つ樹皮、特徴的なクマリンの香りは櫻独特のもので、枯れて半ば死んでいるその樹体の正体を露わにしている。
その櫻の大樹は、一本だけではなかった。
横死する櫻。
右と左に交錯しながら倒れ伏し、救いを求めるかのように枝を伸ばしている二本の櫻。
立死する櫻。
その間に挟まれて、中央で天へと幹を差し伸ばしている一本の櫻。
死と死と死。
三本の櫻は、寄り添い合いながら重なり合っていた。
その様は。
――役目を終えた人体の成れの果てを思わせる
霧雨が支配するナイトクラブ『Dionysos』で見たロンダニーニのピエタを連想させて、どうしようもない哀切が胸に過る。
「三条櫻か」
ズボンの裾を上げて。
脱いだ靴を指に引っ掛けていた裸足の俺は、掠れて文字が識別出来ない停留所で、傾いだベンチに寝そべるアルスハリヤを捉える。
「懐かしいね、異界に満ちる魔術演算子の影響でココまで巨大に育ったか。神殿光都の世界樹のように、存在そのものが導体と化す程ではなかったらしいが、異常を抱えた不可思議として佇立したらしい」
「今頃、お目覚めかよ」
両肘をついたアルスハリヤは、ベンチを軋ませながら両足をパタパタと振る。
「おいおい、寂しかったのか相棒? そう腐るなよ、さすがの僕だって年がら年中、君のことばかり想ってはいられないさ」
煙草代わりのシャボン玉を吹きつけ、アルスハリヤは大きくあくびをする。
「覚醒していられる時間が、日増しに短くなっているらしくてね……やたらめったら、どこぞの英雄気取りが魔人を虐めて目覚まし時計を掻き鳴らすもんだから、おねむの魔神の瞼がぴくぴく動いてるようだ……それに、僕は、ライゼリュートが嫌いだからヤツの臭いがすると起きる気もなくなる……」
「そもそも、お前が好んでる魔人なんてひとりもいないだろ」
アルスハリヤは、ぱちんとウィンクする。
「君のことは好きだぞっ☆」
「オェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!!」
「なんだか、最近、君の嘔吐も見慣れてきたなぁ」
寝そべったまま、彼女は指先で水面を掻き混ぜる。
「で? 結局、ココに居るってことは、巫蠱継承の儀には参加することにしたのかい?」
「なに、お前、人の裡で盗み聞きするのが趣味なの?」
「というか、君の苦しみしか愉しみがない。暇だから、もっともがき苦しめよ」
ニコニコとしたまま、俺はアルスハリヤの顔面を水面に浸けて、だらりと全身が弛緩するまで魔人の水漬けを実行する。
数秒後、何事もなかったかのように彼女は息を吹き返した。
「『平安異京』か」
水と空と櫻だけが残る空間を見回し、アルスハリヤは肩を竦める。
「鬼門の数が多すぎるとは思ってたが、こんなことになるとはねぇ……日月神隠しでもなければ、現界と異界の重ね合わせは悲劇しか生まないということか……あの末路は、実に喜劇的で嗤えたもんだが……やはり、ライゼリュートはセンスがないな」
よじよじと。
俺の背中を上ろうとしたアルスハリヤの頭を水の中に叩き込む。
「そういや、お前、平安時代にも目覚めてたんだったな……三条家の連中とも付き合いがあったりしたのか?」
「いちいち、粗末な玩具のことなぞ憶えてられるかよ。君は、幼少の頃合いに食した離乳食の味わいを憶えてるのか? 僕が保持する保存容量は、もっと有意義なものを残すためにある。恨みつらみを老いさらばえるまで記憶しているような七椿とは格が違うんでね」
後方へとブリッジしたまま俺は問いかけ、頭の先端を濡らしたまま魔人は答え――ふと、目を瞬かせる。
「ただ」
「ただ?」
「あの雌は嫌いだったな……払暁叙事……あの瞳……兄の方は扱いやすくて愚かで無様な阿呆だったが……あの雌は……まるで、なにもかも知っていたかのような……ライゼリュート……いや……まさかな……」
アルスハリヤは苦笑する。
「昔話はどうでも良い。今の話をしろよ。
僕の知ってる限り、巫蠱継承の儀はひとりでは参加出来な――」
ばしゃぁっと。
水飛沫を上げながら、美しい顔立ちが浮かび上がり、ふるふると首を振った彼女は綺麗な瞳でこちらを捉える。
「…………」
当然のように丸裸の月檻桜は、線路を掴んで停留所へと上がり、圧巻の裸体美を見せつけながら水気を帯びた髪を絞る。
「おっす」
「あ、あの、挨拶は良いんで、一回、服着てもらっていいですか……というか、なんで、全裸で泳いでんの……?」
うーんと。
頬に人差し指を当てた月檻は、小首を傾げて微笑む。
「水着がないから?」
「だったら、普通、水泳を楽しむのは諦めるのでは……?」
「だって暇だし。あの櫻が気になったから、泳いで行けるかなぁと思って。近くで見てきたけど、アレ、幻でもなんでもなくて実在してるね」
ココからあの櫻まで、何キロメートルあると思ってるんですか……?
「あの櫻、一体、なんな――」
「い、いいから、服着なさいよバカァ!!」
俺は、真っ赤にした顔を両手で隠して叫ぶ。
持参したらしいセカンドバッグからバスタオルを取り出し、下着を身に着けてから私服を身に纏った月檻を目視し安堵の息を吐いた。
「ねぇ、燈色くん」
だるだるのパーカーを着た月檻は、自身の開いた胸元と脚線美には一片の興味も抱かず、余った袖で水面を指した。
「そっちのお姫様は、裸のままでも良いの?」
ぶくぶくと。
泡を吹きながら、水中から目元だけを出したラピスは、頬を染めてこちらをじとりと睨みつける。
「なんなの……? この時期のこの付近は、痴女が出没するの……? 痴女図鑑で分布を調べたら、この辺りはびっしり痴女マーカーで埋まっちゃうの……?」
「痴女じゃない! 姫!! 私、神殿光都のお姫様だから!! 不敬罪で捕縛して世界樹に顔面めり込ませるよ!?」
月檻に引っ張り上げられて、ラピスはそそくさと衣服を身に着け――くるりと振り向いた俺の目に、何時ぞやの、エルフ特有の痴女衣装が目に入る。
「……やっぱ、痴女じゃん」
「だから、コレが神殿光都の正装なんだって!! 嘘じゃないから!! あ、御影弓手に荷造りをお願いしちゃったからこうなっちゃったの!! 好きで全裸クロールしてたわけじゃないし、好きで痴女衣装着て燈色に見せびらかしてるわけじゃないから!!」
自分で、痴女衣装言うてしもとるやん。
涙目のラピスは月檻の袖を引っ張って懇願し、胸元にワッペンがついたフライトジャケットを貸してもらって、サイズの合っていないソレを着てからようやく落ち着きを取り戻した。
「で」
肩を寄せてベンチに座るふたりを連写しながら、俺はため息を吐く。
「なんで、ココに居んの……?」
「暇だから」
「心配だから」
「はい、回答0点。赤点緊急退学、失せろ」
ぽかぽかと。
ふたりに挟まれて殴られた俺は、謝罪しながら殴打の嵐から抜け出す。
「俺は、臆面もなく師匠と姉という最強のカードを切ったつもりだったんですが……」
「残念」
足を組んだ月檻は、ベンチに無理矢理座らせた俺の髪を指先で弄びながら微笑する。
「ヒイロくんの大好きなお姉ちゃんは欠席。三寮戦の後から続いてる後片付けで、アイズベルト家にゴタゴタがあったらしいけど……十中八九、ヒイロくんと敵対してる連中の裏工作だろうね」
「右に同じ」
俺の寝癖を直すのに夢中になりながら、ラピスはつぶやく。
「アステミル、夏休み辺りからずっと忙しいらしくて、本来なら魔法合宿に参加する時間もなかったみたいだよ。神殿光都からも何回も呼び出しがあったみたいだし、珍しく手傷を負って帰ってきた時もあったし」
「いやぁ」
ニヤニヤとしながら、アルスハリヤは俺をおちょくる。
「愛されてるねぇ」
「黙れ」
「「…………」」
「貴女たちではありません!! 貴女たちではありません!! 髪の毛を抜くのはやめてください!! 髪の毛は!! 髪の毛は、将来に備えた貴重な財源なんです!!」
両脇から、髪を抜かれながら。
考え込んだ俺は、眼前で寝そべる櫻を見つめる。
藤原か徳大寺か西園寺……もしくは、三条家による妨害工作か……もし、俺が同じ立場でも、アステミルと劉を使わせないために全力を尽くす……。
思考を巡らせたまま、俺は自身の顎を撫でた。
これ以上、三条家のゴタゴタに神聖百合帝国の最大戦力を割くわけにもいかない……重傷を負ったワラキアたちを再度使うのはNGだ……緋墨たちの情報工作も長時間は持たないだろうし、拠点を嗅ぎ回ってるQ派が確証を得て、何時、女王に伝えてもおかしくはない……。
正直。
この状況下で、月檻とラピスが隣に居てくれることは心強い。最悪の場合を考えれば、月檻たちを付き合わせることには不安があるが……むしろ、この考え方は、実力者である彼女たちにとって失礼だろう。
「月檻、ラピス」
俺は、ふたりにささやきかける。
「頼む」
「わかってる」
「うん」
「毛を抜くのをやめてくれ……」
「「そっちかよ」」
師匠と姉の代理を受け入れた俺は、ふたりの間から抜け出そうとして失敗し――汽笛。
ゆっくりと。
緩慢な動作で現れた蒸気機関車は、集煙装置で誘導された蒼白い煙を煙突から吐きながら走行し、ガタンゴトンと音を立てながら車体を揺らして――お兄様――俺は、遊園地で見た豆汽車とレイの笑顔を思い出す。
汽車は――止まる。
音もなく。
降車してきた人の群れ。
小忌衣を身に着けて列を為す女性、遠文冠の代わりに平笠をかぶり、顔貌は赤色の六芒星が描かれた白の垂れ布で隠されている。
平安装束の上に羽織り、右肩から赤紐を垂らし、衣装の白麻地には青摺で枯れた櫻の紋様を入れている。
面妖。
言葉にしてみれば、そうとしか形容の出来ない人体の群体……異様なほどに整った隊列、左右に開いた人の波、その奥の奥から顔を出した藤原の姫君は凍てついた声音を発した。
「巫蠱継承の儀は」
紅緋の秋単衣を纏ったレイはささやく。
「各々の家々は、四人の参列を義務付ける……三条家当主代理、三条燈色、貴方に参加権は与えられない」
「レイ……」
様変わりした雰囲気、一瞥すらしない態度。
ぎゅっと胸を掴んだラピスはつぶやき、月檻は藤原へと姓を変えた友人を見つめる。
「四人目は……いずれ来る」
「刻限だ、故に認められない」
レイはささめき、俺は焦燥で拳を握り締める。
ちらりと、俺を一瞥してからレイは告げる。
「では、コレより、藤原、徳大寺、西園寺の三家に依る巫蠱継承の儀を開始す――」
「ちょぉーっと!! 待ったぁーっ!!」
影。
停留所の屋根から飛び降りた人影は、ぼちゃんと音を立てて水面へと着地し、俺とレイの間に飛び込んでくる。
忽然と現れた彼女は、もたもたと起き上がり、偉そうに腕を組んだ。
「義妹の危機は自分の危機!! 故に参戦するぞ!! なにせ、わたしは、ヒイロの婚約者で寮長で友達10人はいるからなーっ!!」
唖然としている俺の前で。
黄の寮の寮長――ミュール・エッセ・アイズベルトは、鼻高々に後ろのめりになる。
「ミュール・エッセ・アイズベルト、参戦ッ!!」
「アイエエエ!? 寮長!? 寮長ナンデ!?」
「ミュール・エッセ・アイズベルト……」
悔しそうに、レイは顔を歪める。
「どうやって……あの監視網を潜り抜けて、情報を入手したんですか……!」
「簡単なことだ」
ふふんと、寮長はコレでもかと胸を張る。
「盗み聞きしたッ!!」
「ぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!! 盗み聞きされてたぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
泣き喚きながら水面を殴る俺の横で、寮長はひとり勝利ポーズを決めていた。