櫻は咲かなかった
三条家、本邸。
愁雨に濡れた紅葉、約四十畳の大書院を囲む回遊式庭園、欄間には皇室ゆかりの菊の紋が彫られている。雲の切れ間から射し込む秋光は足元に忍び込み、涼風と共に秋の訪れを来客者に伝えていた。
秋湿りに苔むした和庭は、落葉の赤に彩られ落陽の橙に混じり込む。
「…………」
書院造りの一室。
独り、通された俺は頬にこびりついた血を放置したまま考え込む。
――現当主とお会い頂きたい
三条家の現当主。
原作ゲームでは、その代名詞のみが登場していた。ほぼほぼゲーム内では関わることはなく、レイ・ルートで彼女が家督を継ぐに当って、なんの当たり障りもなく後継の座を譲りフェードアウトしていく存在。
三条の直系は、三条燈色ただ独り。
ゲーム開始時点でヤツの両親が既に死亡していたこともあり、男の身でありながらその特権を享受していた。
レイ・ルートでのヒイロは、キリウやカオウに操られ利用され虐げられ、最終的には遠縁の妹の手で謀殺される。直系であるという自負で傲慢不遜を貫いたヤツは、百合の糧となり爆笑を誘った哀れな道化だった。
だが、現在の三条燈色は……俺は違う。
レイとの関係性が変わった現在、流れは変じ、ルートの大筋は同じでもその筋道と筋書きは書き換わっている。
鬼が出るか蛇が出るか、まだ機関箱は開かれていない。
「…………」
ま、幾ら考えても、やることは変わらないか。
茶のひとつも出さない三条家の無作法に嘆息を吐き、いつまで待たされるのかと嫌気が差してきて――黒。
そっと、視界を塞がれて、柔らかな手のひらの感触を感じる。
気配は感じず、殺気ひとつすらない。
俺は、咄嗟に九鬼正宗を抜刀しようとし――
「櫻は……咲きましたか?」
視界が開けて、目の端を掠めた色彩。
紅薄様の衵姿。
腰まで流れる射干玉の長髪は、肩元で絵元結で結ばれ、大垂髪で束ねられている。
夢現。
現と夢の間から抜け出してきたような小さな女の子は、紅葉の只中から生まれたみたいに忽然とその場に姿を現していた。
じっと、俺は、その童女を見つめる。
どことなく、彼女は三条黎を彷彿とさせる知的な眼差しをもっていた。
「……三条家のガキか?」
降り始めていた霧雨には目もくれず、ぱたぱたと庭に裸足で出ていった彼女は、傘も差さずにぴょんとその場で飛び跳ねて着地する。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
なんだ、現在の小ジャンプ……?
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
俺とジャンプ力で競おうってのか、このガキ……?
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
良い度胸じゃねぇか、買ったぜその喧嘩ァ……!!
「…………」
無言で、俺は、その場で屈伸する。
入念な準備体操を終えた後、引き金を引いて思い切り跳躍し――強烈な破砕音と共に俺の頭は天井を突き破り、天井裏に居たネズミと眼が合う。
「…………」
俺とネズミは見つめ合う。
「…………」
迷惑そうにネズミは立ち去り、頭から血を流しながら俺は微笑む。
「完勝したな、三条家のガキに」
一昔前のトゥーンアニメみたいな感じで、両手で自分の頭を引っこ抜いた俺は、ホコリと木屑を肩から払いながら童女に笑いかける。
「よぉ、元気? 俺は瀕死」
「…………」
イロハモミジの庭木に隠れていた彼女は、おずおずと顔を出してはぴゃっと隠れ、まじまじと俺の額から流れ落ちる血を見つめる。
「そんなところに居たら濡れるだろ? こっち来たら?」
「…………」
「名前、なんて言うの?」
「…………」
「俺は高校生百合好き、三条燈色。遠縁で血の繋がりがほぼない三条黎と遊園地に遊びに行って、百合ずくめの妄想に耽ってる己を自認した。妄想に耽るのに夢中になっていた俺は、背後から近づいてくる、シリアスパートに気づかなかっ――」
「……兄様を見ませんでしたか?」
お前、OP飛ばすタイプの幼女かよ。
鈴が鳴るような軽やかな音色、上ずった声を上げる彼女は小首を傾げる。
「ずっと、兄様を探しております」
「兄? どんなヤツ?」
ちまちまと。
カニ歩きで木陰から出てきた彼女は、両腕で一生懸命に丸を描く。
「やさしー御方となります」
「うーん、もうちょい具体的なネクストサンジョーズヒントが欲しい」
顔を赤くした幼女は、再度、必死にまんまるを連続で描いた。
「幼馴染がおります。姉様と姉様です」
「ごめん、迷宮入りしそう」
「あ、姉様と姉様は、兄様を好いております。口吸いの機会をうかがっております。いやらしーです」
「姉様と姉様は、口吸いしたりしないの?」
「しません……」
「俺が土下座しても?」
「し、しません……」
なぜ土下座を実演しただけで、若干、引かれているんだ……?
涙を溜めている小さな女の子を見かねて、俺は嘆息を吐きながら後頭部を掻きむしる。
「お前、分家のガキだろ? とりあえず中に入んな? 俺の百合コレクションから、オールタイム・ベストを読み聞かせてやっから。お前が真理に気がつく頃には、行方不明の兄様も棚と棚の間あたりから急に出てくるだろ」
「兄様は失せ物ではありません……わたくしと……陽姫とかくれんぼしてるので……兄様が見つけてくださる筈なのです……」
「あ? かくれんぼ? どっちが鬼?」
「兄様……」
「なら、自分から見つかろうとしたら駄目じゃねぇか」
「でも」
彼女は、泣きそうな顔で自分の右手を擦る。
「見つけてくれるんです……約束しました……わたくしの手を握ってくれるって……だから、陽姫は手を伸ばして……いっしょに櫻を見に行くと言いました……」
「櫻? 今、秋だけど?」
ハッと。
彼女は、顔を上げる。
「櫻は……咲いておりませんか……?」
「い、いや、今は秋だから櫻は咲かないだろ?」
あまりに真剣味を帯びた表情に、冗談を返そうとした俺はしどろもどろになる。
愕然と。
美しい童女は、自分の右手を見つめる。
「でも……」
顔を歪めて、彼女は言う。
「約束……しました……」
なにを言えば良いのか。
皆目見当もつかず、ただ、その場の沈黙に耐えかねた俺は口を開く。
「なら、大声でさ、しゃがんで目をつむって数でも数えてみれば良いんじゃねぇの? いーち、にー、さーんって、そうすりゃ、兄様も気づいてくれるだろ?」
勢いよく。
俺が思わず仰け反るくらいの勢いで。
童はこちらを振り返り、目を見張ったままでつぶやいた。
「式神さん……?」
「は?」
「あぁ、そうなのですね、斯様な出で立ちだったのですね……払暁叙事が……だとすれば、わたくしの見ているコレは……」
まじまじと、自分の両手を俯瞰したまま彼女は下唇を噛む。
「陽姫は、もう、兄様には逢えないのですね……櫻は……咲かなかった……わたくしは、あのまま……藤原も三条も徳大寺も西園寺も……もう、なにもかも終わってしまったのですね……陽姫は、あのまま……きっと、兄様も……」
ぽたぽたと。
自身の右手へと、小さな彼女は涙をこぼした。
顔が、上がる。
頬を震わせながら顔を歪め、綺麗に澄んだ瞳が俺を捉える。
小さな右手が――俺へと伸ばされる。
「兄様に……」
彼女は言う。
「兄様に……伝えて……わたくしは……陽は……」
泣き声が、俺の胸を打つ。
「一度足りとも、悔いたことはありません……他者から見て不幸であったとしても、わたくしは、兄様の妹であることが幸せでした……」
「どういう意――」
「ただ、ひとつ、悔いることがあるとすれば……」
小さな彼女は、泣きながら笑う。
「皆で……咲いた櫻を……櫻を見たかった……」
自然と。
足が動いて、俺は、雨の中へと飛び出し――激痛――両眼から脳天に突き抜ける衝撃、ぬかるみへと膝をついて呻く。
唸り声を上げながら、降りしきる雨中へと目を上げる。
姿はない。
気配もなく、残り香も残らない。
消え失せた童女の姿を求めて俺は庭を彷徨い歩き――
「三条燈色殿」
困惑している侍衛頭に声をかけられる。
「如何いたしましたか……?」
「……女の子が」
雨粒を受けて、垂れ落ちる前髪。
その隙間から虚空を睨めつける俺は、泥まみれになった自身の靴下と爪先を見つめる。
「あんなにも小さな女の子が俺に手を伸ばした……レイによく似ていて……あの子は……あの子はどこだ……泣いていた……俺に助けを……俺に助けを求めてたんだ……」
俺は、首だけを曲げて尋ねる。
「……あの子はどこだ」
「し、知りません」
「…………」
「ほ、本当に知らない。今日、本邸に子供がいる筈がない。た、立ち入りの認可を得られている人間の中で年端も行かぬ少女などいない」
俺は、ずぶ濡れのままで座敷に上がる。
無言で侍衛頭の脇を抜けていき、通り過ぎざまにささやく。
「……もし」
俺は、横目で睨めつける。
「あの子が泣いている遠因がこの家にあるのなら……俺は、この家を跡形もなく消し去る……」
冗談だと思ったのか。
口端を曲げた彼女は、俺の目を見て――凍りつく。
「う、嘘は言っていません……そ、そんな子供は知らない……も、もし、実在していたとしても……み、見知らぬ子供なんぞを助けるためにこの家を消すつもりですか……」
「違う」
俺は、ささやく。
「ただ、泣き止ませるために滅ぼすんだ」
侍衛頭から表情が消える。
俺は、ひたひたと足跡を残しながら奥の間へと進んでいった。