霧雨に烟る思惑
赤。
赤い点が、闇に宿る。
「…………」
黙りこくった長身の魔女は、階下の喧騒から切り離される。
虚空を捉えているその双眼は、本来の色を取り戻し黒く染まっていた。
緋色のカラーコンタクトを外した彼女は、ソファーに凭れ掛かったまま、肺いっぱいに溜め込んでいた曇天を吐いた。スモークグレーが空間を侵略していき、クリアルームを満たしていく。
「…………」
「答えられないのか答える気がないのか、どっちだ」
「…………」
気怠げに、彼女は身動ぎする。
暗闇に慣れた俺の目が、緞帳に囲まれた空間に備わった飾り付けを明らかにする。
人、否、像。
なぜ、今まで気づかなかったのか。
くっきりと映り込んだ彫像が、心中へと染み込むようにして存在を露わにする。
2m程の高さを持つ彫像を背後に控えさせたキリウは、物言わぬ像の仲間入りをしたかのように秘匿を続けていた。
力なく。
そう、力なく崩れ落ちる間際の人間。
人間のもつ肉や骨を失い、流体と化したかのように流れる体躯。その流れるような全身を支えるようにして、背後に寄り添う女性の影を描いた彫像。
「ロンダニーニのピエタ」
月檻がささやき、俺はその言葉を引き取った。
「ミケランジェロか」
お坊ちゃまとしての英才教育の一貫か。
月檻の一言で海馬が刺激されて、俺の中に宿っていたヒイロの記憶が蘇る。
磔刑に処され、その刑から解放されたキリストを抱く聖母マリアの彫刻や絵画を指す『ピエタ』の一種……ミケランジェロが、ピエタを題材として制作した四つの彫刻作品の中で、その死の直前まで彫られていたとされる未完成品。
ロンダニーニのピエタ――晩年のミケランジェロが遺した哀切。
キリストは男性である筈だが、その彫像には男性器が備わっていない。元の世界の作品を知らない俺は、ソレがこのエスコ世界特有のものなのかわからなかった。
「…………」
くたびれたスーツ、疲れ切った表情。
彫り込まれた苦役を表した三条霧雨は、ぼんやりと後ろに立ち尽くす彫像を眺めながらささやく。
「……あぁ」
こちらを見もせずに、彼女はつぶやく。
「来てたんですか、坊っちゃん……」
「その口が、見掛け倒しのお飾りじゃなくて良かったよ」
「良い像だとは思いませんかぁ?」
俺の皮肉には耳を貸さず、足を組んだキリウは彫像の太ももを撫で付ける。
「ミケランジェロのピエタと言えばぁ、どいつもこいつも『サン・ピエトロのピエタ』を口にしますが……ぼかぁ、コレが最も優れていると思いますよぉ……役目を終えた人体の成れの果てを思わせる……支える側と背負う側の人間が融合しているように見えるのは『哀切』にぴったりだ」
当然のように。
最も優れていると称した像の太ももで煙草を消したキリウは、己の髪を掻き回してから吸い殻を床に放り捨てる。
「ぼかぁね、人間は誰も彼もが、この世界に磔にされていると思ぅ。死とは磔刑からの解放であり、その瞬間にようやく、背負わされた苦役とおさらばすることが出来る」
「おいおい、いつの間に寺籠もりして世俗を捨てたんだ? クラブミュージックをかき鳴らしてる寺社仏閣なんて初めて見たぜ?」
「くくっ、坊っちゃん、羨みが胸に宿りませんかぁ?」
髪を掻き上げてキリウは笑う。
「ぼくとあなたは似てますからねぇ。苦役を背負って磔刑に処されている者同士、この彫像には思うところがある筈だぁ」
「似てねぇよ。ファミレスで間違い探ししてるガキに聞いてみたら、俺とお前の相違点が数え切れないくらいに溢れてくるだろ」
「くくっ、さてはてどうだか」
苦笑するキリウへと――月檻が、飛び出し式の隠し短刀を突きつける。
「煙に巻いてないで、とっとと答えてくれる?」
「坊っちゃん、また新しい女ですか」
「新しい女じゃない」
月檻は、微笑む。
「私が、一番、最初」
「月檻さん、こういう場面でふざけないで良いから」
眩む視界。
場の雰囲気に呑まれて、吐き気を覚えていた俺は、同様に顔を青くしている月檻の肩を叩いた。
「月檻、武器は仕舞え。間違って、俺に刺さっちゃうかもしれないだろ」
「別に死なないでしょ」
俺の手を払い除けて、月檻はキリウの左肩に刃先を当てる。
「利き手、どっち?」
「さぁて、忘れましたねぇ」
躊躇いなく。
月檻は左肩に刃先をねじ込み、平然としているキリウは微笑む。
「おい、月檻」
「レイはどこ? とっとと答えてくれる? 私、ヒイロくんほど優しくないから」
左肩から血を流しながら。
ゆったりとした動作で、ラッキーストライクの箱を取り出したキリウは、口に咥えてから使い捨てライターで火を点ける。
無表情で煙を肺に吸い込み、ふーっと吹き出した煙が月檻の顔面にかかる。
左肩にねじ込まれた刃先が、ゆっくりと半回転する。
「レイはどこ?」
更に半回転、肉がえぐれて、大量の血が床に溢れる。
気にした風もなく、キリウは煙草を吸い続けて、俺に視線を投げかける。
「で、坊っちゃん、なにかご用事で――」
風切り音。
凄まじい勢いで腹部に突き刺さった足刀、ソファーごとロンダニーニのピエタをなぎ倒し、吹き飛んだキリウにのしかかった月檻は短刀の刃先を喉に押し当てる。
「私の友達は」
爛々と目を光らせて。
月檻桜は、肌が粟立つ程の魔力を発しながらささやいた。
「どこだ?」
「月檻、無駄だ、知ってても知らなくてもそいつはなにも口にしない」
「…………」
「月檻」
その細い肩に、手をかける。
震える手で短刀を離して振り向いた月檻は、縋るように俺の手を握り、熱っぽい吐息を吐きながら俺の肩に額を押し当てる。
「……私は」
彼女は、目を見開いたままつぶやく。
「もう、奪われたりはしない……二度と……」
「月檻……お前……」
誰になにを言われた?
その言葉を言い切る前に、彼女は俺から離れて、何事もなかったかのようにガラス壁に背を預けた。
「ごめん、ヒイロくん」
月檻は、綺麗に微笑む。
「後は任せる。ちょっと、具合悪いかも」
「……あぁ」
俺は、大の字になったまま、ぷかぷかと煙草を吸っているキリウを見下ろす。
「よぉ、死んだ?」
「生きてますよぉ、煙、出てるでしょぉ?」
キリウを立たせた俺は、手早く止血を行ってから、随分と丁寧に動脈を避けてみせた主人公の手際を確認する。
「うちの可愛い連れが悪いな。最近、甘えたべったりの反抗期で自分自身でもコントロールが効いてねぇんだよ」
わざわざ、歩いてきた月檻は、優しくぺちんと俺の頭を叩く。
起こした対面のソファーに腰掛けた俺は、膝に肘をどっかりと置いてから、右と左の指をくるくると回し――笑う。
「さぁて、楽しい交渉のお時間だ」
「先に言っときますがねぇ」
足を組み直したキリウは、ニヤニヤと笑いながら告げる。
「ぼかぁ、本件には一切関わってませんよ。というか、坊っちゃんなら、なぜ、レイお嬢様が姿を消したかはわかってるでしょぉ?」
「嘘だ」
通りがかりのウェイターにジンジャーエールをふたつ頼み、俺は二本指を立てたまま微笑む。
「あの違法カジノで、お前と接触した後、うちのKAWAIIメイドは別離を示すかのようなセリフを吐いた。その直後に、お別れ会みたいなデートをレイが企画してる時点で、お前の関与は決定的だし、その仕掛けはあの場で設けられた可能性が著しく高い」
「あの場で、坊っちゃんのメイドと接触する機会なんてありましたかねぇ?」
「あるだろ、たったひとつ。
俺の目が入らないうってつけの場所が」
俺は、ウェイターが置いていったジンジャーエールのグラスを――指で弾いた。
「更衣室」
一瞬。
キリウは、両眼を見開いて口を閉ざした。
「男である俺の侵入を阻む聖域だ。スノウがバニーガール姿に着替えている間、俺の目は完全にあの子から離れていた。その機会があれば、余計な戯言をたっぷりと吹き込む時間はあった筈だぜ?」
「…………」
「何時、どうやって、スノウは俺の九鬼正宗を回収したんだ? なぜ、その時点で脅威とも思ってもいなかった筈のカオウと接触する前に、俺を非常口から逃がそうとした? 来たことがない筈の違法カジノの裏口やカメラの場所を正確に把握してたのはなぜだ?」
「…………」
笑いながら、俺はグラスがかいた汗を指先で拭う。
「すべて、更衣室で親切な魔女と巡り合っていたと考えれば……綺麗なくらいに辻褄が合うんだよ」
曲げた口端から、キリウは紫煙を漏らす。
俺は、キリウが手に取ろうとしたジンジャーエールを奪い取り、月檻へと手渡しながら微笑を携える。
「で? この状況に持ち込んで、お前はなにがしたいんだ?」
「…………」
「言えよ」
両足を机に放り投げて――俺は、笑う。
「俺は、三条家を、レイを取り巻く薄汚ぇ策謀をぶっ壊すために来た。あの子の未来を塞ぐ障害はこの手でぶち壊す。それが誰であろうと何であろうと例外なく、俺の妹とそのメイドの笑顔を穢すゴミはぶち殺して取り除く。
だから、言えよ」
俺は、キリウの両の眼を覗き込む。
「言え、三条霧雨。俺の命は、あの子たちを護るためにある。
その覚悟があるのなら――」
笑ったまま、俺は煙のカーテンを透かして彼女を見つめる。
「俺の命を退かしてみろよ」
無言。
言葉を発さず、白煙を発した。
もうもうと煙を吐いていたキリウの視線は、定まらないまま宙空を彷徨い、ようやく俺の言葉を見つけて捉える。
「……櫻は咲かなかった」
その独白を耳にした途端、眼に激痛が走る。
キリウの顔が、別人に見えて――俺は、呆然と目を見開き――呼吸した途端、キリウではない誰かの顰笑は掻き消える。
「ぼく、カオウ、レイ、そしてあなたで……藤原時代をやり直し、長和六年の禍を再現し、現当主の死をもって三条を継ぐ者を決める」
三条霧雨は、砕け散った哀切の前で秘した本心を唱える。
「巫蠱継承の儀を執り行う」
彼女の両眼は――黒かった。




