不平等なオルギア
歓樂街、カブキチョー。
『不夜街』とも呼ばれるこの街は、居酒屋とキャバクラ、ガールズバーにラブホテル、パチンコ店とナイトクラブがひしめき合い、夜を知らないネオンサインが踊り狂っている。
人通りは絶えない。
地雷系ファッションに身を包んだ少女たちが視界を横切り、スリムタイプの煙草を咥えたキャバ嬢が過ぎ去っていく。大声で馬鹿話をしながら歩く女性の集団が、客引きと口喧嘩をしながら笑い声を上げる。
胸と足を露出した悪質な客引きが通りを占めており、SNSで引っ掛けた客待ちの立ちんぼが開いている画面が煌めき、酩酊した女性が魔導触媒器を抱いたまま路上で寝転んでいる。
食品店のゴミ箱を食い漁っている魔物の横で、貪るように熱烈なキスに夢中になっている女性たちがいる。
「…………」
公園に集った家出少女と値段交渉している女を横目に、黒のパーカーを着込んだ俺はフードを目深にかぶりビル壁に背を押し当てる。
「ホ別イチゴは?」
「だから、ホ別2だって。初回、2。何回も言ってんじゃん」
「なら、コンサータ要らない? ストラテラもあるよ? 私の友達が処方箋出してもらってさ、ちょっと余ってんの。ね? どう?」
「いらねー……うちの親から、幾らでもパクれるし」
上着のポケットに両手を突っ込んでいた俺は、壁に当てていた片足を下ろしてから時間を確認し――
「キミ、幾ら?」
待ち合わせの主が現れて、俺は視線を上げた。
「……月檻さん」
ショート丈のロンTに、ミニのデニムキュロット。
きゅっとくびれたお腹周りにすらりと伸びた両脚、惜しげもなくへそと太ももを見せびらかし、黄色いネオンを浴びた彼女の肌は艶めいている。
「腹も足も出過ぎでは?」
へそと足をコレでもかと露出した月檻は、にこやかに微笑みながらロンTの丈をぱたぱたと羽ばたかせる。
「見たい?」
「見たいとか見たくないとか、そういうニュアンスではないのよ。ただ、風邪引いちゃいそうだなって思って」
そっと。
俺の両手を自分の脇腹へと導いた月檻は、自身のくびれに男の指を這わせてから微笑む。
「なら、温めて」
柔らかな肉に、指が埋まる感覚。
「薄汚い手で、月檻の腹に触れるな下郎がッ!!」
間髪入れず、俺は自身の拳を壁に叩きつける。
実に愉しそうに口端を曲げていた主人公閣下は、痛めた俺の拳をよしよししながら上目遣いでこちらを窺う。
「別に、おヘソで沸かしたお茶しか飲めないヒイロくんのリクエストに答えたわけじゃないよ?」
「人のこと、えげつない感じのへそフェチに仕立て上げるのやめてくれる……?」
「デートの場所に応じた服装に変えただけ。わたし、こう見えても尽くす女だし」
「デートじゃないし、お前に尽くされる謂れはない」
至極、自然な動作で。
俺と恋人繋ぎをした月檻は、誘うように俺のことを街の中心部へと引っ張る。
「月檻の指が腐るから、恋人繋ぎするのやめてくんない?」
「目的のためなんだから我慢したら?」
月檻は、目を細める。
「狼になっちゃう?」
「虎やら龍を襲う狼はいねぇよ」
若年者のカップルに成りすました俺たちは、しつこい客引きを無視しながら人混みの中を進む。カラースプレーで描かれた下劣なイラストの前を横切り、ぐったりと肩を落としたまま動かない女性を横目で見る。
「……ココだ」
『Dionysos』。
そう銘打たれたナイトクラブは、歓楽の混沌でごった返している街の中心部から少し外れたところに存在し、薄汚い駅ビルの底に沈んだ澱のように地下へと続く階段の先でひっそりと落ちぶれていた。
3Fは違法風俗店、2Fはテナント、1Fはキャバクラ、B1Fに目当ての『Dionysos』があった。
傾斜のキツい階段を下りていった俺たちは、真っ黒な扉の裏側で待ち構えていた屈強な女性に肩を掴まれる。
「スコア0のゴミは入店出来ない。帰んな」
その瞬間。
俺の肩にかかっていた小指を月檻が捻り曲げ、悲鳴を上げた女性の膝裏を蹴飛ばして這いつくばらせる。
「なに勝手に、人の男に触ってんの?」
脂汗を流しながら悶絶する女性を見下ろし、月檻は薄ら笑いを浮かべる。
「…………脆」
「月檻」
俺は、月檻の腕に手をかける。
「離せ」
「…………」
「離せ」
舌打ちをして、月檻は受付の女性を解放する。
赤紫色に膨れ上がった小指を抱えた彼女は、呻きながらその場に蹲り、寄り添った俺は応急処置を開始する。
「三条霧雨の紹介だ」
魔法による鎮痛剤の処方を終えて、怯えきっている彼女の背中を撫でながら、俺はキリウが捨て駒に使った半グレの財布から抜いた名刺を突きつける。
「頼む、中に入れてくれ。あんたの迷惑がかかるようなことはしない」
「…………」
「頼む」
引き金。
毛髪を逆立たせた月檻が、俺を庇うように前に飛び出して剣柄を握った瞬間、眼の前で引き金を引いた受付女性の指示に従い、機械式の施錠が外れて空気音と共に『Dionysos』へと続く黒扉が開かれる。
「ありがとう」
微笑みかけると、女性はそっぽを向いて頬を染める。
俺は、なけなしの財布の中身を治療費として彼女に無理矢理握らせてから、黒扉に手をかけて――月檻の方を振り返る。
「指、折ろうとしただろ?」
「…………」
「月檻」
「…………」
「お前、俺が魔法合宿に参加してた時……なにしてた? お嬢のところにいなかったのか?」
「…………」
無言で。
月檻は、どかりと俺の背中に頭を預けて腰に両手を回してくる。
「拗ねんな」
「…………」
「匂いを嗅ぐな」
「…………」
「脇腹をさわさわするな」
「…………」
拗ねきってスネちゃまになった月檻は、ボディタッチを拒否すればトコトコ歩いてひとりで帰ってしまいそうな危うさを感じた。
百合ゲーの主人公がクソ男に甘えてバックハグしている現状に、喉元まで嘔吐感がせり上がってくる。
鋼の意思で耐えきった俺は、自身に『ココでひとりで帰らせるわけにはいかない』と言い聞かせ、こちらに全体重を預けきっている月檻をずるずると引きずって入店する。
瞬間――爆音。
耳をつんざくようなクラブミュージック、ピンク色のライトが四方八方で狂い咲き、酩酊で濁った空気が鼻孔に入り込む。
ぬめった汗と肉の香り。
薄着の若い女性たちが、恍惚とした表情で腰を揺らしながら踊る。
倒錯した女たちを貫くレーザービーム、ステージ上で爆音を響かせるスピーカー、時代遅れのミラーボールは魔法で液体を撒き散らし、甘ったるい冷水を浴びた観客たちは透ける一張羅を無視して踊り狂う。
人。
人、人、人。
掻き分ける度に、肉が身体中にぶつかる。
タッチ、ハグ、キス……エトセトラエトセトラ。
浴びるように酒を飲みながら、口移しで酒乱をこなす集合体。舌の上に載っていた切手シートが散らばるフロア、酒杯に籠められた淫靡な香り、この空間であればなにをしても許されてしまうかのような倒錯感。
眩む。
まわる視界、したたる表面、ねつを帯びる体躯。
必死で、俺は引っ付いている月檻を離さないようにして進み続ける。
「…………気色わる」
ぼそりと。
月檻はつぶやき、俺は心中で同意する。
眼前で行われているのは、淫猥と猥雑を煮詰めた魔女の宴会、肌と肌を通して脳と脳を繋いだ異端の呪法。
きっと。
俺は、顔を上げて――2階のVIP席、締め切られた漆黒のカーテンの裏側から、こちらを見下ろしている目玉を捉える。
この場を支配しているのは、蠱業を舌で紡ぐ魔女だ。
俺は、階段を上る。
一段、一段、一段を歩き上る愚者の足音、悪魔崇拝の密会に迷い込んだ愚か者の列伍。
具合が、悪い。
一歩、足を踏み外しそうになって――お兄様――思い切り、踏み込み、俺は腕にしがみついている月檻を引っ張りながら上がる。
黒い。
漆黒のカーテンで、円く仕切られたVIP席。
その喜劇染みた緞帳の裏側で。
真下の狂乱から、眼で饗宴を縁取り、鼻で盛宴を吸い込み、口で躁宴を味わうかのように。
ぐったりと、ソファーに凭れ掛かる人ならざる者の影。
たった独り、独々と流れる蠱独。
くたびれたスーツ、ネクタイを緩めて気道を確保し、濁った両眼で虚空を捉えている三条霧雨は――紫煙をくゆらせる。
「キリウ」
俺は、夜宴を司る魔女へとささやく。
「レイとスノウは……どこだ?」
彼女は、なにも答えず。
ただ、ぽっかりと開いた口から――煙が漏れた。