リコレクション・メリーゴーランド
トーキョーからトチギへ。
ナス高原のリンドウ湖を囲むように敷設された遊園地、子牛やアルパカが居る牧場を目玉としているレジャーパーク『リンドウ・レイクビュー』……殆ど人のいない園内を見回し、俺は、はしゃいでいるレイに目線を向ける。
「うわぁ……懐かしい……!」
袖口と裾にフリルをあしらったフリルトリム。
パーティー用の上品なベルトドレス、黒と茶のツートンのワンピースに厚底の黒いバンプス。
目を細めてリンドウ湖を眺めるレイは、三条家のお嬢様とは思えないくらい一般的な女子高校生のデートファッションを着こなしていた。
「お兄様」
湖から吹いてくる涼風を受けながら、陽光できらめく黒髪をなびかせたレイははにかむ。
「写真、撮りませんか?」
俺の返答を待たずして、彼女は園内スタッフに声をかける。
「すみません」
声をかけられた女性スタッフは、眼前の美少女に一瞬だけ気をとられてから、少し訛りのあるイントネーションで撮影係を受け入れる。
「れ、レイさん……?」
当たり前のように。
俺の腕を両腕で抱えて全身を押し付けてきたレイは、ちっちゃなピースを作って俺の肩に頭をくっつける。
「コレは、少し、兄妹的常識に欠けるとは言いませんか……?」
「いいえ、仲良し兄妹の常識には適してます。むしろ、兄妹的常識に欠けている常識知らずはお兄様の方です。猛省してください」
香水の香り。
デートの前に『この中だと、どれが好きですか?』と尋ねられて選んだ柑橘系の香りが、肩口に触れている柔らかな髪と共に俺をくすぐる。
「…………」
「ほら、お兄様、笑って!」
仕方なく。
引き攣り笑いを浮かべた俺は、満面の笑みを作ったレイとツーショットを撮る。
年季物の使い捨てカメラを頭上に掲げ、ニコニコと笑いながらレイは思い出を覗き込む。
「魔導触媒器で撮れば良かったんじゃない?」
「コレじゃないと」
スクエアバッグへと、使い捨てカメラを仕舞ったレイは微笑む。
「コレじゃないとダメなんです」
「……さようですか」
ぐるりと、園内を一周している豆汽車。
利用客が殆どいない遊園地内を走り回る汽車は、緩慢な動作で停車駅に停まり、子供たちを乗せてまた走り始める。
そのボディの塗装は剥がれ落ちており、車内に仕込まれたスピーカーから雑音混じりの汽笛が鳴った。線路の一部が斜めっているのか、修繕費用を当てられていないソコでがくりと揺れてから発進する。
人気のない場所には似つかわしくない、調子外れのアコーディオン。飛び跳ねる音符の群れに合わせて駆動音を響かせながら、老朽化したメリーゴーランドが回り続けている。
「…………」
そわそわと。
落ち着かなそうに、レイはメリーゴーランドを瞥見する。
「乗れよ」
「えっ」
振り向いたレイは、俯いてからちらりと目線を上げる。
「……こ、この歳で大丈夫でしょうか?」
「歳も何も関係ねーんだよ、こういう場所は。そこらの村娘だろうと三条家のお嬢様だろうと異星から飛来したアダムスキー型宇宙船だろうと、然るべき料金を支払えばメリーなゴーランドにGOして良いんだ。
おら、写真撮ってやるから行って来いよ」
使い捨てカメラを受け取ろうと差し出した手に、白魚のように美しい指先がそっと重ねられる。
「ひとりだと恥ずかしいので……エスコートを」
「いや、俺は」
上目遣いで、頬を染めたレイは俺を覗き込む。
「…………ダメ、ですか?」
「…………」
押し切られた俺は、遊具前のスタッフに声をかけて――
「っかしぃよなァ!!」
前に座ったレイの腰を抱き抱える形で、白馬の遊具に跨った俺は思わず叫ぶ。
「なんで、コレだけガラ空きなのに二人乗り用に誘導されたの!? コレ以外、すべて修理中なんてミラクル起きるわけないよね!?」
園内を掃除していた清掃員が、メリーゴーランドのスタッフとすれ違い――目にも留まらぬ速さで、その懐に封筒を入れる。
「はい、賄賂ォ!! アールスハリーヤ教徒、確定!! テメェ!! 人様の絶望で成立してるテーマーパーク作ってんじゃねぇぞ!!」
「では、行ってらっしゃいませ」
喚いている俺を無視して、ゆっくりとメリーゴーランドが回り始める。
「「…………」」
耳まで赤くしたレイは、両手で顔を覆ったまま一言も発さず、俺は俺でそんなレイが危なっかしくて腰に腕を回したままで身を任せる。
「「…………」」
賑やかなメロディー。
白馬の遊具が上下する度、親指の辺りに接触してくる柔らかさ。手触りの良い生地越しに感じる感触、その一点に意識が集中しそうになった自分を心中で殺す。
「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、色即是空……」
唇を噛み切った俺は、ブツブツと摩訶般若波羅蜜多心経(全600巻)を唱えながら必死で空を思い描く。
永遠にも思えた時間が経過し、ゆっくりと速度が落ちていく。
ようやく、遊具が止まって俺は安堵の息を吐いた。
下唇からの出血で顎が血まみれになっていた俺は、颯爽と白馬から下りてガクガクと震える両足で大地に下り立つ。
続いて、レイが遊具から下りようとして――
「きゃっ!」
介助をしているフリをした偽スタッフにそっと背を押され、勢いよく俺に抱きついてくる。
咄嗟に抱き止めて、一気に接触面積が増える。
身体の前面と前面がくっついて、俺の頬にきめ細やかな絹糸のような黒髪が擦れる。驚愕で上下する両胸、左胸の鼓動が接触面から伝わってきて、桜色の唇の隙間からこぼれ落ちてきた吐息が俺の耳をくすぐる。
「も、申し訳ございません、お兄様……大丈夫ですか……?」
遊具から落ちかけているレイは、俺の首に両手を回して必死で縋り付いてくる。もぞもぞと彼女が姿勢を直そうとする度、柔らかな柔らかが柔らかで、柔らか柔らかなので柔らかであるがゆえに、柔らかに柔らかで柔らかだった(文豪)。
「彼氏さん」
スタッフに成りすましたキエラは、にこやかな笑顔でささやく。
「脇の下に両腕を通して、彼女さんを下ろしてあげてくださいね」
「て、てめぇ……てめぇが……おろ……おろせ……おろせぇ……!!」
ガクガクガクガクと。
尋常ではないくらいに震えている両足、自身がなにをやらかしてもおかしくはないという状況にまで追い詰められた俺は喘鳴を上げる。
「お、お兄様、下ろせそうでしょうか……?」
「わ、わかんなひぃ……わかんなひぃよぉ……っ!!」
ガクガクガクガクガクガクガクガクガクガク。
己の両足に搭載されていたらしいバイブレーション機能が、ここぞとばかりに性能を発揮して小刻みに上下左右に暴れ回る。
やっとの思いで、俺は遊具からレイを下ろし終える。
「あ、ありがとうございました……」
「…………」
精根尽き果てた俺は、遊具の裏に隠れて『きみが○ぬまで恋をしたい』を精読してクールダウンした。
その後、吹っ切れたように。
レイは各種アトラクションに俺を連れ回し、ふたりでペダルボートに乗ったり、敷設型特殊魔導触媒器で高速化したジップラインに挑んだり、牧場で子牛に牛乳をやったりアルパカを眺めたりした。
レイは、俺の腕を引っ張って次のアトラクションへと向かって行き、園内レストランで食事した時にはしきりに「美味しい」と連呼したり、遊覧船の上では近くの子供と同じくらいにはしゃいで対岸の人々に手を振っていた。
あたかも。
悪い魔女から受けた呪いから解放され、幼い時分を取り戻したかのように……三条黎は、現在までに見せたことのない素敵な笑顔を覗かせた。
時は、流れる。
日は、暮れる。
夢は、終わる。
幾重にも塗り直された塗装は、また剥がれ落ちて現実を見せつける。
錆色の芯柱を露出している観覧車。
紅と橙。
空の中心で混じり合った二色は、逢魔が時を天の指針として示した。
賑やかに鳴り響いていた音楽は鳴りを潜め、思い出の時間は薄く伸ばされ消えてゆく。伸びた闇の指先が観覧車の根本にそっと触れて、閉園時刻を間近に迎えた家族連れは手を繋いで帰路に着く。
「…………」
無言で。
レイは、三人の家族連れが作り出した影を見つめる。
太陽に触れようとして蝋の翼を溶かしたイーカロスの教訓を踏まえるように、レイは決して幼い少女を挟んだ家族を直視しようとはしなかった。
眩しすぎる光は、人を傷つける。
遮光板を通して太陽を覗き込むように、レイは影を通して家族を見ようとしていた。
陰に潜み、影を視る。
のしかかるようにして、頭上に聳える観覧車。
その巨躯に押さえつけられて、身動きが取れなくなって、そのまま押し潰されてしまいそうに思えて……俺は、薄紅に染まったレイに声をかける。
「乗らないのか?」
「……いえ」
レイは、微笑む。
「帰りましょう」
そのまま、彼女は一歩を踏み出し――俺は、その手を掴んだ。
「乗るぞ」
「…………」
「乗る」
引きずられるようにして。
項垂れたレイは俺に付き従い、ふたりで観覧車へと乗り込む。
ゆっくりと、巨大な遊具は動き出す。
「…………」
窓に頭を預けて。
俺の向かいに座ったレイは、ぼんやりと風景を眺めていた。
「…………」
「…………」
暮れ六つ。
廻る度に、刻は流れ落ちる。
「…………幼い時に」
唇を殆ど動かさず。
俺から顔を背けたままで、レイはぼそぼそとつぶやいた。
「幼い時に……パパと……ママと……よく、この遊園地に来ました……たまに、両親共に休みがとれることがあって……何回も何回も行ってるのに、私は連れて行ってもらう度に大はしゃぎで……あまりにはしゃぎ過ぎたせいで、ふたりとも最後には疲れ果ててました……」
透明色の表情。
ガラス窓に映るレイは、無表情で外側に目を向ける。
「楽しかったんです、とっても……私、メリーゴーランドが好きで……何回も乗せてもらいました……パパに後ろから抱えてもらって……ママは一生懸命に写真を撮ってて……レイー、レイー、笑ってーって……何度も言うんです……だから、私、笑って……パパもママも笑ってました……」
ゴンドラの部品の隙間。
そこに潜んでいた前日の雨が漏れ、ガラス窓を伝って零れ落ちていく。レイの目元をなぞるようにして、そのたった一粒は消えていった。
「あの頃と……この遊園地は変わりませんでした……でも、私は変わってしまった……アレだけ大きいと思っていたのに、現在ではとっても小さいように思える……どこまでも……どこまでも、この世界は広がっていて、どこにでも行けると思っていたのに……」
縋るように。
レイは、ガラス窓に手を当てる。
「この遊園地で迷子になった時」
視えない壁に阻まれたまま、か細い声音で彼女は続ける。
「いつも、パパが迎えに来てくれるんです……いつも……いつもいつもいつも……眩しい日の光に包まれて、お仕事で傷ついて汚れた手が伸びてくる……『レイ、帰ろう』って……いつも、そのことが不思議で……なんでだろう、どうしてだろうって……だから、私、『なんで、私のことを見つけられるの』って聞いたら……」
彼女は、微笑を浮かべる。
「『家族だから』って」
笑みを浮かべたまま、レイは目を閉じる。
「家族だからレイを見つけられるし、家族だからレイのことを置いて行ったりしないよって……」
「…………」
「正直者のパパが私に嘘を吐いたのは、その生涯でたったの一回だけでした……だから……だから、私は……未だに、パパに見つけてもらえると思ってるのかもしれません……正直者のパパが、迎えに来てくれるかもしれない……手を伸ばして、この手を握ってくれるかもしれないって……」
そっと。
レイは、透明な窓に映る自身の目元を親指で拭う。
「そんなこと、もう有り得ないのに……」
「…………」
「お兄様」
靴を脱いで。
小さな子供みたいに席上で膝立ちになったレイは、頂点に差し掛かったゴンドラの中で眩しい光の只中を指差した。
「私、ずーっと遠くの、あの辺りで暮らしていたんです。このくらいの時間になると、ママがお夕飯を作り始めて、私はわからない宿題の番号に丸をつけて、パパが帰ってきたら教えてもらうんです」
俺には視えない。
家族と一緒に過ごした時間を指差し、彼女は優しく微笑む。
「綺麗ですね……」
両手をガラス窓に押し当てて。
ちっちゃな声で、押し隠すように彼女はつぶやく。
「とっても綺麗……」
行儀の悪い膝立ちをしている彼女の後ろで、歪なくらいに綺麗に揃えられた両の靴を見て……俺は、静かに目を閉じた。
「おせーんですが」
遊園地を出ると。
ジャージー乳のソフトクリームを舐めながら、出待ちしていたスノウに出迎えられる。
「悪いな、ついつい少年の心が騒いで長居しちまった」
「今回のところは、寛容な美少女ハートで許してあげますよ。
レイ様」
スノウは、レイに優しい笑みを向ける。
「楽しかったですか?」
レイは、微笑を浮かべて頷く。
「では、帰りまし――」
「あ、待って」
慌てて、レイはバッグを弄り始める。
「スノウ、最後に写真を撮っても良い?」
「あ? 入場した後に、ふたりで撮ったよな?」
「三人で」
レイは、鞄を探りながら必死で俺に訴えかける。
「三人で撮りたいんです、どうしても。お願いします」
「それは、まぁ、良いけど……」
地面にバッグを下ろして。
中身を次々と取り出しながら、使い捨てカメラを探すレイの顔に焦燥感が滲み始める。
「あれ……どこ……あ、あの時、確かにバッグに仕舞って……ど、どうしよう……どこかに落として……いやだ……なんで……」
乱雑な手付きで。
必死の形相でバッグの中を掻き回したレイは、その中のどこにもカメラがないことを確認して両目に涙を滲ませる。
「どうしよう……落とした……なんで、私……嘘……どうしようどうしようどうしよう……さ、探さないと……探さなきゃ……!」
「はい、ストップ」
駆け出そうとしたレイの手首を掴んだ瞬間、彼女の顔面が歪む。
「使い捨てカメラなら、ここら辺りのコンビニなら売ってるところもあると思うが……大事なモノなんだな?」
「アレじゃないと……」
レイは、頭を振る。
「アレじゃないと……ダメなんです……」
「わかった、探そう。
スノウ」
「先程、スタッフの方には連絡しておきました。大丈夫、あそこまで大きいモノなら見つかります。まだ、閉園時刻にまで余裕がありますから総出で――」
「その必要は御座いません、清らかなる戦乙女」
忽然と。
何時もの法衣に身を包んだキエラが現れるなり、恭しい手付きでレイへと使い捨てカメラを手渡す。
「こちらですね、戦乙女。
大変申し訳ございません。メリーゴーランドで押し――下馬の介助をした際に、開いていたバッグの口から零れ落ちてしまったようで」
引き連れている信徒と共に、彼女は深々と頭を下げる。
「此度の不手際、誠に申し訳御座いませんでした。申し開きも御座いません。ただいまより、腹を切ってお詫び申し上げます」
「やめろ、俺みたいなことするな」
顔を上げたキエラは、にこりと笑う。
「お詫びというわけではありませんが、もしよろしければ御三方の写真を撮影させて頂いてもよろしいでしょうか? 陳謝の意として受け取って頂ければ、恐悦至極、このキエラ・ノーヴェンヴァーにとって最上で御座います」
「良かった……ありがとうございます……ありがとうございます……」
何度も頭を下げて。
感謝を伝えたレイは、改めてキエラにカメラを託した。
「……で?」
レイとスノウの間に挟まり、両脇から密着されている俺はつぶやく。
「なんで、俺が真ん中なの? 普通、こういう時はレイが真ん中でしょ?」
「良いから黙って、その消費期限切れの顔面をファインダーに収めることに意識を集中させてくださいよ」
「誰の顔が廃棄予定だ、素敵な言葉をありがとう」
「お兄様、笑顔、笑顔ですよ」
きらめく笑顔で、レイはピースサインを伸ばす。
その楽しそうな笑い顔に負けて、俺は微笑んでからピースをした。
「撮りますよ~!」
俺、レイ、スノウは三人で並んで笑う。
シャッターが切られて、楽しかった時間が永遠にフィルムへと刻まれる。
夕暮れに浮かび上がった、俺たちの影は実体と共に光へと収まった。何時か、三人全員がこの瞬間を忘れたとしても、小さなこのカメラに籠められた思い出は残り続ける。
きっと、何時までも。
「やっと、思い出カメラがいっぱいになりました」
「あ? 思い出カメラ?」
俺に目配せしたレイは、ふふっと笑って大切なカメラを撫でる。
「宝物にします」
レイは、笑いながら言った。
「ずっと、大事にしますから……ずっと、憶えてますから……ずっと、消えたりしませんから……ずっと……ずっと、ずっと、ずっと……」
そう言って。
鳳嬢魔法学園に退学届を出したレイは、スノウと共に姿を消した。