その手を引けるとしたら
凹んでいる天井。
亀裂入りの天井ボードを眺めた俺は、目線を下へと向ける。
「…………」
雨上がりに轢かれたカエルみたいに。
床の上に大の字で寝そべるホワイトバニー……エイデルガルトは、片鼻から鼻血を流しながらぼんやりと上方を眺めていた。
折れたうさ耳を直すつもりはないのか、中程から折り目のついたソレはぐにゃりと元気なく垂れている。
「なにしてんの?」
「……昼寝よ」
「鼻血流しながら? 襲撃の最中に?」
エイデルガルトは鼻で笑う。
「キリウにノートパソコンを奪われたわ。あの女性、アカデミー主演女優賞でも狙ってるのかしら」
「あぁ、なるほど……端から、カオウが目当てか。俺を狙ってるように見せかけてただけで、あの黒スーツ集団も捨て駒ね。
俺とカオウの会談を阻止出来れば、キリウの目的は達成出来るわけで。わざわざ、俺を連れ去るよりかは意表を突いてPCを持ち出した方が楽だもんな。賢い」
「私ほどではないわ」
「そうだね。
ところで、お前、自分のどこに賢さ見出してんの?」
うめき声を上げながら、倒れ伏しているキリウの配下たちに目を向け、俺は床の上でくすぶっている煙草を拾い上げる。
「ポイ捨てが得意なヤツだな」
「ある時点から、目的のためには手段を選ばない非道に堕ちた女性よ。魔人なんぞと手を組んで、私のように美しく力強いスーパー忍者からモノを奪うなんて畜生のすることね」
「別に、ノートパソコンくらいくれてやれよ。どうせ、ネット通販でまともにスペックも見ずに買わされた型落ち品だろ?」
「……アレじゃないとダメなのよ」
片腕で。
目元を隠したエイデルガルトはささやく。
「あの女……魔法合宿の時から、あのノートパソコンを奪うことを画策してたわね……燈色さんに近づくことが目的ではなく、燈色さんに近づく私とカオウが目当てだった……道理で、燈色さんを泳がせてるわけだわ……」
「要は、カオウが俺と接触すると確信してたわけだ。その上、接触方法すらも予見していて、ものの見事にキリウの計画通りに運んだ」
むくりと。
エイデルガルトは起き上がり、お上品にハンカチで鼻血を拭った。
「カオウを取り戻すわ」
「別のノートパソコンで、カオウと連絡を取ることは無理なのか?」
「無理だから言ってるの。燈色さんは忍者にとって無理なことはひとつもないと思っているのかもしれないけれど、事実、そのとおりよ」
「…………」
深く考え込んでいた俺は、真剣な顔でささやく。
「お前、なに言ってんの?」
「暫く、ステ留守するわ」
「なんて?」
乱れた髪を直しながら、エイデルガルトは丁寧に自身の血を拭き取る。
「意外と教養が雑魚なのね、燈色さん。ステルス+留守でステ留守。プロの忍者間で使用されている隠語よ。意味は、留守にするということね」
「隠語ですら隠れてないって、あまりにもキャラが徹底し過ぎてるだろ」
彼女は、折れたうさ耳を立て直す。
「プロの忍者が留守にするということは、燈色さん、暫くの間は私と会えなくなるということを意味するわ。寂しい思いをさせてごめんなさい。
これからは、朝食と昼食と夕食にしか会えなくなるわ」
「プロの忍者、自称家出中の中学生と同レベルなんだが」
「ご主人様」
スノウに呼ばれて、一瞬だけ目線を逸らす。
再度、振り返った時には白兎の姿は忽然と消えており、俺は焼け焦げた袖口を破って放り捨てる。
倒れ伏す黒スーツたちの懐から、手慣れた手付きで財布の中身を抜いていたメイドは札束で己を扇いだ。
「暇なら、札拾いを手伝ってくださいよ。働かざる者、昇竜セビキャン前ステ滅波動ですよ」
「それ、ゴミ拾いみたいな慈善事業とはかけ離れた犯罪行為なんだわ」
俺は、スノウと一緒に金銭を奪取しながら身分証明書を確認する。
「……コイツら、雇われか」
「大体、キリウ様はカブキチョー辺りをうろついてる半グレを使いますからね。あの周辺は、あの御方のテリトリーです」
スノウは、すっと、二本指で挟んだクラブ『Dionysos』の名刺を揺らす。
「このクラブも、キリウ様の傘下ですよ」
「三条家の人間とは思えないくらい、キリウもカオウもやりたい放題だな。アレだけ締め付けられてるレイとは違って、息苦しさなんて感じたことないんじゃねぇのか?」
「……本質的には、彼女らは三条家の人間ではありませんからね」
ぱんぱんと。
ホコリを払ってから立ち上がったスノウは微笑む。
「帰りましょうか、私たちの家に。レイ様がお腹を減らして待ってますよ」
最近、黄の寮に棲み着いている妹を思い出し、勝手に持ち込んだソファーに寝そべりながら足をパタパタしている彼女の姿を思い描く。
「楽しそうですよ、貴方のお陰で」
「なにが?」
「れーいーさーま」
微笑を浮かべたまま、スノウはからかうように俺の手の甲を撫でる。
「ずっと、欲しかったんだと思います」
「あの新作の百合ゲー? なんか、ずっとやってるもんね」
腰にミドルキックをぶち当てられ、俺は「うっ」とうめき声を上げる。
「バカか。二束三文のそんじょそこらの恋愛シミュレーションゲームでも、ヒイロ様が喜ぶからプレイしてるに決まってんでしょ。鼻息荒くしながら「た、たのしい……? たのしい……?」と尋ねてくる妖怪のキモさになぜ耐えられるのかは謎ですが」
「だ、だったら、なにが欲しかったんだよ?」
「家族」
憧憬にまみれた目で、彼女はささやいた。
「ずっと、レイ様が……私と一緒に望んでいたもの……現在、ようやくその手の中に入って……楽しくてたまらないんだと思います……」
「こんな金髪うすら笑い軽薄フェイスの兄でも良いの?」
「クーリングオフ期間は過ぎてしまったので仕方ないでしょ」
にこりと、スノウは俺に笑いかける。
「レイ様に手を出したら殺しますよ」
「俺が自殺する方が早いと思う」
「でも、手をつなぐくらいならカワイイ浮気として許します」
「お前が許しても、俺は許さないわ」
「許しますよ」
したり顔のメイドは断言する。
「貴方はお人好しの間抜け面だから……きっと許します」
「…………」
「手」
俺へと。
小さな手を差し伸べたスノウは、ぶんぶんと自分の手を縦に振る。
「てぇ~!」
なんとなく。
ココで手を繋がなければ、スノウの大切な何かを蔑ろにする気がして――俺は、その小さな手を握った。
「ほら、ね」
嬉しそうに、彼女は俺を覗き込む。
「許した」
無言で。
俺は歩き出し、手を繋いだ彼女は付いてくる。
「離しちゃダメですよ」
俺は、浴槽の中にこびりついた黒い塊を思い出す。その真っ黒な塊を『お母さん』と呼んで、俺に助けを求めた小さな女の子のことも。
「離れちゃダメですよ」
俺の実在を確かめるように、たどたどしくスノウは指を絡める。遠慮がちで臆病で、ひとりぼっちに慣れた人間の距離感。
「家族は……一緒にいないとダメですよ」
しっかりと。
俺は、ちいさな彼女の手を握る。
「地獄に行ったって、追いかけていきますから……もう、ひとりぼっちは嫌ですからね……約束、ちゃんと守ってもらうんですから……ずっと一緒に……離せって言われても離してやりませんから……」
三条家との接触が増えて。
危機感を覚えていたスノウは別離の気配を色濃く感じ、その不安と焦燥は感情となって口から漏れ出ていた。数分前よりも、ずっと幼くなって見えるちいさな女の子は、俺に縋るようにして言葉を紡いだ。
「離れちゃやだよ、ヒイロくん……」
こんな風に、手を繋いでくるのも。
毎朝、俺の布団に潜り込んでくるのも。
軽口や毒舌を吐いても、俺が離れていかないかを確認するのも。
小さな頃に唯一の家族を亡くした経験からなる『不安』から発せられるものだと知って、俺は、彼女が抱えていた脆くて弱い心を感じ取った。
だから。
だから、俺は答える。
「……言ったろ、家族になってやるって」
スノウは、ゆっくりと目を見開く。
「俺は、一度、誓った通りにお前を見捨てない。なにがあろうとも。近づくなって喚いても、お人好しの間抜け面で付き纏ってやる」
俺は、彼女に微笑みかける。
「今度は、俺から手を繋ぎに行くよ」
顔を伏せたスノウは、とぼとぼと歩きながら俺に引っ張られる。
「……うん」
俺は、彼女の手を引いて、陽の光の下へと向かっていき――
「お兄様」
帰宅して夕食を終えるなり、たどたどしい妹の誘いを受ける。
「デート……お願いします」
「は?」
皿を重ねていたメイドは、俺たちの様子を確認して微笑み……ひとり、キッチンへと向かっていった。