忍んでいた者
風が吹く。
一際高い電柱の上に立つ人影は、そよ風を受けて髪を踊らせた。
「えぇ、発覚していないわ」
獣じみた平衡感覚で直立する彼女は、開いている画面へとささやきかけた。
「あの魔法合宿の参加者全員……当然、彼も、わたしたちが自殺呪詛を仕掛けたとは知らない」
画面の向こう側。
なにも表示されていないその黒画面へと、彼女は定例報告を続ける。
「そう、破絶のQの仕業だと思っている。我々としては僥倖と言えるのでしょうけれど、図らずもQに利用される形になったわ。クロエ・レーン・リーデヴェルトを通した上で、自殺呪詛を解析して転用したQの手管は魔人らしく異常としか形容出来ないわね。
鳳嬢の自動訓練人形に、貴女の自殺呪詛を仕掛けるところまでは良かったけれど……本来の目的を果たすことは出来なかった」
午睡にたゆたう天使のような横顔。
その美貌には一点の陰りもなく、スクリーンに映る女優のように彼女は顔をしかめた。
「正直、彼にはバレていると思ったわ。
だって、こちらが誘き寄せる前に魔法合宿に参加することになったんだもの。しかも、下準備の最中に鳳嬢の前で出くわすことになって焦ったわ」
黒画面からの問いかけに、彼女は首を振る。
「大丈夫、問題ないわ。
腕を折って誤魔化したから」
喚き声が辺りに散らばって、その美しい顔が歪んだ。
「人間の記憶は、案外、いい加減なものなのよ。衝撃が大きい方に引っ張られる。腕を折るくらいのことはしないと。問題ないわよ、ちゃんと胸ポケットに治療代を支払って示談で終わらせたから」
掻き上げられた髪が、青空へと吸い込まれるように瞬く。
「怪しまれる? わたしを誰だと思ってるの? この世界に、わたし以上にスニーキングミッションに適した女がいると思う?
懸念点があるとすれば、人質と一緒の部屋に居たところを視られていることくらいかしら……えぇ、貴女の心配はわかるけれど、上手く錯乱させたから問題ないわ。ちゃんと、首謀者の写真を見せてあげたの、インカメラで撮ったヤツ。まさか、あの場面で真犯人が自撮りで自白するとは思わないでしょう?
『度会椎名』という架空の生徒を作り上げ、その姿で撹乱も行ったからまず真実には辿り着けない筈よ」
くすりと、彼女は笑う。
「心配しないで。わたし、房中術には自信がないけれど、この肉体のことは信頼しているの……居候にかこつけて、彼のことを虜にしてみせるわ」
画面は沈黙する。
数秒の間を置いてから、ぼそりとつぶやき声が漏れた。
「そうね、貴女の言う通りだった。彼は他の男とは違う。捨て置いて良い存在じゃないわ、勘が良い上に頭も切れる。戦闘センスだけで言えば、あのアステミルすらも凌駕しているかもしれない。ほんの少しの違和感から、正答へとたどり着く頭脳を持っている。
男である彼に向けられる目は徐々に変わってきている。各界の大物が彼に利用価値を見出し、接触を図ることになるでしょうね。最早、古来から続いてきた不文律が崩れ去るのも時間の問題」
佇立する少女は、桜色の唇を動かし続ける。
「きっと、霧雨はもう確信している……なんの躊躇いもなく、彼女はその罅に手をかけて、こじ開けるでしょうね……殻の内側で丸まる胎児のことなんて気にせずに……レイはもう助けられない……」
黒画面は。
なにも言わず、完全に沈黙する。
「華扇」
エイデルガルト・忍=シュミットは、代わりに言った。
「三条家、徳大寺家、西園寺家……三家を巡った因果が……その血塗られた因縁が……藤原の因子をもって廻るわよ」
音もなく、画面は掻き消える。
ため息を吐いて、エイデルガルトは不気味なくらいに青い空を見上げた。
「燈色さん、出来れば、貴方には平穏な日々をプレゼントしたかったけれど……貴方は、きっと、己を案じることはないのでしょうね……普通の人間ならば諦めるような場面でも、貴方は足掻いて手を伸ばす……その先にはなにもないと知っていても……」
伸ばした手。
その手を握り締めてから、彼女は微笑みを浮かべた。
「燈色さん、何時か、人は夢から醒めるのよ。
どんな人間でも、例外なく、ね」
忍。
その一文字を思い描いた彼女は、溢れ出そうとした感情を胸の内側へと押し隠した。
「さて、忍者として、誰にも見つからないように帰宅しましょうか」
彼女の視線は下に向いて。
きらきらとした目で、こちらを見上げる複数の児童たちを見つけた。
「わー、忍者のお姉ちゃんだー!! また、忍法みせて~!!」
「ダメよ、まみちゃん! 忍者は見つかったらダメなんだから! お仕事のじゃましたらおこられるわよ!」
「お姉ちゃん、そのすごいパンツどこでかったの~!?」
エイデルガルトは、微笑を浮かべる。
「やはり、業界ナンバーワン忍者ともなれば目立つことは避けられないわね……コレも、また、忍ぶ者の宿命といったところかしら……ふふっ……」
幼女たちに囲まれて下りられなくなったエイデルガルトは、向こうの屋根へと飛ぼうとしたものの、失敗したら幼女たちに笑われるなと思ってやめた。
「電柱……登らなければ良かったわね……」
わーわーと、さわぐ幼女たちを目下に。
腕を組んで彼方を見つめた彼女は、哀愁を帯びた表情でささやいた。